第五章【咎人共の羞悪(The sinners' shame and hatred of evil)】

33 庇護

「わ、私は……、私は……」

 どもりながら、小さな声で、歯切れ悪い物言いで、青山由栄は話し始めた。

 鮎京は唾をごくりと呑んだ。

「い、市原紗浦さんを、こ、この手で殺してなんかいません……」

「それは分かってる。あの殺人現場には誰がいたんだ?」

「わ、私と、つ、つ、妻です。でも、妻は市原紗浦さんを殺していません……」

 言わされている。鮎京は即座に青山由栄の発言を撤回させたくなった。

『先生、聞きました? 本人が証言してくれています』

 少し前までは、鮎京の中で鈴を転がすような声と形容し、あれほどまでに焦がれた麗人の発言は、汚れたフィルターを何枚も通過したかのように、忌まわしく聞こえた。

「留利? いるのかい?」

『そうよ! 大丈夫。私があなたを助けてあげるから……』

「ありがとう」

 ここに来てこの夫婦が会話したのをはじめて聞いた。電話越しの会話であるが。『助けてあげるから……』の後には、『言われたとおりにしてね!』という、言外の意味が含まれているように感じた。

「青山さん!」鮎京は、青山にもう一度尋ねた。「もう一度、ちゃんと考えてくれ! あなたの奥さんはどんな状態だった?」

 麓が『夫婦で酒を飲んで意識が朦朧もうろうとしていて、目が覚めて起きたらそこに市原の死体があったっていう変な供述をしたの』と言っていたのが思い出された。驚くほど鮮明に。だからこそ、なぜに断定的な証言に切り替わったのだ。

「は、はい。あのとき、起きると妻は横たわっていて、違う男が紗浦さんを八つ裂きにしていました」

 さらに断定的な口調となっている。マインドコントロールされているのだ。自分の無実を訴えるとともに、それが第三者の単独で行われていることを証言したのだ。

『可哀想に。無実の人間を逮捕して、懲役を科してるんですか。罰すべき人間を間違えたんですね。少なくとも、私も旦那も潔白。ということで、先生、私はこれで!』

『ちっ』誰かの舌打ちが聞き取れた。城野だろうか。

 たまらず、鮎京はスピーカー越しの美女に聞かせるように言った。

「あなたは、どういう経緯で市原紗浦の家にいて、どういう理由で彼女は殺されたんだ?」

 所詮は作り話だ。詳細を問えば、矛盾点が見えてくるに違いない。

 鮎京少し大きな声で迫ったためか、青山由栄は気圧けおされたように、狼狽うろたえている。

「殺された理由は分かりません。そ、その男のことは、私は知りませんから。でも、さ、紗浦さんに、私はあの日呼び出されたんです。紗浦さんと私は、実は、に、肉体関係がありました。留利という伴侶はんりょがいながら、です。そして、その日の夜も性行為に及びました」

 嘘だ。青山由栄が他の女性、しかも妻の妹という近い関係の女性に手を出すわけがない。これは準備されたシナリオだ。市原の死体から青山由栄の精液が検出されているのだ。

 それにしても、なぜそんな自らをおとしめるシナリオをかたれる。青山留利の描いた筋書きは、夫の名誉をさらに傷付けるものなのか。

「でも、何で留利が紗浦さんの家に来ていたのかは分かりません」と青山由栄は付け加えた。

 一方スピーカーからは、あの忌まわしい美女の声は聞こえてこない。余裕の表れだろうか。

『ほう。なるほどね。その肉体関係とやらはいつから続いていた?』

 いきなりハンズフリーのスピーカー越しに声が聞こえてきた。城野である。鮎京に託してくれたと思いきや、鮎京による聴取に不安を感じたのか口を挟んできた。青山由栄はだんまりだ。

「どうなんだ。いつから手を出しているんだ?」

 具体的なシナリオを語らせて矛盾を見出そうとする作戦である。

「も、もう三年前くらいからになります。一年以上は関係が続いていました」

「頻度はどれくらいだ?」

「ま、毎週です。しゅ、週に一、二回です」

 言わされている。鮎京は確信している。実直という言葉のごんのようなこの男が、妻子がいながらそのような行動を起こすとは到底考えられない。

「ちなみに、は?」

 鮎京自身も、特に少し前まではこんな言葉を使うことにずいぶん抵抗があったが、勢いで聞いた。

「つけてません。ずっとつけてません」

 青山由栄は断定するように言った。

 ついに言わしめた。

 おそらく青山由栄は留利をかばうあまり嘘をついているのだ。市原紗浦の膣内から青山由栄の精液が検出されている。つまり男性用の避妊具を装着しないまま性行為に及んだというシナリオを青山留利によって用意されていて、それどおりに言っているだけなのだ。

 それだとするとややおかしなことがある。つまり矛盾点だ。

「城野先生、お聞きになりました?」

『ああ、でかしたな!』城野もその言葉を聞きたかったと言わんばかりで、珍しく鮎京を褒めた。城野の意図がここに来て読めたのだ。

「市原紗浦は妊娠していたという情報はありません。つまりこれだけ避妊せずに性行為を行っていながら、それはおかしくありませんか? 青山……、いや青山さんの発言には矛盾があります」

 何故か急に静かになった。謎のスピーカー越しの静寂。

『……ックックック』この声はおそらくは青山留利の声だ。

 何故だ。

『──ックックッハッハッハッハッ──!』

 青山留利の声は次第に高笑いになった。不快なほど耳をつんざ

『鮎京さんでしたっけ? ご存じないなら教えてあげる! フフッ!』

 嘲笑を堪えきれない様子の青山留利。表情はこちらからは伺えないが、きっと見下すような表情に違いない。

「な、何なんですか?」

『紗浦は産婦人科に通っていたそうよ』

「な?」鮎京は驚いた。「妊娠していたんですか?」

『バカね。逆よ。ピルを服用していたのよ。妊娠しないようにね』

「何!?」

 つまり、青山由栄がどんなに膣内で射精しようが、ピルを服用していれば妊娠しないということだ。つまり紗浦の体内に青山由栄の精液が残されていたとして、それが常態化していたとしても、何らおかしくない。さらに、不義密通は日常的に行われ、それをあるときを境にトラブルに発展し、殺害の動機になることに何ら不自然さはないと言いたいのだろう。

「本当なのか?」

 ここで久々に麓が口を開いた。『アユちゃん、それ本当なの。市原紗浦が亡くなる直前までのピルの処方歴は確認してるんだ』

「……」鮎京の決め手のはずが返り討ちに遭う。同時に城野の推論は泡沫の如く消えたことを意味する。

『ふ、甘かったな』

『そうね。残念ながら甘かったようです。あなたの切り札は崩れたようで? ということで、私はこれで失礼します。早とちりな矯正医官さん?』

『はっは!』今度は城野がこうしょうした。『甘かったのは、アユキョーの切り札だけだ。俺は市原紗浦が避妊していたことくらい気付いていた。こんなに性に奔放そうな女性が、避妊していなかったとは考えにくい。ピルの服用は想定範囲内だ』

「ということは?」鮎京は城野に嘲笑されつつも、切り札がまだ残っていることに歓喜した。

『アユキョー、本当にお前は甘い! 甘甘あまあまだよ! もし日頃から青山と不貞行為三昧ざんまいで妊娠していたなら、俺が犯人の心理なら、子宮は摘出しない。胎児を残しておくな』

 城野は犯罪心理を推度すいたくするあまりものすごいことを言っているが、言わんとすることは理解できる。犯人は市原紗浦と青山由栄の日常的な不義密通をでっち上げたいのだ。仮にお腹に二人の子を宿していたのなら、それを残さないわけがない。

 しかし、不義密通を交わしていないことを証明するのは難しい。どう出るつもりだろうか。

『刑事さん』城野は麓に呼びかけた。『市原紗浦の遺体には、体幹や手などにブツブツの発疹があったんだよな?』

『はい。死斑とは明らかに異なる発疹がありました』

『アユキョー、そういうことだよ』

 司法解剖の鑑定書にそのように書いてあったのは覚えている。しかしこれが何を意味するのか、鮎京は分からないでいた。

「どういうことですか?」

『梅毒だよ』

「梅毒?」

 梅毒と聞いて丸森を思い出した。いや、ひょっとして久しぶりに再会した丸森と一回だけまぐわったときに、感染させられたということだろうか。あのとき丸森は性病の治療中だったということである。

『梅毒の初期は、バラしんと言って、ブツブツができる。発疹の正体はそれだ。梅毒はな、コンドームを装着せずに三回もやりゃ感染する。特に免疫抑制剤を服用している青山なら尚更だ。どうだ? アユキョー! 青山は感染症持ちか?』

「いいえ!」鮎京は即座に否定した。「ワ氏も肝炎もHIVも、すべてマイナスで、感染した既往もありません!」

『これほどまでに、水平感染のリスクが高いセックスを幾度となく繰り返しておきながら、青山が梅毒にかんしていないのが、このシナリオが捏造された裏付けじゃないのか?』

「さっきの、市原紗浦と肉体関係があったのは嘘だったんだな」

「……」

「答えてくれ! 嘘だったんだな!?」

「は、はい……」

由栄よしはる!!』

 青山留利の怒声が聞こえる。妻の用意したシナリオの一端が崩れた瞬間だ。続けて鮎京に尋ねる。

「じゃあ誰かに言わされてるのか?」

「……いえ」

 かばっている。このシナリオは、妻の青山留利によって仕組まれたものだ。そして、それを吹き込んだタイミングは、彼の制限区分が二種に格上げになり、面会に刑務官の立ち会いが不要となった段階で、それを実行したのだ。

 そして、そのお膳立てとして、青山留利、源氏名『ユリカ』の常連だった刑部所長に、そのようにけしかけたのだ。

『では、何で、青山さん、あんたの精液が、市原の体内に残されていたんだ? その男が、あんたの精液を採取する手立てなどないはずだ』城野が青山由栄に問う。

『念のため可能性を潰しておきたいんですが……』黒羽が、珍しく城野の声を遮って口を挟んだ。『青山自身には播磨も川越も、個人的な連絡手段は持たないんですよね?』

『そうだな。アユキョー、今すぐ聞いてみろ。今すぐ!』

 城野はなぜか、今すぐという言葉を強調しながら、鮎京に指示した。

「青山……さん、川越のこと知ってるか?」

「か、か、川越さん? あ、あ、あ、私の主治医の先生ですね。とてもお世話になりました」ひどく動揺している。知っている限りの情報を言おうとする必死さが見られる。

「彼のフルネームは? 住所は? 年齢は?」

「……」青山由栄は答えに詰まっている。

「じゃあ、播磨は知ってるか?」

「は、播磨?? えっと、えーっと……」

「ご、ご存じないんですね」

「……」青山由栄は答えられずにいる。知らない様子だ。

「じゃあ、あなたは二人の連絡先は知らないんだな?」

「……す、すみません」青山由栄は謝る必要性などないのに、なぜか謝った。この反応は、おそらく嘘などついていない。

「二人の連絡手段はないようです」

『サンキュー。この質問の意図は、精液を残したのが青山自身でないということを確認するためのものだ。市原が殺された現場には、青山夫妻がいた。でもこの二人に、臓器の摘出は技術的に無理がある。そこで、青山に、医師免許を持つ川越もしくは播磨に対して連絡手段があるかを確認する必要がある、っていうことだ』

 なるほど、理解した。間髪入れずに尋ねさせたのは、青山由栄に作り話を考えさせる隙を与えないためだ。

『ということで、消去法で、この事件は妻である青山留利の関与がないと成り立たねえんだよ!』

『そんな、無茶苦茶な! 当の本人が、青山留利はってないと言っています。この証言をもって、まだ私が黒幕だと言い張るつもりなの?』

 青山留利の、即座に否定する声が聞こえてくるが、城野はそれに答えず、代わりに鮎京に再度指示をした。

『アユキョー、丸森を連れてきてもらっていいか。サイジョーに頼んでくれ』

『ちょっと聞いてる!?』

 青山留利の訴えが聞こえるが、それ以上に城野の発言に鮎京は驚いた。

「丸森っすか!?」

『あいつ、ワ氏陽性だろ? 早く』

「はいっ!」

 そう言えば、鮎京が城野に、市原と丸森が昔交際していたという情報を提供したとき興味を示していないように見えたが、しっかりその情報を覚えていたようだ。

 すぐに西条のPHSの電話番号を電話帳から探し当てて、ダイアルする。

『はい。西条です』巡回中だからか西条は小声で応答した。

「鮎京です。大至急、463番の丸森も、医務室に連れてきてもらっていいですか?」

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