28 稟賦

「所長って、アユちゃん、遠州刑務所の」

「そ、そうだよ! うちのボスだ」

 鮎京はさすがに慌てた。どうする。

「千載一遇のチャンスじゃないか? 声かけるぞ!」

「まじか!?」

「取り逃がす気か? 所長とユリカに現状を理解させる。一石二鳥じゃないか」

「しかし……」

 まごついたが、確かにチャンスかもしれない。でもどうやって切り出す。いち下っ端の看守があの堅気に見えない所長の遊興の最中に物申すなど、言語道断に思えるが。迷っている間に所長と『ユリカ』は店のある雑居ビルに近付いてくる。

「つべこべ言わずに行くんだよ!」

 黒羽がぐっと鮎京の背中を押した。物理的に、である。力強く押し出された鮎京は、たたらを踏みながら二人の前に出てしまった。

「危ないだろう。気を付けたまえ!」

 『ユリカ』は鮎京の存在に気が付いたか目を見開いたが、所長はまさか自分の所属の末端の部下だと気付くはずもなく、注意をのたまった後、横に逸れて店内に入ろうとした。

 もう行くしかない。

「あのう! 貴方あなたがたにお話があります」

「何だ? 俺は忙しいんだ!」所長は無視して中に入りかけた。

「遠州刑務所の刑部所長!」

 さすがにこの言葉を聞いて、立ち止まらずはいられなかったようだ。

「君は一体誰だ?」

「遠州刑務所看守、医務課配属のあゆきょうまさると申します!」

 形式的に右手を挙げて敬礼した。しかし相手は答礼しない。

「無礼じゃないか。他人、しかも所属のおさである私のプライベートを覗くなど」

 刑務官はその職務の特性上、囚人のプライベートに立ち入る。でも自分がそれをされることにはやはり抵抗があるようだ。

「所長を待ち伏せしていたわけではありません! しかし貴方方には用件があります」

「何だか的を射ないな。悪いが、いち看守には付き合っていられないんだ」

「ちょっと!?」

「鮎京、どうやら君には灸を据えてやらんといかんみたいだな」

 低く威圧感のある声で所長は言った。

 今の発言で一つ悟った。所長は鮎京のことを知っているのではないか。なぜなら鮎京という苗字は非常に珍しい。『○田』とか『○山』といった苗字らしい語感でもないため、自己紹介すればクエスチョンマークを付けて聞き返されることが多い。『ユリカ』のときがそうであったように。しかし、所長はそうではなかった。以前、岡崎係長に青山の件について嗅ぎ回っていることを注意されたが、その指示には所長が絡んでいるのではないか。そうすると、所長は『ユリカ』の夫が、自分の刑務所の受刑者であることを承知していたことになるだろう。

 鮎京の呼びかけに応じず『ユリカ』と店内に入ろうとする所長を制止するよう、黒羽が警察手帳を手に持って割り込んできた。

「お待ち下さい。私は警察の者です」

 見るに見かねたのだろう。鮎京は自分のことを情けなく思いつつも、助け舟に感謝した。二人は立ち止まった。さすがに私服であっても警官と名乗られたら従わざるを得ないのだろう。

「何なんですか? 私は何もしていないぞ」先ほどよりも所長の態度が軟化している。

「ええ、待ち伏せていたのは『月浜ユリカ』さん、あんたの方です」黒羽が言う。

 『ユリカ』は驚いたのか大きな目をさらに見開いていた。

 鮎京も言わなければならないことがある。単刀直入に切り出してみることにする。

「所長、『月浜ユリカ』さんに用件があって待ち伏せていたのは本当ですが、所長にもお願いがございます。うちに服役している631番の青山由栄です。彼を今すぐ一時的に釈放できませんか?」

「な? 何バカなこと言っとるんだ! できるわけなかろう」

 至極当然の回答だ。もちろんこれで終わることはない。

「青山の娘が危篤状態なんです!」

「受刑者はたとえ親の葬儀であっても、執行停止など行えん。それくらい知っとるだろう」

「ええ。分かっていて、敢えて所長にお願いしてるんです」

 隣に居る『ユリカ』だが、平然としている。見かねたように黒羽が指摘した。

「驚かないんですね。『ユリカ』さん。いや、青山留利さん。あなたの娘さん、青山ゆりかちゃんのことを言ってるんです」

 一瞬、美しい『ユリカ』の目のまなじりったのを確認した。

「え、あ、私の娘が!? すみません。上の空でっ! えっ! 危篤ですか?」

 怪しいと思っているからなのか、いかにもわざとらしい反応に見える。今度は鮎京が口を開いた。

「天竜医科大学病院にいます。手術が必要なほど容態は悪化しているんです」

「あ、でも、あんなに元気そうだったのよ。信じられないなぁ」

「信じられないかもしれませんけど、そういう連絡が来てます。病院に来てくれますか?」

 しかしながら、ここでにわかに信じ難い返答を聞くことになる。しかしながら、それはこの事件の裏側を象徴しているものであると言えよう。

「あ、いや、でもね、私が行ったところで、ゆりかがどうにかなるわけではないですから。今日はお客さんもいっぱいいるし、穴はあけられない。アユちゃん。貴方も私の大切なお客さん。アユちゃんが今日私を予約してたら、嫌な思いするでしょ?」

 たった一人の娘の一大事なら、普通直ちに病院に向かうのが親ではないか。鮎京は、突沸とっぷつしそうなほど憤りを感じたが、何とか理性でこらえた。

「所長。今すぐ釈放して下さい!」

「だから無理だ!」

 所長は何を思っているだろう。娘の危篤に動じず仕事を続ける冷酷なホステスに対する幻滅か、そんな一大事にも関わらず指名した客への忠義に対する感動か、はたまた末端の部下が『ユリカ』の客だったことに対する憤慨かは読み取れない。

 確かに無理は承知だ。でもここは所長の腕の見せ所ではないのか。切り札を出さざるを得ない状況である。

「では、これでも無理ですか。青山由栄は無実の罪で服役しています」

「……」所長は黙っている。この沈黙の背景に隠された感情は、驚愕なのか嘲笑なのかやはり分からない。鮎京は質問の対象を変える。

「留利さん。貴女あなたは、ご主人の無実を訴えていましたね」

「テレビで放映されたのをご覧になったんですね」『ユリカ』は無表情で答える。接客のときとは雲泥の差だ。

「ええ。私もご主人の青山由栄さんが無実だということを信じています」鮎京がそう言うと、今度は黒羽が付け加えた。

「いや、確信ですね。れっきとした根拠がある」

「それはありがとうございます」またしても冷徹な返答だ。

「……そこまで嗅ぎ回っていたのか?」

 所長が『ユリカ』に耳打ちしたのが微かに聞こえた。所長は知っているようだ。青山が冤罪だということを。府中が所長に厳重注意されたことを考えても、その方が実際に納得いく。

「どうするんですか?」

「『ユリカ』。私はいいから、娘さんの病院に行ってきなさい」

 とうとう所長が折れたか。現実的な案だ。このまま彼女を引き止めてしまっては、彼のけんに関わる。しかしながら黒羽は食い下がった。

「母親だけでは不充分だ。引き続き青山由栄の一時釈放をご検討願いたい」

「な? だからそれは無理だ」さすがに所長は驚いているようだ。

「娘のゆりかちゃんにはパパが必要なんだ」

「『ユリカ』さ……、いや留利さん。貴女からはお願いしないんですか?」鮎京は『ユリカ』にも呼びかけるが、冷たい答えが返ってくる。

「は? 夫は無実ですが、取りあえず今は無理なんですからさっさと行きましょう」

「鮎京、もういい加減にしろ! とにかく『ユリカ』を病院に送っていくんだ!」

 所長も怒ったように言い放ったが、形式的に黒羽と鮎京は敬礼した。

 ここは浜松駅近くの繁華街。タクシー乗り場も近い。すぐにそのうちの一台を手配すると、行き先を告げた。

 『ユリカ』は終始無表情にして無言だった。妖艶な服装ゆえギャップを感じる。娘が心配でないのか。通常ならそわそわするはずなのに。こうなることを予知していたかのようにすら見える。


 先日、鮎京が偶然にも青山ゆりかに出くわしたとき、『ユリカ』は娘の頬をぱたいた。いま思うと、親の言いつけを守らずに勝手に場所を移動したことを叱るしつけにしては過剰な気もするが、娘に対する無関心、愛情の欠落ゆえの行動なら納得がいく。そして同時に、無情にもこれが『ユリカ』の真の姿だったのだ。


 浜松駅から天竜医科大学附属病院まではさほど遠くない。しかも夜道だ。十五分足らずで到着した。

 天竜医科大学附属病院は巨大な要塞のような建物であった。何床あるだろうか。さすがは静岡県西部の重症患者、難病患者が集結する三次救急医療機関に指定されているだけある。

 車内では城野とメールでやり取りしていた。二階の救命救急センター併設の集中治療室の前にいるとのこと。そこには女性警察官も来ていてふもとと名乗ったそうだ。


 集中治療室前に着くと、城野、麓の他に看護師らしき人もいた。すぐに『ユリカ』は看護師に連れられて中に入っていった。余計に妖艶な服装が不釣り合いだがそんなことはこの際どうでもいい。

 なお、家族ではない黒羽と鮎京は、集中治療室への入室、面会が許されなかったので室外で待機だ。麓も同様である。

 麓とは久しぶりに相見あいまみえることになる。それこそ、居酒屋ではじめて会ったとき以来かもしれない。署に軟禁状態だったと聞く。さすがに少しやつれたようにも見えたが、それでもまだまだ元気そうだ。刑事一課だけあってタフな女性である。

 しかし、まずは青山ゆりかの容態が気になるところだ。

「先生、青山の娘は?」

敗血症ゼプシスだ。腸閉塞イレウスに起因したbacterialバクテリアル translocationトランスロケーションではないかという見解だ」

 難解だが、敗血症ゼプシスの意味は分かる。細菌感染症が全身に波及した状態でショックを起こせば命に関わる。

「意識は?」

「JCSで100だ。気管挿管している」

 JCSはJapan Coma Scaleという意識障害の分類だが、確か『100』は『痛みに対して払いのけるなどの動作をする』だったか。

 城野は続ける。

「今は敗血症ゼプシスの治療だが、EPS、つまり被嚢性腹膜硬化症はいちばん重篤なステージ4だからいずれオペが必要になる。また原疾患は、父親と同じ一型糖尿病に由来する糖尿病性腎症だ。この年齢じゃ血液透析も厳しいから、根本的には腎移植しかない」

 改めて非常に気の毒な思いでいっぱいになる。腎移植か。果たして誰がドナーになるだろうか。

 しばらくすると、室内から取り乱したような泣き声が聞こえる。母親『ユリカ』の声。娘の名前を叫んでいるようにも聞こえる。周りのスタッフが、他の患者もいるからと言って必死になだめているようだ。

 先ほどの冷酷な態度とは一転して、ものすごい変貌ぶりだ。まるで二重人格かの如くである。

「おいおい、さっきとはえらい違いだぞ?」黒羽も同じことを思ったようだ。

「え? さっきって?」すぐに麓が聞き返す。

「いや、まるで他人事のような反応で、正直、店からここに連れ出すときにも、本人はかなりちゅうちょしてたんだ」

「……」

 麓は呆気にとられている。鮎京も同じだ。

 すると城野が切り出した。

「俺の仮説を話す。『代理ミュンヒハウゼン症候群』って知ってるか?」

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