29 欺瞞

 しばらくして面会を終えた『ユリカ』が室の外へ出ようとしていた。

 集中治療室にいた時間は二十分くらいかと思われる。

「早いな」城野がぼそりと呟く。「集中治療室ICUの面会時間の制限は三十分なんだ」

 集中治療室は、治療や処置の観点だけでなく院内感染防止や安静保持などの目的で、面会時間や人数の制限を設けられることが多い。この大学病院は三十分ということらしいが、確かに二十分くらいしかいなかったように感じる。早い。医師の病状説明をさっ引くと正味十五分くらいだろうか。

「もういいんですか?」城野が『ユリカ』に聞く。

「あなたも、確か店に……」

「そうです」

 ここには城野、黒羽、鮎京の三人がいる。『Lapis Lazuli』に行ったメンバーだ。

「三人揃って……。しかも一人は警察、一人は刑務官。来店したのは私の身辺調査のため?」

「まぁ、そんなとこですかね。ちなみに俺は矯正医官ですが」

「矯正? ムショの?」

「よくご存知で。担当医から説明は聞きましたか?」

「聞きましたよ。オペが必要ってね」

「同意したんですか?」

「もちろんそれしかないのならお願いするしかないでしょ? あの子いろいろ悪いところあるから、この際いっそ全部やって下さいってね」

 『ユリカ』はそう言うと少し苛ついた表情になる。「……あの、そろそろいいですか?」

「もう帰るんですか?」今度は黒羽が問うた。

「ええ。ゆりかは眠ってますし、私がそばにいたところで何もやれることはないですから」

 集中治療室でていきゅうしていたはずだが、てのひらを返したように再び鰾膠にべない対応になる。そんな『ユリカ』の対応に鼻持ちならなかったのか、今後は麓が『ユリカ』を引き止めた。

「いや、まだあなたには話すことがあります。『Lapis Lazuli』でしたらご心配なく。私から事情を話して今日の予約客はキャンセルしてもらうように頼みましたから」

「そんな勝手なこと!?」

「大丈夫です。私も警察官なんです。あなたのご主人を逮捕してしまった去年の春からの浜名湖西警察署刑事第一課所属です」

 麓が警察手帳を呈示すると、さらに続けた。

「あなたのご主人は、誤認逮捕です。みそぎに協力してくれませんか」


 そのとき、城野は担当医とひそひそと話を交わしていた。話を聞くと城野は首を縦に振ってしきりに頷いていた。

 話を終えるとすぐに城野は鮎京のもとへ寄って来た。

「アユキョー君、ちょっといいか?」

「はい」

「ああ、あの男は連川つれがわと言って臓器移植外科にいる奴だが、コンサルに応じて青山ゆりかのことも診てたらしい。そんで、母親に対するムンテラのときの様子を聞いたんだ」

 コンサルとは『コンサルテーション』の略で、医療の現場で他科や他職種との連携やチームアプローチを通して助言や指導を受けること、ムンテラとは『ムントテラピー』の略で、患者や家族への病状説明のことである。

「どんな様子だったんですか」

 その後の城野の発言はにわかに信じ難いものだった。

「母親が自ら全小腸癒着剥離術を提案し強く要求してきたんだそうだ。まるで喜連川の先を読むかのようにな」

「は?」

「それだけじゃねぇ。聞くところによれば長期にわたる腹膜透析は危険であることを説明しても糖尿病性腎症は心配だから透析を続けたいと訴えたり、臓器移植は絶対させたくないと言ったり、極めつけは──」

「極めつけは──?」思わず反復したが続きを聞くのが少し怖くなっていた。

「極めつけは、さっきICUで泣き叫んでいるように見えたが、隙間から見えた顔は──、笑っていたんだそうだ」

「ええ!?」

 恐ろしさのあまり、寒くないのに鳥肌が立っていた。さっきのは実は嬉し泣きだったというのか。

「やはり代理ミュンヒハウゼン症候群だろう。そしてその攻撃対象は娘と──、青山だ」


 代理ミュンヒハウゼン症候群。

 精神疾患の一種。特に受刑者の中には精神を患ったがゆえに薬物依存などに陥るなど、矯正施設の医務課では関わりが深く鮎京も勉強していた。しかし、実際に代理ミュンヒハウゼン症候群と診断された者には出会ったことはなかった。

 概要としては、ミュンヒハウゼン症候群と同じく周囲の関心を自分に引き寄せるためにケガや病気を捏造ねつぞうする疾患だが、そのための傷害となる対象が自分自身ではなく、身近の者にところが本疾患の大きな特徴である。

 多くの場合、傷害対象は自らの子であり児童虐待と同列に挙げられる。しかし傷害行為自体は患者の目的ではなく、あくまで手段として傷害行為に及び、真の目的は自分に周囲の関心を引き寄せることなのだ。

 ところが、今回の場合の攻撃対象は娘だけでなく、青山もだ。

 つまり、城野の見解もまた、何かの手法で青山を意図的に犯罪者として捏造したということだ。しかもかなりの計画性を持って。


 もしこの仮説が正しければ、一様に説明がつく。

 自分の臓器を差し出し一命を取り留めた最愛の夫が無実の罪で逮捕され、病気の娘を養うために、自らを水商売というれつな環境に身を置きながら献身的に育児を行いながら夫を信じて無実を訴え続ける。まさに慈しみと自己犠牲の極致。そして自らの努力に天が味方したかのように、無実の罪が明るみになり、夫とは違う犯人が逮捕された。

 これだけ聞くと一冊の本になりそうなほど波瀾万丈な人生だ。我々日本人が弱い、御涙頂戴物の感動エッセイである。話題性は抜群だ。

 しかも、青山のドナーは実は夫人ではなく、市原紗浦である可能性が高いのだ。自らを傷付けず、その犠牲を他人に負担させるところも、その特徴に合致する。

 

 この国民を相手にしたまん作戦は、青山留利の生涯を約束するほどの栄誉や称讃、さらには多額の賠償金やギャランティーとともに、警察の不名誉と国民からの罵倒がもたらされる。

 こんなことが許されてたまるか。『ユリカ』の不遇ながら懸命に生きる姿に美貌があいって膨らんだ恋情は、コペルニクス的転回を果たし憎悪へと変化する。

 加えて、この対国民の大芝居を個人で成し遂げようとする神通力に言い知れぬ恐怖を覚えた。少しの間と言えどこの女性に恋心を抱いたことを心よりじた。


 これより青山留利の欺瞞を暴いていくことになるだろう。どんな追及を行っていくのか。警察的な視点と医学的な視点から攻めていくのだろう。その様子を、かたを飲んで見守りたいと思った。

 ところが次に城野が鮎京に出した指示は、その期待を裏切るものだった。

「アユキョー、悪いが、これを使ってすぐに青山のところに行ってくれないか」

「青山!? えっ! こ、これって……」

 城野が鮎京に手渡したのは鍵の束だ。アルファロメオの特徴的なロゴが、天井の照明を反射している。

「いいから行くんだ。これに乗って! 急いで!」

「でも、僕は先生の推理を見届けたいんです!」

「悪い! 本当は、アユキョーが看守の視点からこの事件に疑義を呈した。そして、一つの捏造された犯罪を暴こうとしているんだ。感謝してるし、ここにいて追及する権利もある。でも青山の娘も容態が悪い。そして播磨が新たな罪の捏造を犯そうとしている。待ったなしなんだ。青山の嫁を引き止めている間に、青山から隠された真実を引き出して欲しい!」

「……」城野にしては珍しい早口で緊迫した口調に気圧けおされ、鮎京はたじろいだ。

「頼む! アユキョーにしかできねえんだ」その眼差しは真剣そのものだった。

「わっ、分かりました」

 鮎京は運転免許を持っているが、辛うじて公用車をたまに運転するくらいで、あまり得意ではない。ましてや外車など運転したことがない。一抹の不安がよぎる。

 すると、若手の医師と思われる人物がなにやら円形の平たいものを持ってきた。

「クロちゃんが、数分後に俺のスマートフォンからアユキョーに電話をかける。それが青山の嫁への追及の合図だ。大学から失敬したスピーカーフォンを用意してある。ハンズフリーにして実況を聞いておくんだ。だから追及してる様子は聞ける」

「なるほど」

 円形の平たいものがスピーカーフォンだろうか。おそらく遠隔の会議で使うためのものだろう。

「そーいや、さっき、アユキョー君、推理を見届けたいって言ってたと思うけど、アユキョー君にも発言してもらうぞ。刑務官の視点でな」

「ええ!?」

「なんで、『え!?』なん?」

「だって! 運転しながら、推理聞きながら、発言するんですか!?」

「何か問題あったか?」

「そんな器用じゃないっす!」

「城野先生!」鮎京の主張も空しく、麓の呼びかけに城野に掻き消される。

「俺らはいつでもオッケーだ」と城野は返事すると。「さ、アユキョー、さっさと行け!」と背中を叩いて促してくる。どうやら、やるしかなさそうだ。

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