30 詰問

 病院の灯りだけが頼りの薄暗い駐車場を探し回るも、幸か不幸かアルファロメオの車はそうそう多くない。しかもこの時間は車も少ない。さらには城野の車は何度も乗っているのだから、ほどなくして城野の赤い外車を探し当てた。

 城野が車のエンジンを入れる姿を思い出して何とかそれはできたが、足下にあるものを見て愕然とした。アクセル、ブレーキの他に何かもう一個ある。

「クラッチだ……」

 鮎京はマニュアル車で運転免許を取っているものの、自動車教習所では半クラッチの感触が掴めず、よくエンストさせていた。高速道路の教習でオートマ車に乗ったところ、その運転のしやすさに感激し、以降車を買うならオートマにしよう、と固く心に誓ったものである。

 でも、ここで諦めてはならない。十年近くも前だが、何とか教官の言葉を思い出し、クラッチを繋ぎながらロー、セカンド……、とギアチェンジする。そのとき、電話が鳴る。城野からだ。そう言えば、そういう約束だったことに今更気付く。しかし片手にハンドル、片手にシフトレバーを握っており、さらには慣れない運転で余裕もない鮎京はパニックになる。駐車場の道のど真ん中にも関わらずブレーキペダルを踏み、何とか車を停めた鮎京は、ようやく電話を取ることができた。この時点で鮎京は汗まみれである。

『おい、電話出るの遅いじゃないか』と言う声の主は黒羽である。しかし集音マイクのせいか、周辺の物音もよく聞こえる。

「慣れないんだよ。無茶言うな!」

『悪い。早くムショに向かってくれないか』

 慣れない運転で焦る鮎京の事情も知らずに、平然と無理なことを要求する黒羽に苛ついたが、城野の声は不思議と諭すように鮎京の興奮を落ち着かせた。

「はい」と、一言だけ返す。

 でも、ぶつけてスクラップになっても怒らないで下さいね、と心の中で呟いていた。無論城野には伝わらないが。

『では、単刀直入に言いましょうか。青山留利さん』

 とうとう城野は口を切る。追及の開始だ。思わず息を飲む。

『──あんたが今回の事件の黒幕だね』

 城野は抑揚のない口調で切り出した。


 十秒ほど沈黙が続いた。静かな十秒間だ。この間、城野や黒羽、麓、青山留利はどのような表情をしていたのだろうか。音声のみの情報しか得られない鮎京に、それは分からない。

『アユキョー、ムショに向かっとるか?』

 今度の城野の声はやや怒気を含んでいるような印象である。ヤバい、と思って慌てる。

「は、はいっ! 失礼しました!」

 考えてみれば、遠隔の会議のようにこちらの音声は向こうに筒抜けなのだ。アクセルを噴かす音の一つもなければ、停車していることが分かってしまうのだ。

 急いで、先ほどの要領でクラッチを繋ぎながらロー、セカンド……、とギアチェンジする。

 するとハンズフリーの電話から、鈴を鳴らすような女性の声が聞こえてきた。

『何を切り出すかと思えば、そんな絵空事ですか』

『そうだ。でも絵空事ではない』

『私は夫の無実を信じています。犯人は別にいるって思っています。でもそれが私だなんて、乱暴すぎませんか』

『いや、充分に確からしい話だ』

『最初に殺されてしまった紗浦さほは私の妹です。妹を殺害しようだなんて思いますか? もちろん夫についても動機はありません。犯人はきっと私たちの関わりのない第三者です』

『まあいい。根拠を話しましょうか』

 さっそく舌戦を繰り広げているようだ。城野も一歩も退かない。正直、音声でしか伝わらないのがもどかしく、また加えて慣れない運転に意識を集中させなければならず、おのれのキャパシティーの小ささにますますせっ扼腕やくわんする。

 受話器から聞こえる会話と、運転の両方に神経を研ぎ澄ませないとならない。ただでさえ徐行運転が、ますます徐行運転となる。

 

『娘さんはEPS、つまり被嚢性腹膜硬化症のステージ4とそれに由来する敗血症ゼプシスという担当医の診断だ。ここに救急搬送されるまでの経過も聞いたが、医学的に見ておかしな点が多い。まずステージ4という最も重篤な状態にありながら、五歳の娘が何も症状を訴えることなくここまで経過していたとは到底考えにくい。通常はステージ2か3の時点で吐き気や腹痛の自覚症状が現れる。じゃあ、それまで娘の訴えを無視して通院させていなかったのか? いや、これも違う。聞くところによれば腹膜透析は続けていたそうだから通院させていなかったわけではない。むしろきっちり通院しては透析を継続していた』

『そうよ。大事な娘だから通院して当然じゃない。でもあの子はもともと我慢強いのよ』

『いや、ある時点ですでに被嚢性腹膜硬化症EPSの症状に入っていたに違いない。どうやら、担当医が長期間の腹膜透析は危険だと警鐘を鳴らしても根強く継続を希望していたそうじゃないか。腎移植という代替案を提案してるにも関わらず。これは、端からEPSになることを望んでいたとも解釈できる言動だ。一体なぜなんだ?』

『そんなの、決まってるじゃない? 私は青山の、主人のドナーよ。すでに片方の腎臓がないのよ。ほらここ!』

 スピーカー越しなので分からないが、おそらく服をまくり上げて隙間から腹部の傷を見せているのだろう。

『なるほど』そう返す城野の口調にはどこか余裕が感じられる。

『この病院でやったのよ。カルテにも記載があるでしょう?』

『確かにカルテ上はあんたがドナーとして入院していた。記録は残っている』

『じゃあ!』

『俺が、あんたがドナーではないことを疑ったのは、オペの傷だ。いくら川越でもあんなに傷が綺麗ということはあり得ない!』

『そんなこと分からないじゃない。川越先生は名医よ。私は女性だし、傷を目立たせたくないからそうお願いしただけ』

『なるほど』意外にもあっさりと、城野は引き下がった。これも作戦だろうか。

 するとドアが開く音がした。

『じょ、城野先生、出ました!』

『サンキュー、喜連川』

 ドアを開けて息を切らしながら報告に来たのは、喜連川と呼ばれる医師のようだ。

『どうだ?』続けて城野が問いかけている。

『べ、別人のサンプルです!』

『何なの!?』青山留利の訝しげな声が聞こえる。

『川越の所属講座では、研究でドナーとレシピエントの臓器の生着率を遺伝学的に調べているそうだ。そして、入院中に青山留利に同意を取ったというわけだ。運良く血液が残っていた。術中だけでなく術前の血液サンプルも。つまりここにあるサンプルがそれだ。術前のものと術中のもの。つまり外来受診していた青山留利はあんた自身。入院は替え玉の市原紗浦じゃないかと思うのが自然だ。だからDNA解析したんだ。次世代シークエンサーを使ってな。読みどおり違う血液だって。つまりドナーはあんたじゃない』

『……ちっ!』青山留利の舌打ちが聞こえてくる。鮎京の中で築き上げられた彼女の崇高なほどだかい偶像は、ますます音を立てて瓦解していった。

 しかしながら、青山留利は続ける。

『ごめんなさいね。私、実は痛いのは苦手なのよ。主人に臓器を提供する気でいたんだけど、どうしても、踏ん切りがつかなくて。お腹の傷は何でもない怪我でできた傷。今更、ドナーの身代わりを妹に頼みましたなんて申し訳なくて言えないし、この傷を手術の傷にして見せかけていただけ。分かるでしょ? 夫婦円満のためにつくろった可愛い芝居じゃない。結局それがどうしたの? 私が主人に臓器を提供していなかったとして、今回の事件とは関係ないじゃない!』

 きっと苦し紛れに弁明する青山留利の表情はっていることだろう。

『じゃあ、さっきの質問に戻ろう。娘さんに臓器提供を受けさせずに透析にこだわったんだ?』

『だから、痛いのはどうしても苦手だったし、もう妹にはお願いできないじゃない』

『そんな派手なピアスの穴を開けているから説得力ないな』

 青山留利は自身の象徴と言わんばかりに、今日もオオルリアゲハのピアスを装着していた。

『お腹開けるのとは程度が違うじゃない!』

『じゃあ聞くが、何で献腎移植という方法に手を出そうとしなかった?』

『ケ、ケンジンなんて私知らない……』青山留利の回答はいささか歯切れの悪いものだ。

『主治医のカルテによると、献腎移植という方法を紹介した記録も残っていた。しかも一回や二回じゃない。おかしな話だな。この疑問を解決に導く一つの仮説がある。あんたはとある原理に従って娘さんの案件も含めた行動を取ったんだ』

『……何なんですか?』

『簡単なこった。この事件は、すべて自分には一切の犠牲を負わず、代わりに他人にすべて犠牲を負わせることで自分の歪んだ承認欲求を満足させるという行動原理にのっとってるんだ』

『なにたら言ってんの? バカ言わないで!』

『ちゃんとした病名がある。代理ミュンヒハウゼン症候群だ。それをあんたにあてはめると絡まったひもがするすると解けるように、事件のあらましが見えてくる』

『代理ミュンヒ……?』

 いよいよ、青山留利の悪計を看破するときが来たのかと、電話越しとはいえ鮎京は武者震いしそうになった。

 すると、その分運転がおろそかになったのか。カーブがあることに気付かずにガードレールに衝突しそうになる。

「ぬおおおおお!?」

 慌ててハンドルを切りながら停車した結果、衝突、接触は回避できたが、漫画のようなリアクションは、城野らに丸聞こえだったに違いない。

『おい! アユキョーどうしたんだ!?』

「あ、いや、すんません……。運転慣れなくて……」鮎京は恥ずかしさを禁じ得ない。

『これ、俺のいとしの4フォーCシースパイダーなんだ。一千万くらいしたんだから頼むぞ!』

「な!?」鮎京は絶句した。そんな高級車だったのか。それを自分が運転するなど、生きた心地がしない。頭が真っ白になりかけたが、

『アユキョー、聞いてっか!』という城野の呼びかけに、

「……は、はいっ!」と目が覚めるように返答した。

 まったくなんて無茶なことをさせるのだろうか。


 再び慣れないクラッチを繋ぎながらアクセルを踏む。

『失敬。うちのアユキョーの間抜けな悲鳴でお騒がせしたが、話を戻そう』

 余計なお世話だ、と心の中で悪態をつきながら、気を取り直して車を進めた。今は、この車が高級車だと思わないようにして運転に徹しよう。

『くだらない話に付き合わされるなら、私帰りますよ! 忙しいんですから』

 青山留利の怒りが伝わってくる。彼女への追及を邪魔してしまったようでバツが悪い。

『まだ、帰らせるわけにはいかねぇ。ここからが本題だ。延長料金にもかかりゃしない!』

『くだらない!』

『まず! 何で、健常であるあんたが旦那に臓器を提供しなかったのか! その上で自分がドナーだと偽りたかったのか! 真なる理由は!?』

 城野には似合わない大きな声で、青山留利を制するように切り出すと、その声量に圧倒されたのか、電話越しの現場は静まり返った。

 静かになったことを確認したかのように、今度は通常の口調で城野が再び話を切り出した。完全に城野が現場の空気を支配しているようだ。

『さっき彼女は、痛いのが苦手だ、でも旦那のドナーとなると一度たんを切ってしまった以上引き下がれない、と言っていたが、実際はそうじゃないとしたらどんな理由が考えられるか。クロちゃん、分かるか?』

『ここで、俺っすか!?』

 突然のご指名に黒羽は動揺しているようだ。しかし、すぐ落ち着き払った様子で自分なりの考えで回答する。

『そうですね。臓器移植の要件を満たさなかった。つまり臓器提供のときは親族ではなかった、とか?』

『確かにそう考えるのが自然だが、残念ながら臓器提供のときには婚姻関係を築いている。青山留利にもドナーの資格があったんだ』

『ひょっとして代理ミュンなんたら……、が関与して……』

『そーゆーこったよ。この疾患は怪我や病気を捏造する病気なんだ。そして何と言っても他人が怪我や病気の対象に選ばれるので、自分自身が犠牲を払うことはこの疾患の行動原理に反する。ゆえに、ドナーを実の妹に選んだ。身代わりを演じさせたんだ。おそらくそこには相当な額の金の収受があったと思っている。その代わり、身をていして夫を守る健気な妻というイメージが形成される。でもさすがにドナーとなれば傷はできる。だから常連客だった川越に頼んでそれらしい傷を作ってもらえば、周囲に説明できると考えた』

『そんな無茶苦茶よ!』たまらず青山留利が声を上げた。

『いや、まだある。次の攻撃の対象は娘さんだ。これは言わずもがな、EPSだ。たまたま夫と同じ一型糖尿病DMを患ってしまった娘を通院させるが、一生懸命通院するものの、真意はもっと病気が悪化することを願っている。だから腎移植をいずれ受けるつもりがあったかもしれないが、可能な限り腹膜透析を受けさせることによって、EPSという危ない橋を渡らせたんだ。しかもあんたから夫へ腎臓を一個提供してしまっているという認識でいたから、当然両親はドナーにはなり得ない。生体腎移植を受けられないという、れっきとした言い訳が立つ。不幸にも肉親から腎移植を受けられない娘を、通院しながら育てる献身的な母親というイメージが築かれるわけだ』

『ひどい! 名誉毀損で訴えてやる!』

 城野は、至って冷静な様子が電話越しながら伝わってくる。脅しには歯牙にもかけず超然としているようだ。いけない。城野の論理展開に感心していて、赤信号が青になっても停車し続けていることに気付いた。

 城野は続ける。

『そして、最後が極めつけ。あんたの欲求はこれでも満たされなかったんだ!』

『何よ!』

『それが、今回の二つの事件! 市原紗浦と川越かわごえのぶ殺しに絡んでくる。そのシナリオについて俺が説明してやるよ!』

 城野の弁舌は、電話越しの鮎京まで、まるでピシャリときょうさくをいただいたかのように、車内の空気が引き締まったような感覚を感じた。

 いよいよ、犯人追及も佳境に入ろうとしていた。

 そして、夜で道がすいていたせいか、いつの間にか鮎京の方もあと数分ほどで遠州刑務所に到着しようとしていた。

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