27 瀕死

 所長の予定は、所内の庶務課からのメールで配信される。出張などの予定が入っていることもある。電子化が全体的に遅れていた刑務所だが、ここ最近は徐々にそれが進んできつつある。そのような情報も職員のパソコンで容易に確認できる。

「所長は特にここ一週間予定がないようですね」

 鮎京は城野に伝えた。

「なるほど。ということは、浜松あるいはその近辺に滞在している可能性が高い。ひいてはくだんの店に姿を現す可能性が高いってことだな」

 城野は鮎京の思っていることを代弁してくれたので、コクリと頷いた。

「現場を押さえられますかね?」

「探偵でも雇うか?」

「最悪の場合は……」

「おいおい、正気かよ。もし調査していることがバレたら、アユキョー君もただじゃ済まないよ。ってもまぁ、興信所が容易に依頼内容をばらすとは思えないがな」

 城野はにんまり笑いながら言った。

 鮎京のスマートフォンが鳴った。普段であれば、勤務中にそれを携行しない。しかし、今はイレギュラーな夜間呼び出しに対応している。医務棟には現在、鮎京と城野以外にはいない。そして何よりも、播磨に対する追及。青山夫人のテレビ出演。共鳴したかのように発生した青山のパニック。すべてが非日常的なのだ。

 真相へ近付くごとに、警察だけでなく、おのれが所属する刑務所に対しても楯突く行為であることを徐々に自覚し始め、真面目な鮎京を服務規程の遵守から少しずつ遠ざけていた。と、ともに、最悪の場合これから刑務官としての日常的な生活に戻ることはないのかもしれない、と感じ始めていた。

 スマートフォンを取り出すと、そこには『黒羽惣之丞』との文字がディスプレイに表示されていた。

「もしもし、どうした?」

『もしもし!? 鮎京か!?』

「何かあったか!?」

 あまり物怖じしない性格の黒羽が慌てている。それだけで何か嫌な予感がする。

『青山の娘が危篤状態らしい』

「えっ!?」新たな被害者が出たなど事件性のある報告を想定していただけに、狼狽せざるを得ない。かと言って穏やかな話ではないことは鮎京にも判断できる。

『生まれつきの病気がかなり悪化してたみたいなんだ……』

「具体的にはどうなってるんだ?」

『恭歌からの情報なんだ。腸閉塞だそうだ。どうやら透析の合併症で、ひ、ヒノー性? ……ナニナニ硬化症? ……という病気で……』

「腸閉塞? ナニナニ硬化症?」

 医学的知識に疎い黒羽のクエスチョンマークがいっぱい付いた情報であったが、城野が電話の外からフォローした。

「被嚢性腹膜硬化症……。腹膜透析で最終合併症として最も恐れられる合併症だ。腸閉塞イレウスならステージフォーか……」

「クロちゃん、被嚢性腹膜硬化症か!?」

『そうそう! そんな名前だった。天竜医科大学の病院に緊急入院で、しかも手術が必要だとか!』

「入院……。緊急オペか」

「悪い。アユキョー君。ハンズフリーにしてくれるか?」

 鮎京は無言で頷いて、ハンズフリーモードにする。スピーカーから黒羽の声が大きくなって聞こえてきた。

「クロちゃん! 城野だ。いきなり悪いがオペはいつだ?」

『オペはまだ決まってないそうです。いずれはやらなければならないとか……。ただ、そもそも入院はさせたけど計画が立てられないようです』

「ど、どういうことだ?」

『母親に連絡してるそうですが、繋がらないらしくて……』

「何? 母親は一緒じゃないのか?」

『母親がキャバクラに出勤した直後に、病態が悪化したようで、女の子は自力で119番に電話したそうです』

 違和感を感じる。五歳の女の子が普通最初に取る行動には思えない。まずは母親に電話をかけそうなものだが。繋がらなかったのだろうか。それでも着信履歴に残れば何か気付くはずだが。

「母親に繋がらないなら、店に直接電話かければいい」

『それで、店に電話してるんですが、今日はたまたま彼女は同伴出勤で、まだ店に来ていないそうなんです。店から連絡してもらうようにして伝えてるそうですが、梨のつぶてで……』

「……分かった。それで娘の容態は?」

『詳しくは分かりませんが、集中治療室にいるそうです。意識もはっきりしない状態らしくて……』

「やべぇな……」

 城野が頭を掻いている。それほどまでに状況は深刻らしい。

「クロちゃん、アユキョー、俺は車で大学病院に行く。状況は深刻だ。早く青山の冤罪を証明しないとならん! クロちゃんとアユキョー君は『Lapis Lazuli』へ行って、娘のお母ちゃんに危篤を知らせるんだ!」

「は、はいっ!」

『分かりました!』鮎京は思わず背筋を伸ばして敬礼していた。黒羽もそうしていただろうか。

 緊迫している。電話を切ると、すぐに鮎京は着替えて、城野と共に車で刑務所を出る準備をする。

「お待たせしました!」

 駐車場に向かう足取りもまた駆け足である。

「何とか死なないでいてくれ!」

 懇願するような城野の声は、事態の重さを改めて鮎京に突き付け、胸を深くえぐった。


 車は夜道ということもあり、かなりスピードを出して走らせている。もう道交法とか警察とか言っていられない状況だ。

 少女一人の命がかかっている。少女のことを思うと、万が一にも家族の誰にも見届けられることなく事切れるなんてことはあってはならない。

 間違いなく青山由栄は無実なのだから……。


 城野は車を飛ばしながらも状況を教えてくれた。

 腹膜透析は血液透析がまだできない小児の腎不全に対する透析方法として確立されている。しかしながら腹膜透析には恐ろしい合併症が少なからず起こるリスクをはらんでいる。それが被嚢性腹膜硬化症。英語(Encapsulating Peritoneal Sclerosis)の頭文字を取ってEPSと呼ぶらしい。

 腹膜透析が原因といわれるが、何がそのリスク因子かはよく分かっていないらしい。しかし一つ言えるのは、透析期間の長さに相関があるということだ。ただし、娘はまだ五歳。何歳から透析を行っているかは不明だが、城野の感覚からすればEPSだとすれば発症が早いとのことらしい。非常に不運である。

 しかし城野は疑義を呈していた。腸閉塞イレウスに陥り手術が必要な病態は、ステージ4と呼ばれ重篤である。城野によるとそのまえに前駆症状があったはずだ、と。通常であれば、その前に食欲不振や嘔吐、下痢、腹痛などあって、少女がそれを訴えていればここまで重症化する前に受診のチャンスはあったのではないかということだ。確かにそれは言われればそうである。五歳の少女が、母親に気を遣って我慢していたのだろうか。定期的な通院はしていたはずなので、まさか単なる病院嫌いということではないだろう。


 意識がないということは、敗血症か多臓器不全に陥っているのではないかと城野は読んでいる。これらが命に関わる非常に危険な状態であることは、医療の有資格者の鮎京には分かっている。


 鮎京は浜松駅で下ろされた。大学病院で少女がどんな状態であるかはひどく気になったが、それよりも音信不通の母親『ユリカ』に会わねばならない。しくも娘の名『ゆりか』と同じ源氏名。いや、これは別に偶然なのだろうか。それとも何か意図でも……。


 黒羽はもう『Lapis Lazuli』の店の近くにいた。しかも、既に店に直接確認をして、娘の危篤が母親である『月浜ユリカ』に伝わっているかを確認したそうだ。店員の話によると電話は繋がらず、やむを得ずメールにて用件を伝えたそうだが、残念ながら未だ返事がないとのことだ。

 同伴出勤ということだが、いつ『ユリカ』が店に来るかまでは、把握していないらしい。常連客なので、彼女の裁量に任せてしまっている、とのことだ。ただ、夜の九時半から別の客の予約が入っているそうなので、それまでには来るという話だそうだが。

 現在時刻は夜八時を過ぎてしまっている。

 そわそわしながら、鮎京は黒羽と店の前に待機する。しかしここは夜の繁華街。『アラサー』と呼ばれる年頃の男二人が手持ち無沙汰に突っ立っていれば、あちらこちらから客引きの声がかかる。当然ながら他の店に用はない。そして青山ゆりかの一件で緊迫した状況なのだ。非常に鬱陶うっとうしい。迷惑防止条例で客引きを規制している自治体もあるようだが、ここはどうなのだろうか。

「悪いが、他当たってくれ!」

 苛々いらいらを表に出すかのように、つい強い口調で返してしまう。しかしそれが功を奏したのか、以降客引きは来なくなった。


 青山ゆりかの一件はあるが、ちょっとの間でも事件のことについては整理しておきたいと思う。

 すると、ちょうど同じ考えだったのか、黒羽が切り出してきた。

「なあアユちゃん、実のところ、誰が真犯人ホシだと思ってる?」

「青山でもなく、播磨でもなく、もちろん川越でもないとなると……」

 川越は第二の事件の被害者だ。第一の事件、市原殺しの時点では最有力候補だったのだが。

「もう、一人しかいなくなるんだ」

 うすうすそう感じていたとはいえ、これまで口に出すことはなかった。なるべく考えないようにしていた。あるいは贔屓ひいきで除外していたという方が正解か。しかし、残念ながらもはや鮎京の中である可能性が濃厚になりつつある。

「青山の奥さんか……」

「そうだ」

 どこかで『ユリカ』こと青山留利が真犯人ではないと良いなという希望的観測があった。しかし、他者にそのように宣告されてしまうと、その願いはいとも簡単に瓦解していく。鮎京は黒羽に落胆を悟られないよう必死で装った。

 ただ、この犯行は彼女では困難な要素がいくつかある。何か裏付けるものがあるのだろうか。

「でも、消去法というだけでは……」

「恭歌の言葉を思い出したんだ。ほら、アユちゃんと三人で最初に居酒屋で会ったときの話だ」

 最初に会ったとき。もちろん記憶にある。少し前のことなのに、かなり前の出来事のように思える。

「どんな言葉だ?」

「実況見分したときの話だよ」

 あのとき麓は何と言っていたか。

「実は、あのときの会話、こっそり恭歌はボイスレコーダーで録音していたんだ。それくらい、アユちゃんからの情報を所望していたということだろうな」

 そう言って、黒羽はイヤホンを取り出す。まったく何と準備の良いことだろう。半ば呆れにも近い感嘆を鮎京にもたらした。

 イヤホンの一方を黒羽に、他方を鮎京が持ち、それぞれ耳の穴に挿入した。

「ここだ」と、言いながら黒羽はボイスレコーダーを該当の位置に合わせる。


『あ、いや。もちろん実況見分したよ。現場は鍵がかかって密室だと最初は思われたけど、アパートの部屋の窓の直下にスペアキーと思われる鍵が発見された。凶器の柄に付着した青山の手の形をした血痕などから、青山がったとしか考えられない状況だった。その後、供述どおりというか、凶器の柄から青山のしょうもんが検出された。さらには、市原のちつから青山の精液まで検出された。そして現場に睡眠薬が転がっていた。遺体からは睡眠薬は検出されなかった。以上から青山は奥さんを睡眠薬で眠らせた後、市原と不義密通を交わしていた。そして市原に口止め料を請求されたか何かして、口論となって殺害してしまった。現場には睡眠薬以外にも空のビール缶が置かれていて、酔った上の犯行であることも示唆された。だから記憶も曖昧になっていたんじゃないかって言ってね……』


「おかしいと思わないか」

 そう言って、黒羽はボイスレコーダーを一旦止める。

「現場は鍵がかかっていて、アパートの部屋の窓の直下にスペアキーが発見されたんだな」鮎京はそのときはあまり気にも留めていなかったが、あらためてそんなことも言っていたな、と思い出す。

「これは、完全な密室にすることは、否が応でも部屋に取り残された青山夫妻が疑われることになる。アパートの部屋の窓の直下に鍵を投げ捨てて、自分達だけが疑われないような逃げ道を作った」

「それじゃ青山に犯人を着せる計画と矛盾するんじゃ……」

「いや、本当の狙いは青山が犯人として疑われるのを避けるためなんじゃないのか」

「……!」鮎京は、確かに一理あると思った。しかし、黒羽は続ける。

「まだある! いや、こっちの方が重要なポイントだ」

「何だ?」

「市原のちつから青山の精液が検出されたことだ。青山は犯人でないとして、こんなことできるのは青山留利以外に誰がいる?」

「!!」

 何でこんな明白なことに気付かなかったのだろう。鮎京はそれまでミスリードさせられていたことを心より恥じた。

 しかし疑問もある。

「遺体の臓器の摘出は?」

「これは播磨がやったんだ」黒羽は即座に回答した。「だから、播磨も事件に関わってるんだ」


 黒羽の推理は妙に説得力がある。感心していると今度は急に話題を変えてきた。

「なあ。青山の奥さんは、何で青山と結婚したんだ?」

「知らんよ」馴れ初め話など、刑務官は受刑者に聞かない。特に『ユリカ』に横恋慕していた鮎京にとっては、聞いて気分の良い話ではない。

「青山って男は、そんなに男前なのか?」

 青山の顔を思い浮かべる。刑務所では真面目すぎてある意味目立っているが、娑婆に出れば絶対に目立たない。そして誰もが振り返るほど二枚目ではない。かと言っておとこではない。つまり見た目は平凡だ。

「い、いや至って普通だ。外見は」

「じゃあ、金持ちか?」

「これもとびきり裕福って訳ではない。ちゃんとした企業に勤めてはいるけど」

「臓器提供するためか?」

「え?」

 一瞬、その可能性について鮎京は思考を巡らせてみた。

「ちょっと前なら、その可能性についても考えていたかもしれない。結婚して配偶者になることで、生体腎移植のドナーの要件を満たそうとした。つまり夫を救うために結婚した。でも……」

「実際にドナーとなったのは市原だから……」

「そう。その可能性は薄いと言っていい。じゃあ、何で結婚した?」

「……」鮎京は言葉に詰まっていると黒羽は再び口を開いた。

「一つ途方もない可能性について挙げてみる」

 黒羽は斜め四十五度くらい上をぼんやり見つめながら言った。

「な、何だ?」

「青山の奥さんがキャバクラで、胸にあしらっていた青い蝶々……。アレって何という種類か知っているか」

 思わず目を見張るほどの美しい蝶。尾状突起を有するその翅の色は黒縁にアクアブルー。見る者に幸福をもたらすという蝶だ。幸せのシンボルとして、何かのパンフレットかで見たことがある。しかし、名前までは知らない。

「何て言うんだ?」

「『オオルリアゲハ』。学名は“Papilioパピリオ ulyssesユリシス”だ」

「そうか」

 何が言いたいのだろうと気のない返事をしてしまったが、青山の奥さんの下の名前は『留利るり』、つまり『瑠璃』とも置き換えられる。

「青山の奥さんの名前は『青山留利るり』。つまり青さを象徴したような名前なんだ」と、鮎京が考えていたことを代弁するように黒羽は語った。確かに名は体を表すかのように青いドレスやビキニを着用していた。しかし、同時に思った。

「そうだ。そうなんだが、それは結婚したからだろう」

 因果関係が逆転している。結婚を機にたまたま青山留利という名前になったことで、『青』が自分のパーソナルカラーだと思うようになって意識を向けるようになったのではないか。少なくともそれが自然だと思うが。

「そこなんだよ。彼女はもともと市原留利だった。しかし、彼女が青いものに目がなくて、もっと言うとあの青い蝶々になりきるくらい自分を重ね合わせていたら」

「そ、そうなのか?」

 つまり、そんな自然な因果関係が彼女の場合違うというのか。ここで一度考えてみる。思い出されたのは、受刑者である丸森との会話で得られた情報だ。かつての青山留利が働いていた『Goldenゴールデン Berylベリル』がなくなり、『Lapisラピス Lazuliラズリ』に名前を変えて、同じ場所にリニューアルオープンしたという事実だ。

 このときはすでに、青山留利は店の稼ぎ頭に上り詰めていた。リニューアルオープンという話になったときに、ひょっとして青山留利を引き留める代わりに、店の名前を自分の名になぞらえた『瑠璃』を意味する『Lapis Lazuli』に変えたとしたら。そして、『Lazuriteラズライト』から、『青』という店のカラーを奪うように閉店に追い込んだとしたら──。

 青山留利は、市原留利の時代から『青』という色に、並々ならぬ執着を持っていたということになるのか。

「実はな……」一つ深呼吸をしてから、黒羽は切り出した。

「……何だ?」

「『オオルリアゲハ』は英語で“Blue Mountain Butterfly”とか“Blue Mountain Swallowtail”って言うらしい。“Blue Mountain”って、ほら、まんま『青い山』。『』だよ!」

「まさかぁ!」それは確かに途方のない仮説だと一笑に付しそうになったが、同時に偶然にしてはでき過ぎていると思った。

「あの奥さんは、旦那の苗字に惹かれて結婚したんだ……」


 そのときだった。

 黒羽の考察には驚きを禁じ得ないが、まさしく噂をすれば影が射すというタイミングである。艶やかな青藍せいらんしょくの派手なお召し物を身に纏った源氏名『月浜ユリカ』こと青山留利が登場した。しかもビッグゲストを連れて。鮎京は、輪をかけて驚愕せざるを得なかった。

「所長!?」

 この日の『ユリカ』の同伴出勤の客は刑部所長であった。

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