08 蹶起
もう少し静かに行動すべきだったか、と鮎京は職場から帰路に向かう途中ひたすら悔やんでいた。この狭い刑務所では行きすぎた行動は目立つことくらい、確かに目に見えている。
特に、刑務所というのは平穏であれば、基本的には同じ毎日が繰り返される場所だ。言い方は悪いかもしれないが、刑務官も基本的にはルーティンワークが繰り返されるのだ。実際には受刑者が問題を起こしてはその対応に追われるので、平穏無事にいかないこともしばしばあるのだが。
一方で、疑問もある。
刑務官が業務上必要な場合に受刑者と話をすることは、別段おかしなことではない。繰り返しになるが、実際青山に接触したのは、診察上必要な既往歴を聴取するためであり城野に指示されたからだ。
青山の情報を閲覧することも、今は電子化で自分のPCで叶う時代になった。それ自体もおかしな行為ではないし、刑務官の権限だ。
黒羽の取り計らいで麓から情報を聞き出したが、あれは勤務時間外の話だ。たまたまあの居酒屋に、刑務官が飲みに来ていたか。個室だから聞かれていたとか。いや、トイレに立つために何度か個室を出たが、見たことのある顔はいなかった。刑務官はそれなりにたくさんいるが、何せ刑務所内は狭い空間だ。しかも刑務所の古くからの慣習で、刑務官に出会えば何もなくても『異常なし』の敬礼をしないといけないので、顔を見れば関係者かどうかぐらいは分かる。
では、浜名湖西警察署の関係者が店内にいた可能性はあるが、その場合は麓にお咎めがいくだろう。警察は警察庁、刑務官は法務省の管轄なので、縦割りの公務員の世界では、省庁の壁を越えてこんな短時間うちにわざわざ現場の末端の刑務官にお咎めの言葉を言いに来るとは考えにくい。この行動で何か問題が起こっているわけではないのだ。
あとは、城野との会話の内容を聞かれてしまったか。それならあり得るが、青山の病状に疑義があるので、それについて医師と准看護師間でディスカッションしていたのだ。弁解の余地はいくらでもある、と思う。
そもそも、青山の人となりと罪状とがあまりに不釣り合いなので、誰もが疑問に感じるだろう、と勝手に思っている。だからと言っても本人が罪を認めて既に判決が下っているのだ。いち刑務官が疑問に思って調べたところで何も起こりようはない。
考えれば考えるほど、なぜ自分が上司のお叱りを受けなければならなかったか疑問に思ったが、所内ではそのような行動は謹まなければならないか。しかし、あくまで所内では、の話である。勤務時間外に情報収集のルートがあることは知られていないと思う。麓は貴重な情報源だ。
しかしながら、もし自分の行動で麓に迷惑がかかるのであれば本意ではない。
麓にコンタクトを図るのはしばらくはやめておいた方が賢明のような気がする。
一方で、やはり青山について疑問は募る一方だ。犯行の詳細を聞けば聞くほどに。
刑務官歴の短い鮎京とはいえ、ここまでいち受刑者に関心を持つことはなかった。仕事柄、彼らの罪状を否が応でも知ってしまうが、事件の詳細までほじくり出したいとは思わない。彼らを更生させるために必要であれば情報を収集することはあるかもしれないが、早くも模範囚的な素行を見せている青山に対して、ここまで調べようとするのは、自己満足以外のなんでもないのは認めざるを得ない。
そう分かっていても、何かが鮎京を突き動かしている。何かとは何だと問われてもよく分からない。
では、どうするか。
青山の妻か。そんな考えが
普通、受刑者の家族に個別に接することは出来ないが、麓の情報によるとそれがごく自然に叶う状況である。運が良いのやら悪いのやら。
なぜなら青山の妻はホステスなのだ。しかもその店の不動の人気ナンバーワンらしい。偶然を装って、会って話すことは出来る。
しかしながら同時に、言わずもがな鮎京にとっては非常に高い壁だ。その系統の店とは元来無縁だ。硬派な男なのだ。
入ったこともないし、どうやって入れば良いか分からない。どれくらいの費用を請求されるかも知る由もない。女性にもそのような店にも免疫が全くと言って無い鮎京が一人で赴くのは、あまりにも無謀であることは自明の理だ。
誰か──。誰か一緒に言ってくれる人間はいないか。無論、同じ刑務官とそこに行くことは出来ない。
ただでさえ狭い社会では変な噂が立つ。それ以前に調査をしていることがバレてしまう。
プライベートな友達は、出身地である
城野。
ふと、あのホスト然とした医師の顔が思い浮かんだ。彼なら行き慣れてそうだし、免疫のない鮎京に代わって青山夫人と話をしてくれるかもしれない。そして、あの男は刑務官たちから距離を置かれているところもあり、それが幸いして鮎京の行動が漏洩する可能性は低いと睨んでいる。
しかしながら、大して仲が良いわけではない城野と、キャバクラに行きましょう、と声をかけるのはとても
ダメもとだ。不思議なほどに自分でも開き直っていた。
ただ、保険は欲しい。
扱いにくい城野と二人きりで赴くのは、同性には耐性のある鮎京でも辛いものがある。二人だけでいるときは場が持ちそうもないし、いざ店内で女性に相手されているときでも、話に詰まったときに助け舟にならなさそうな気がした。
かと言って、刑務官の同僚や上官に声をかけるのはどうかと思う。後輩が上官を夜の世界に誘うのは弱みを握られるようで気が引けるが、そうでなくても真の目的が分かったら弱みを握られる以上に鮎京の立場が危ない。
非常勤歯科医師の月形なら、城野とも
播磨はどうだろう。薬剤師なら城野とも業務上繋がりは強い。彼の人となりからして城野とも上手くやってくれるに違いないだろう。ただ、彼も常勤職員で生真面目な性格だ。他の刑務官にも厚い信頼を寄せられているので、真の目的を話したところ、鮎京の考えを否定するかもしれない。いや、それ以前に鮎京の起こしている行動を岡崎づてで知っているかもしれない。
岡崎に注意されてから、どうも新たに所内の人間に青山に関する一連の疑念を説明することが
では、いっそのこと城野との関係性を無視して、部外者ならどうだろうか。
そうなると、候補者は一人しかいない。事情を分かってくれている黒羽だ。
彼であれば、所内に情報が
懸案事項としては、前述のように麓恭歌という
一瞬、鮎京は考えた。部外者の方が良いのなら、わざわざ扱いに苦慮する城野に来てもらう必要はないのではないか。
そうであれば、城野と場を持たせる心配も所内に鮎京の行動知れ渡る心配もないのではないか。酒を
しかし、城野は間違いなく
何と言っても青山留利は『
考えるうちに、城野が遊び人だという大前提は揺らぎないものになってしまっていて、当人にとっては至極失礼な話である。
どうやって誘い出そうか。帰宅してから、こんなことで小一時間悩んでいる自分が
まずは声をかけやすい黒羽から誘ってみよう。そして何が何でも来てもらう。それこそ、キャバクラにかかる代金すべて支払っても良い。と言っても、彼も公務員なので部外者からの接待を固辞する可能性もなきにしもあらずだが。
その後、ダメもとでも良いから城野に声をかけよう。そして、青山夫人を指名し城野にそのお相手を願う。
キャバクラのシステムをあまり知らないが、聞いた情報によると鮎京にもホステスがつくのだろう。正直鮎京には不要だ。青山夫人と城野のやり取りを傍観、傍聴しているだけで良いくらいだが、そのあたりの交渉も城野はしてくれるのだろうか。まったくもって勝手な期待を寄せているが、期待するだけなら勝手だ。
青山夫人の源氏名は『ユリカ』だったか。そういう情報は酒を飲んでいても忘れていないから不思議なものである。
『興味の対象が奥さんに移ってない?』
不意に居酒屋での麓の発言が脳裏を
興味の対象が青山夫人に移ったのは事実かもしれないが、それは別にキャバクラのご指名ナンバーワンを勝ち取るほどの美女だからというわけではなく、青山本人から調査を行うことに行き詰まったからだ。
しかし、調査したところでいかようにも活用方法のない、まさしく趣味の世界だ。
どんな言い訳をしたところで、キャバクラに行こうとしているのは紛れもない事実だ。逆に下手な弁明だと誤解されてますます
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