07 戒告

 青山が臓器提供のレシピエントである可能性が示唆された後は、あまり仕事が手につかなかった。幸い刑務所内で大きな事件が起こらず、穏やかに時間は過ぎ去って行ったので、上官にとがめられることはなかった。しかし青山の後の患者(受刑者)の診察はどうだったか、驚くほど上の空であった。伝達ミスをしていなければ良いが。


 昼休みになり、慌ててスマートフォンを取り出す。黒羽にメールを送る。内容はもちろん城野の見立てが、警察の得ている情報に合致しているか否かだ。

『遠州刑務所の矯正医官から、青山由栄が臓器提供を受けた可能性があると指摘を受けたが、それが正しいかどうか、彼女さんに確かめてくれ』

 すらすらと勝手に指が動く。

 正直、まったく緊急を要する情報ではないことは頭では理解している。情報として得たとしても、城野の判断でこれまでと同じ薬を処方し続けて青山の健康が担保されるのであれば、不要な情報だろう。はっきり言って、鮎京の興味の域を出ないのだ。

 しかし、何かとんでもないものが隠れているような気がしてならない。そんな根拠のない不安が、鮎京を突き動かしているのは紛れもない事実なのだ。


 数十分後、黒羽から返信が入ったようだ。承諾のメールだろうか。多忙な彼女から返事をキャッチしたとは考えにくいが、気がはやる。

『俺を通さず、直接やり取りしてくれ。メールアドレス:fumokyo-○○○◇◇☆☆@▲▲▲▲.ne.jp』

 黒羽は青山の犯行に興味がないのか、と思わず突っ込みたくなったが、考えてみれば既決囚の上に管轄も違う黒羽に興味を無理強いするのもおかしな話か。直接やり取りして良いのなら却って手間も省けるだろうと思うことにした。指定されたアドレスに送る。

 受刑者とはいえ個人情報を、セキュリティーの保証されていないネットワークに放り投げて大丈夫か、送信してしまった後に気になった。もしこれが麓ではない他者のアドレスだったら、一大事である。

 やすく送ってしまったことがもし上官にバレてしまったら、下手すると懲戒処分ものだな、とヒヤヒヤしながら待機すること十分ほど。

 幸い、返信は間違いなく麓恭歌のものだったが、案の定懸念していたことを指摘する、お叱りの言葉が添えられていた。ちなみにその半分は彼氏である黒羽に対してだった。


『麓恭歌です。もしかして連絡先ソウくんから聞いた!? 受刑者のモロ個人情報じゃん! たまたま宛先が私だから良かったものの、もし間違っていたらどうするの? 守秘義務違反で罪に問われる可能性あるよ。まぁ、もちろん私も居酒屋でいろいろ教えたけど、あれは証拠に残らないけど、メールは消さないと残るからね。取りあえずこのメールは削除しておいて! 分かった!? 私もメールを受け取らなかったことにする。ソウくんもソウくんよ! 機密情報を漏洩させている可能性に気付かなかったのかしら? 同じ警察官として自覚足りないよね!? しかも、私のアドレス勝手に他の男に教えてさ! 酷くない!?? 鮎京くんだからまだ良いけど、知らない男だったらそれこそ信じられない! 後でキツくおきゅう据えとかなきゃ! アイアン・クローでもかましてやろうかしら! あ、もしソウくんに同じようにメールしたなら、それも削除しといて! ソウくんにもメール削除するよう言っておくから! んで、おたずねの件だけど……』

 メールでしっかりお叱りを受けてしまった。至極ごもっともである。鮎京は軽率な行動を反省するのだが、このメールの非常に長い前置きに不覚にも笑ってしまった。笑ってはいけないのに……。これではまるで母親のようである。何、黒羽は彼女に対して粗相があると、プロレスの技を仕掛けられているのか。それ以前に、こんな長い文章を打てるなんて、意外に刑事一課も暇なんだな……、と失礼な感想を抱く。

 それはさておき本題に移る。メールの続きに目を向ける。

『んで、おたずねの件だけど、結論から言うと、そんな情報把握してない。本人も移植のことなんて言ってなかったし、こちらも調査で通っている病院に問い合わせたけど、そんな手術を受けたとは言ってなかった。初耳です……』

 なんと、警察も知らない情報なのか。これは警察がつかめていない情報なのか、はたまた城野の見解が間違っていたのか。しかし、鮎京はどうも前者の可能性が高い気がした。それはその続きの文面からも推察される。

『私の記憶だと、薬飲んでるから病歴について聴取しているとき、何か歯切れが悪かったんだよね。臓器移植って……。遺体の状態からしても、無関係には私も思えないんだけど……』

 麓も鮎京に同意見ということか。しかし、警察は、青山が自白している以上、そこはまつな問題として、深く病歴について掘り下げようとはしなかったようだ。本人が何故それを隠しているかは分からないが。

 なおメールには、『最後にもう一度言うけど、絶対このメールは削除しといてね! 私も消すから! じゃまたね! 今度この件で何かある場合は電話のほうが良いかも!』と、諄々くどくどと記されていた。というか、麓もメールで回答している時点で同罪ではないかと突っ込みたくなったが、やめておこう。


 取りあえず城野の見立てが正しいと仮定した場合、青山は何かしらの理由で臓器移植を受けていて、それを虫垂炎の手術だと偽っている。学歴詐称とはよく聞くが、これは病歴詐称である。しかしそんなことをして何のメリットがあるのかは、鮎京にはよく分からなかった。

 しかし、ある理由で青山はおそらくは手術痕を虫垂炎と、内服薬についてはリウマチの持病があると偽って欺いたのだ。警察は警察で、不可解な点はあるものの本人が白状しているため、掘り下げて調べようとしなかった。もしくは気付かなかったか。


 考えれば考えるほど、警察はそこについては見逃したかと解釈するのが自然のように思えてきた。

 城野は確か『膵腎同時移植』と言った。文字通り膵臓と腎臓を同時に移植する手術と思われるが、臓器の場所は虫垂とはかけ離れている。傷の大きさもまったく異なるであろう。それを医師である城野が見間違えるとは思えない。

 医務課に配属されてまだそこまで期間は経っていないが、城野の診察をいつも間近で観察していて、見た目とは裏腹に、非常に高い診察能力を持っているような気がしている。

 受刑者と言えば、概して自己管理が出来ていない者が多い。本人も知らない持病を、問診と少ない診察時間のみで推測し、示し合わせたかのようにオーダーした検査結果が城野の推測に当てはまっていく様子を幾度となく目にしていた。難関のT大医学部卒というのも伊達だてではなかった。

 城野はやはり医師として有能なのだ。そんな城野のことだから、その見立てが誤っているとは考えにくかった。


 そんなことを考えていた矢先、鮎京のスマートフォンが再度振動する。メールの差出人は麓恭歌だ。

『さっき、青山の身上調査書などを見てみたけど、病歴のところはリウマチと虫垂炎と書かれていた。ネオーラルという薬を飲んでるようだけど、病院にも裏が取れたみたいだから間違いないと思う』

 何と、病歴は誤りではないと。ということは城野の勘違いか。

 鮎京としては、城野の態度はさておき、診断力の高さには舌を巻いていた。上から目線かもしれないが、見直しているのである。

 同じ職場で、職種は違えど矯正施設に身を置く戦友として、城野が間違っているとは思いたくないという仲間意識が芽生え始めているのだ。

 

 城野に聞いてみるか。

 しかし、あの城野のことだ。面倒臭さを全力で表現する程、無愛想でぶっきらぼうだ。さして興味のない話は、ばかばかしい、などと言い放って一笑に付されるかもしれない。

 確かに馬鹿な話かもしれない。こんなこと確認してどうする。青山は既決囚なのだ。こんなことが事件に関わっている保証などないし、何か新しいことが分かったって何も起こりやしない。青山は刑期を全うするだけだし、鮎京たちは健康に配慮するだけなのだ。


 ののしられることも覚悟の上で、城野にこっそり聞いてみた。城野はだるそうにスマートフォンをいじりながら、コーヒー片手に足を組んでだらしなく座っている。

「何?」

 相変わらずやる気がなさそうだが、向こうから声をかけてきただけでもマシかもしれない。

「実は……」

 鮎京は、麓から聞いた情報と城野の見立てとの齟齬そごを報告した。

「あん? 警察は何か隠してるんでしょ。捏造ねつぞうに決まってらぁ」

 城野は警察の情報が誤りだという姿勢は崩さない。さらに城野は続ける。

「見た? だってあいつの傷さぁ、どう見たって膵と腎に及んでんじゃん。そんでもってネオーラルは免疫抑制剤だから、臓器移植のレシピエントだろ? 俺の筋書きだと、あいつは一型糖尿病DMだ。それが悪化して腎臓もパーだ。透析は透析で働き盛りの年齢の人間には辛い。だから誰かさんから臓器もらったんでしょ。もし本当にそんなイージーなことも見逃しているようなら、警察の連中もボンクラばかりだな!」

 城野はこれほどかというほど悪態をついた。もともと口が悪い男だが、ここまで罵倒したことは鮎京の知る限りなかったかもしれない。

「じゃあ、何で青山は本当のこと言わないんでしょうかね?」

「知るかぁ!」言下に城野は吐き捨てた。「それはアユキョー君たちの仕事でしょ?」

「まぁ、そうですね」

 動機的な側面には城野は無関心らしい。

「とにかく、俺は確信を持って言う。リウマチも虫垂炎アッペも適当に取り繕った嘘だ。警察の情報も間違い! いいな!」

 何が「いいな!」なのかは分からないが、ここまで断定してくれたことで逆に小気味良い。

「では、もう一つ先生に情報を。ご存知かもしれませんが」

「青山の情報か? 俺は受刑者の身の上話なんて興味ねぇぞ」

「でも、さっきの話に関連するんです。実は青山がった遺体からは、臓器が摘出されてたんです」

 城野の眉が、ぴくっと動いたのを見逃さなかった。

「どうです? 因果関係があると思いません?」鮎京は続けた。城野の反応に期待したい。

 しかし、発せられた言葉はそんな予想を裏切るものであった。

「ひょっとして、自分の臓器を手に入れるために、被害者の腹をかっさばいたでも思ってる!? それだとしたらちゃんちゃらおかしいね。だってどう考えてもあの手術創は四、五年は経ってる。事件はそんな昔にあったん?」

「いや、一年くらい前だったと思います」

 青山の事件については刑務官や他の受刑者にとっても、比較的記憶に新しいだろう。

「だから、犯行時には、移植が完了していたと考えるのが妥当だろう」城野が指摘する。

 なるほどと思うと同時に、かなり早く終局を迎えた感が否めない。

 犯人の自首、強力な情況証拠。素直な青山は、乗せられるままに容疑を認め供述調書にサインをして、送検、起訴されたのだろうか。

 公判前整理手続の期間が長いとよく言われ、審理期間(起訴から終局までの期間)が長期化する要因の一つである。しかも殺人罪だけではなく死体損壊罪も加わっている。猟奇的な事件ゆえ、被告の責任能力の所在なども争点になるのではないか。いくら自白したと言っても、きっともっと裁判がこじれて時間がかかるのではないか。控訴はおそらくしていないはずだ。でないと説明がつかないような気がする。

 鮎京には、検事や弁護士あるいは裁判官の知り合いはいない。いち刑務官の下っ端が、そこまで都合良く交友関係を持ってはいない。担当していた刑事との繋がりができただけでも奇跡的なのだから。

 さらに城野は続けた。

「万が一、自分の臓器を摘出する目的だったとしても、摘出した臓器はすぐに移植されなきゃならねぇよ。通常腎臓なら二十四時間以内、膵臓に至ってはインスリン離脱のためには八時間未満と言われる。しかもオペ室みたいな滅菌環境下じゃねぇ。そして臓器の保存のためには保存液や温度など厳密な管理が要される。素人が臓器を取り出して、その臓器を移植させることは百パーセント不可能と言える。しかも自分のためだなんて、そんなの誰が麻酔かけてオペしてくれんだよ?」

 確かに言うとおりだ。自分のために臓器を摘出するなんて動機は、途方もない考えだ。当たり前すぎる回答で、自分の無知っぷりをさらけ出したようで恥ずかしくなる。

 しかもあの青山が、そんな私利私欲のためにそんなことをしたのだろうか。仮に酒に酔って記憶を失っていたからと言っても違和感を感じざるを得ない。

 では、なぜ臓器が取り出されていたのだろう。

 そして、青山のドナーは誰なのだろうか。さらには、どこで手術を受けたのだろうか。

 考えれば考えるほど訳が分からなくなってくる。

 ネオーラルを処方していた病院は、警察が把握している。麓が知っているかもしれない。


 そんな鮎京の疑問を察知したのか分からないが、城野が口を開いた。

「もし、このあたりで移植してるんならてんりゅう医大だろうなぁ。あそこは臓器移植で有名な医師がいる。思い出したけど、臓器の保存とか生着率についての研究をやってるチームもある」

「なるほど」

 天竜医科大学は医科の単科大学であり、その附属病院は三次救急医療機関に指定されていて、静岡県西部の重症患者、難病患者が集まると聞く。ここ浜松市にあり、この刑務所からも遠くない。

 もっとも、受刑者で刑務所では対処しきれないような疾患にかんした場合は、医療刑務所に移送されるので、基本的にお世話になることはないだろうが。

 しかし、青山が臓器移植を受けている可能性が強く疑われていて、近隣に臓器移植に力を入れている病院がある。

 これは果たして偶然だろうか。

「ちなみにドナーはどんな人が考えられます?」

「もし献腎けんじん移植とかでなければ、ドナーは身内だ。六親等以内だな。血族なら」

「献腎移植?」聞き慣れないフレーズに鮎京はまたしても戸惑う。

「脳死や心臓死の患者からの移植のことだ。献腎移植じゃないのが生体腎移植だ」

 なるほど。生体腎移植の方が分かりやすい言葉だ。六親等以内というのは、近親の方が、手術成績が良いという意味だろうか。正直鮎京にはそのあたりの知識がよく備わっていなかった。

「臓器移植って、型が一致していないといけないんでしたっけ?」

「型って、骨髄移植で問題になるHLAのことか?」

 鮎京はどこかで聞いたことのある言葉だなと思い、「あ、そうそう、そうです」と相槌あいづちを打つ。

「HLAというのは『ヒト白血球抗原』のことだが、HLAにしても普通の血液型にしても一致していることにこしたことはねぇ。だが、最近は免疫抑制剤の進歩で生着率は上がってんだ。だから実際はあんまり問題ねぇよ。さっき六親等以内と言ったが、実は姻族いんぞくや配偶者でも構わん。ただし姻族なら三親等以内だ。すなわち法律上の『親族』だ」

 配偶者と聞いて、ふと青山の妻を思い出す。もし本当に生体からの膵腎同時移植を受けたのなら、青山の妻がドナーとなったのだろうか。とにかくドナーとなり得る人間であることには間違いない。

 そしてその場合は天竜医科大学附属病院で手術を受けたのだろうか。

 その前に青山は、収監される前はどこに住んでいたのだろうか。そんな基本的な情報を聞いていないことに気付く。

 日本には矯正管区と呼ばれるものがある。札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、高松、福岡と八つに区分けされている。移送される刑務所は本籍や住所に近いところとは限らない。主に事件を犯し、且つ最終判決を受けた場所の矯正管区から、その受刑者の性別や刑期、年齢、障害の有無などを考慮して移送先を決定するといわれる。ただ、これはではなく、今は何処も過剰収容の為、他管区の空きのある矯正施設へに送られることもあるようだ。

 浜松市は静岡県にあり、東京矯正管区に属する。東京矯正管区には、関東地方を構成する一都六県に加えて新潟県、長野県、山梨県、静岡県が含まれる。


 鮎京は詳細に医学知識を提供してくれた城野に礼を言ったあと、麓に再度情報提供を乞おうと思い、質問内容をまとめた。

 一、ネオーラルはどこの医療機関から処方されていたのか。(もし現在、かかりつけの近くの診療所で処方されている場合は、その前に逆紹介元の高次医療機関はあったのか。)

 二、青山の家族や親族の状況。

 あとは、青山の居住地についても調べておこうか。青山のもとに届けられた夫人からの手紙の封筒が保管されていれば、それで分かるだろう。

 身分帳も確認したいところだ。身分帳とは受刑者の個人情報が記載された書類であり、刑の起算日や満期日、信書・面会の記録、逮捕歴や事件の罪状、その受刑者の注意事項が記載されている。病院に置き換えるとカルテみたいなものである。他の刑務所に移送される場合にもこれ一つで申し送りが行われるほどだ。


 法務省の通知に則り、つい最近まですべて紙で処理されていたのが、徐々に電子媒体化している。まだ完全とは言えないが、職員のパソコンからデータが閲覧できるようになり非常に楽になった。

 青山の情報を確認する。ネオーラルは常用薬として記載されているものの、どこの医療機関から処方を受けていたかまでは記載がない。ここは、医務課が入力を担当する項目なので、鮎京らが知っている情報以上のデータはない。本人にどの医療機関から処方を受けていたか聞いたとしても、本気で隠したいと思っているのならば、正しい情報が得られるとは思えない。

 家族については、身元引受人の欄に妻である留利と記載されているのみだ。それ以外の情報はなかった。

 しかし、本籍についてはちゃんと記載されていた。見ると、愛知県豊橋市中原なかはらちょうとなっている。すぐさま地図で確認する。愛知県と静岡県の県境に接する区域だ。最寄り駅と言えば、もはや静岡県の新所原駅しんじょはらえきだ。

 これだけ近いところならば、県を跨いでも静岡県の西さいや浜松市も生活圏内に入ってくるだろう。国道一号線沿いに東へ車を走らせればほどなくして浜松の商業地区や観光地にもたどり着く。一方で、殺人を犯した場所までも静岡ということになる。でないと納得し難いところもある。なぜなら愛知県は名古屋矯正管区にあたる。つまり、愛知県で犯罪を犯した場合、おそらくは同じ管区の刑務所に入所することになるので、ここ遠州刑務所に入ることは考えにくいのだ。そして何よりも浜名湖西警察が捜査に当たっているので明白だ。警察というのは縄張り意識が強いと聞く。犯行あるいは遺体が発見された場所がどんなに県境近くでも隣の県なら手を出さないし出せない。

 ところが麓から聞いた話によると、市原紗浦の遺体の発見現場は室内だったと窺える。鮎京は青山の自宅で犯行に及んだという先入観を抱いていただけに、こんな初歩的な齟齬に今更気が付いた。

 自宅でないとなると青山はどこで犯行に及んだのか。敢えて自宅以外の場所を選んだのならどういう意図なのだろうか。

 

「……ぃ、ぉぃ、おい!」

「は、は、はい!」

 青山の事件が頭を支配しており上の空だった鮎京は、声をかけられていたことにしばらく気付かなかったようで、ひどく動揺する。相手は西条だった。

「鮎京……」話しかけるその目つきは、どこか鋭い。

「な、何ですか?」不穏な空気を感じ取り、鮎京もおもわず眉をひそめる。

「岡崎さんがお呼びだ」

 岡崎は医務課保健係長だ。思わぬ上司からの呼び出しに嫌な予感がして鮎京はならなかった。


 岡崎は同じ事務室内にテーブルを持つが、ジェスチャーで事務室の外に出るように促した。場所を変えようと言うのか。ここでは話しにくい内容だということは、岡崎の神妙な顔つきからも窺える。

 廊下に出ると、隣の医師控え室兼更衣室に移るよう指示された。中に入ると誰も居ない。

「鮎京」小さいながらもやけに低いドスの利いた声で話しかける。 

「はい」と鮎京は答えるが、その声は少し震えているのを自覚した。受刑者に脅されても動じないのに、堅気の人間だと不思議なことにそうはいかない。

「何を企んでる?」

「えっと……」

「青山のことばかりまわっているそうだな?」

「何で、それを?」

「そんなもん、おかしいに決まってるってすぐ分かる。城野先生にいろいろ聞いてるみたいだが、本来の業務には必要ない情報だろ? それに医務課の人間がに青山にコンタクトを取っているようだと、処遇部門からも苦情が来ている」

 確かに青山にコンタクトを取った。手術歴を聞いたときだが、あれは城野の指示によるものだ。

「……すみません」反論の余地はあるが、上下関係の厳しい職場だ。何を企んでいるかの答えにはなっていないが、取りあえず謝ることにする。

「変な考えは起こすなよ」

「分かりました」敢えて追及して来なかったのは、岡崎の優しさゆえか、はたまた鮎京の考えを読んでいたからなのか。

 でも、個人的な関心事なら理由を聞かずに追及をやめることはしないだろう。もっと上の意志がそこに働いているのではないかと、頭によぎった。

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