18 陥落

「こんばんは。アユちゃん。また、いらしてくれたのね。ありがとう! 嬉しい! あれ? 今日はお一人?」

 時間は零時を回っていた。日付は変わっているが、鮎京は眼前の佳人に逢えた喜びで満たされていた。なぜなら、予約を取ることすら難しい人気ナンバーワンの夜の蝶が、当日キャンセルか何かで急遽予約できると聞いたからだ。奇蹟である。鮎京の心は躍動した。待たされたとかは特に感じていない。逆にシャワーも浴びて今日一日分の汗臭さは消えているはずだ。さらに言えば睡魔もどこかへ消え去っている。

 『ユリカ』は、今日もまた麗しい。明眸めいぼうこうとはまさしくこの女性のことである。

 狼藉者ろうぜきものたちの行進のかけ声も、むさ苦しい湿気も、殺気立った目つきも、くすんだもえいろの制服も、その下に隠れる悪趣味な刺青もここにはない。鈴を転がすような澄んだ声、どこかわく的なムスクの香り、そしてフランス人形のような大きく円らな瞳、ドレスの瑠璃色とは対照的にしろく映えた艶やかで肌理きめ細やかなデコルテにそっと彩る青い蝶をかたどったボディジュエルとの調和の妙。これらすべてが、まるで干からびた大地に澄んだ水がしみ込むように鮎京の心を満たしていった。

「今日は、ひ、一人なんだ。あ、会いたかったんだ」

 やはりどこか会話がぎこちないないものの、この薄暗い店内においては、不安よりも快感が勝っていた。今まで、逃げ出したい気持ちがどこかにあった鮎京にとって、自分でも信じられない変化だ。ましてや一人でここにいる。これが、恋の力というやつなのだろうか。

「私も会いたかった。今日は開店からずっとここにいてさすがに疲れたけど、アユちゃんが来てくれて疲れが消えたよ。だってアユちゃんカッコいいから。でも、アユちゃんそれまでどこか心を閉ざしていて、瞳が揺れていた。でも今日は違う。純粋に私だけを見てくれている。やっと会いに来てくれたんだね。ありのままの心でありのままの私に」

 そう言うと、豊かな胸部を押し付けるように上半身を鮎京にあずけてきた。気付くと手を握られている。

 鼓動は高鳴るが、不快な緊張感はない。恍惚こうこつとも言える感覚。真相を明らかにしたいと強い使命が芽生えていたのが、『ユリカ』に触れるうちにもうどうでもよくなってきた。情けない。浅ましい。不甲斐ない。しかしそれがオスの本能なのだ。『ユリカ』のご尊顔がすぐそこにあり、吐息を感じる。お互いが顔を向けてふと目が合ったとき、『ユリカ』はそっと軽く鮎京に口付けた。あまりにも自然で、それが接吻キスと認識するのに暫く時間を要した。それをそれとようやく認識したときには、何の打算も計略もなく、ひとりでに鮎京はささやいていた。

「俺、『ユリカ』、いや、ユキのことが好きだ」


 お店が終わってから、来店してくれたお客さんと一緒にバーなどに行くことを『アフター』と呼ぶようだ。鮎京はここ一ヶ月の間にそんなシステムまで勉強していた。『Lapis Lazuli』の閉店時間が深夜の一時らしいので、完全にとりこと化してしまっていた鮎京は思い切って誘ってみたが、残念ながら店のシステムで禁止されているらしい。そう言えば、『ユリカ』には娘がいたというような情報を麓から聞いていたか。しかし陶酔しきっている鮎京は、その情報を思い出した所で、事件の解明に頭を切り替えるわけではなく、仮にこの女性を手中に収められたとしても実子ではない子の父親になるのか、などと完全に論点のずれた考察をし始める始末であった。

 すでに、調査目的のキャバクラ訪問はいつの間にか単なる口説き目的になっていた。鮎京の中で、青山がシロ、夫人の『ユリカ』もシロ、クロなのは川越ではないかという推測が、根拠もなく確信へと昇華していた。


 陶然と酔いしれながら、深夜一時を回っていたというのに非常識にも黒羽に電話をかけていた。右手で自転車を押し歩きながら、左手でスマートフォンを耳に当てていた。酒にも酔っていたかもしれないが、それ以上に『ユリカ』に酔っていた。完全に判断力を失っていた鮎京は、マナーは二の次で勢いそのままにスマートフォンから黒羽の発信履歴を探っていたのだ。

 月曜日の深夜(正確には日付が変わって火曜日)でありながら、呼び出し音は六回くらい鳴ったあとに黒羽は電話に出た。

『アユちゃん? 何なんだ? この時間に?』

 電話越しに高い声で『誰?』と聞く声が聞こえる。女か。何だ、彼女とは大喧嘩したかと思っていたが結局仲直りしたのか。しかも平日の夜こんな深夜に、二人とも一緒になって起きているとは、まぐわい目的かもしれない。そんなことに少々苛つきながら、鮎京は口を開いた。

「ごめん。みんなを『Lapis Lazuli』に誘ったりして巻き込んだけど、『ユリカ』は潔白だと思う」

『そうか……』

 意外にも電話越しの黒羽は驚かない。麓と一緒なら、もうちょっと動揺しても良いだろうに、などと思いながらも、そんなことを敢えて予想しながら発言していた鮎京自身の意地悪さに気付かざるを得ない。普段はそんなことをしない鮎京だが、やはり酔いが多少なりとも大胆にさせている。

『どうしてまた、急に? 何か掴めたのか?』

「俺の推理を話す。聞いてくれ。もちろんそれに当たっては、彼女の協力がいるんだが……」

『あ、ちょっと待ってくれ、ハンズフリーにする。実は隣に連れがいるんでな』

 やはり黒羽は、麓と一緒にいるようだ。

「いいのか?」

『大丈夫だ。準備は整ったから』

「じゃなくて、ほら。クロちゃんをさ、店に誘ったり……」キャバクラに誘ったことを麓にバレてしまうのではないかということを鮎京は懸念したのだ。

『それも大丈夫。敢えてアユちゃんの行動を見越して、恭歌は俺にキャバクラに付き合わせるために、喧嘩を持ちかけたんだ』

 しばらく意味が分からず、鮎京は黙る。電話越しの黒羽は続ける。

『俺が、君に誘われて「Lapis Lazuli」に行っていることは、とうにバレてんだよ』

「ええっ?」鮎京はにわかには信じられなかった。

『まあいいや、アユちゃんの話を聞かせてもらおう』

 鮎京は、天竜医科大学の臓器移植の権威であるという川越が、『Lapis Lazuli』の『ユリカ』に出会い恋したこと。『ユリカ』を自分のものにしたい川越は、『ユリカ』が金を無心されて忌み嫌っていた市原紗浦を殺害し、その罪を夫に着せる計画を立てたこと、臓器を摘出することによって、夫と関連づけることを意図したことを話した。川越がったのであれば、臓器が綺麗に摘出することは技術的に可能だろう。と。

『……』

 黒羽にしては珍しく、その推理に対して何も反応を示さないでいる。

「──どうかしたのか?」

『青山の奥さんに恋したのか?』

「えっ! いきなり何を!?」

 問うてはいるがどこか確信めいた黒羽の声は、確実に鮎京の心の内を読んでいた。なぜ悟られた。鮎京は大いに驚かざるを得ない。

『今、店に行ったな? そして恋に堕ちた』

「そ、そんなことない!」必死になって鮎京は否定する。

『まず、アユちゃんが緊急でもないのにこんな時間に電話するなんておかしい。それで、出てきた推理は「ユリカ」を擁護してると言っても過言ではない内容……』

「よ、擁護だなんて、失礼な!?」冷静さを失いかけた鮎京は、思わず声を荒げる。

『今な、ちょうど事件について恭歌と話してたんだ。恭歌はな、署で調書を調べたりして事件を探ろうとしている。正直、自首という形で解決したためか、これといったものは出てきていないらしい。でも青山と「ユリカ」に関する情報を何とか繋ぎ合わせている。今のところ、俺たちの見解は「ユリカ」が事件に何らかの形で関わっている可能性は捨てきれない、と思ってるんだ』

「でも、クロちゃんも、第六感的に『ユリカ』さんからは、少なくとも犯罪者っぽいにおいは感じなかった、ってこの前言ってたじゃないか?」

『そんなものだけを頼りに調査してるのかい? 確かに勘は大事だが決め手にはならない。特に相手はナンバーワンホステス。ある意味で接客のスペシャリストだ。そのような臭いを消すどころか、惑わせるほどのやくに変えてしまうくらいのテクニックを持ってしかりだろう』

「……」

『ついでに言うと、君は「ユリカ」を調査対象ではなく、恋愛対象として通うことに決めた。だから独りで店に入った。そうじゃないと、あれだけキャバクラを怖がっていたアユちゃんが、独りで店に行こうと思わないはずだ。すっかり虜になってしまった君は、彼女を犯人にせず、他の第三者が犯人であるようなけんきょうかいの説を唱えた。でも俺らからすれば、川越が犯人である説は到底納得いかない』

「うるさい!」

 反射的に鮎京は電話越しの相手に怒鳴りつけていた。口では否定したがっているが、図星なのだ。悔しいことに。

『いいか? 冷静になれ』黒羽の声はあくまでも静かで動揺を感じさせない。

「罵倒されて、冷静になれっかよ!」

『川越犯人説はあり得ない。川越が臓器を摘出したのなら、自分は犯人ですよと言ってるようなもんだ。それにどんな口実で、どんな手口で青山夫妻を眠らせたんだ?』

「そ、それは、これから明らかに……」

『いや、明らかにするまでもない。臓器摘出と聞いて、川越が犯人である可能性について考えたよ。そして、川越にはアリバイが確認された。川越は事件の起きた一年前の五月十三日の夜八時、学会会場である福岡ふくおかに前日入りするために新幹線で移動している』

「えっ?」

『川越の鞄持ちとして同行していた女性医局員がいるらしい。実はちょうど城野先生からその連絡が入ったんだ』

「そんな……」鮎京の推理は根本から打ち砕かれた。それに加え、鮎京が『ユリカ』という夜の蝶の骨抜きにされていることを、簡単に見抜かれてしまったのだ。そんな二重の衝撃によって物理的に骨抜きにされたように、鮎京は膝から崩れ落ちた。

『警察が容疑者に対して恋に堕ちたら失格だ。鮎京は警察じゃないが、今は警察が組織としてできないことを調べようとしている時点で、立ち位置は警察よりもはるかに上だ。もし顕在化すれば社会問題になり得る。しかも恭歌は、警察の人間でありながら、誰の協力を得ずたった独りで事件の裏側を調べていた。無辜むこの人間を逮捕したなんて報道が表に出たら、少なくとも恭歌にもマイナスの影響が及ぶことを覚悟していながら、だよ。それを君は、そんな浅はかな推理で、さらには「ユリカ」に惚れてしまったというだけで、軽々に川越を犯人と決めつけるとはいかがなもんかな? 城野先生は天竜医科大学で、医局員からかなり聞き込みとかして内偵してるらしい。もし川越が犯人ならそれに足る証拠を、ね。あの面倒くさがり屋そうな城野先生が、だぞ。アユちゃんが、キャバクラでうつつを抜かして、川越を犯人に決めつけるのは勝手だけど、すでにそれぞれの立場を超えて協力に当たってもらっているほど、みんなを巻き込んでいることを忘れないで欲しい。俺からは以上だ』

「う……」

 言い返したくて、正確にはせめてもの言い訳をしたくてたまらなかったが、残念ながら適切な言葉が思い付かなかった。

 そのとき電話越しで、麓と思しき声が聞こえてきた。『はい、麓です』と言っているように聞こえる。彼女は彼女で電話をしているようだが、こんな時間に一体何事だろう。

『ええええっ!!』今度は彼女の大きな声が鮮明に聞こえた。

『恭歌、どうした!?』先ほどまで冷静だった黒羽が、慌てて麓に問うた。

 電話越しで、二人で何やら話している。十秒もしないうちに今度は黒羽が『嘘っ!?』と驚愕している。何だか嫌な予感がしたが、それは的中することになる。

『天竜医科大学の川越のぶと思われる男が遺体で発見されたらしい。市原紗浦の住んでいたアパートのすぐ裏の雑木林で! しかも、ぞ、臓器と肋骨の一部を摘出されてるそうだ……』

 麓、黒羽よりも大きな声で鮎京は驚倒した。影響で押していた自転車から右手が離れてしまい、ガッシャーンと大きな音を立てて道に倒れてしまった。

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