第三幕【腺病質の豎子(The frail child)】

17 艶羨

 鮎京は、帰宅して風呂に浸かった。一人暮らしということもあって、いつもはシャワーで簡単に済ませてしまう。そんなカラスの行水ばかりの鮎京が、今日は珍しく浴槽にお湯を張った。

 まだ考える材料は足りないと思うが、憶測で無理やり事件を組み立ててみる。

 青山が犯人とは思えない以上、青山が犯人でないものとして仮説を組み立ててみる。

 臓器に障害を負っていた青山が他人の正常な臓器に執着を持っているとして、真犯人がそれを知っていたら、市原紗浦を殺して臓器を摘出すれば、青山をスケープゴートにすることができる。しかしなぜそこまでして、青山を犯人にしたかったのか。

 夫人である『ユリカ』は、夫が逮捕されて利益などあるのだろうか。通常はないだろう。ないどころか害を被る他ない。第一、愛娘もいて、夫はちゃんと企業に勤めている。傍から見たら幸せな一家ではないか。

 では、青山が逮捕されることによって、利益を享受する人間。つまり青山を憎んでいた人間だ。しかし、青山の性格が本質的に誰かに嫌われたり恨まれたりするような人間には見えない。ただ、今になってやっと気付くことがある。青山の存在をいとわしく感じる立派な動機が。

 そう。『ユリカ』のあの美貌を見てよこれんしていた人間は、おそらく少なからずいたに違いない。嫉妬心ゆえに芽生える憎悪だ。今まさに、鮎京がそう感じているように……。


 青山が『ユリカ』の心をいかようにして射止めたかは分からない。

 しかしながら、あの天竜医科大学の臓器移植の権威であるという川越という男が、『Lapis Lazuli』に通っていて、そこで『ユリカ』に出会い恋にちる。または、青山の手術を経て『ユリカ』に恋をし、水商売をしていることを何かで知り得て、通うようになったかもしれない。

 『ユリカ』は既婚者であったが、その想いは募る一方だった。どうにかして『ユリカ』を自分のものにしたい川越は、『ユリカ』が以前から金を無心されて忌み嫌っていた異父姉妹の妹である市原紗浦を始末し、その濡れ衣を夫に着せる計画を立てた。そして、何かしらの方法で市原を殺害。この状況を作り上げるには、青山夫婦を同時に殺害現場で眠らせる上に現場を密室にするという状況を作り上げる必要がある。それはどのようにやり遂げたかまでは分からない。ただ、臓器を摘出することによって、夫と関連づけることを意図した。

 青山夫婦は眠りから覚めて驚愕することになる。そこに市原の死体があったから。部屋には鍵がかけられ、おそらく青山の手には市原を殺めたと思われる凶器が握らされていたのだろう。青山が酒などに酔うと意識がなくなり変わった行動を取ることは、以前から噂されていたのかもしれないし、本人もそれを聞かされていて知っていたかもしれない。これは聞いてみないと分からない。とにもかくにも現場が密室で、どう考えても夫婦のどちらかが犯人であることを明白な状況で、青山は妻を庇って自首した。そして警察は充分な検証を行わないままに、自白をもって彼を逮捕した。

 これならば、綺麗に臓器が摘出されていたという、技能的な問題はクリアされる。


 ただし疑問も残る。青山夫婦を同時に眠らせる都合のいい方法など果たしてあるだろうか。しかも殺人現場で。遠隔操作で青山夫妻に睡眠薬を飲ませたり、まして点滴などを用いて経静脈的に鎮静剤などの薬剤を盛ったわけでもないだろう。もちろん、それらを行うための口実も見つからない中でどうなし得たのか。そういった蓋然性がいぜんせいを問う問題から、そもそもたったそれだけの理由だけで、もし暴かれれば間違いなく築き上げた名声を失うという危険性を認識してまで市原を殺害するに及ぶだろうか、というベネフィット・リスク・バランスの疑問まである。また、臓器を摘出することで青山に疑いの目を向かせると考えたが、それは同じくらいに川越自身に疑いを向かせる行為でもある。

 さらには、そもそも一体誰が青山に臓器提供を行ったのか、という問題は依然として残る。こればかりは城野の手を借りないと解決できないかもしれないが。


 もう一点、もし川越が青山に憎悪を抱いていたとしたのなら、なぜ青山を殺さず、川越とは無関係そうな市原紗浦を殺めたのか……。

 そもそも市原紗浦とはどんな人間だったのだろう。事件をスマートフォンで検索してみる。ニュース記事を閲覧した鮎京は驚愕した。市原紗浦は『ユリカ』と顔つきがよく似ていたのだ。彼女もまた非常に美しい。少なくとも写真からは。異父姉妹ということであれば、共通する母の遺伝子を二人とも強く受け継いだのだろう。ついでにあの『ユリカ』はもう一人違う誰かにも似ているような気がした。残念ながらそれが誰か思い出せないでいた。

 この事件は、まだ解明しなければならない謎がたくさんある。たくさんあるのだが、それを解決に導くための情報はおそらく圧倒的に不足しているし、それ以上論考する余力も残されていなかった。

 ただ、直感的に思うのは、『ユリカ』はシロだ。あの麗しい瞳は、明らかに犯罪者ではあり得ない。そう、青山由栄もまたそうであるように……。


 身体は疲れているはずなのに、なぜかあまり寝付けずそのまま翌朝を迎えてしまった。寝ようとしているのに、雑念がそれを許さなかった。結局しっかり熟睡した時間は三、四時間程度か。頭がぼやぼやしている。しかし職場に行って、無頼漢どもを矯正しなければならない。自分が望んで進んだ道とは言え、やはり仕事には少なからずストレスは感じる。そんな使命感と眠気による怠け心とのかいが、鮎京を不機嫌にする。

 職場に着いて、表向きは平静を装っても、職務のちょっとした合間合間に睡魔が襲ってくる。ところどころ注意散漫になってくると城野にも怒られる。しかも、今日は青山が受診する日だ。受診といってもおそらく薬を処方するだけだろうが。

 医務室の待合室にいる青山の顔を見る。相変わらずさつのような顔つきだ。しかし、なぜか鮎京には沸々と不快感がこみ上げてきた。

「おら、青山! 願箋のいん、もっとしっかり押せや」

 普段の鮎京なら充分看過するようなまつなことだ。印鑑を所持しない受刑者は願箋の署名とともに、印鑑の代わりで拇印をす。たしかにその拇印は不鮮明だったが、怒るほどではない。しかし、何故か鮎京は苛々いらいらしていた。

「はっ、はい! 以後気をつけます!」

 青山も思いもよらないことで思いもよらない刑務官に怒られて、かなり驚いている様子だ。

 眠気に加え、眼前の受刑者が逮捕される前は『ユリカ』という絶世の美女をほしいままにしていたことが妬ましい。卑屈な嫉妬心からくる憂さ晴らしだ。情けないが、これが男のさがだった。つまるところ、鮎京の頭は完全に『ユリカ』に支配されていた。

 青山の無実を白日の下に晒してやるという仁愛は、妬みそねみから成る嫌悪に呑み込まれそうになっていた。この男は放っておけば、よしんば模範囚であり続けても、最低三十年はこの中にいることになる。無実であればこんなことあってはならないはずだが、りんはいともやすく鮎京の倫理観を乱れさせた。

「鮎京、何か今日お前変だぞ」西条にもいぶかしげな表情で指摘された。

「あ、すんません。大丈夫です。きっと気のせいですよ」と、慌てて適当な返事でお茶を濁し、その場を取り繕う。

 勤務時間を終えると、鮎京は仕事もそこそこに切り上げ、独りいそいそと退所した。そして、一ヶ月前まであれほど躊躇していた電話番号に、気付くと自然に手が伸びていた。

「もしもし。『ユリカ』さんを指名したいんですけど」と、予約電話をかける鮎京の声はよどみなく、自分でも人が入れ替わったかのような不思議な感覚であった。

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