終幕【鮎京 英(Ayukyo Masaru)】

鮎京 英 の章

 約五メートルもの無機質なぎんねずのコンクリート塀に沿って咲き、鮮やかに染めるソメイヨシノのあかねいろの対比が、奇妙に思われて仕方がなかった。秋の季語にもなっているというさくら紅葉もみじ。その色は違えど約一年半前の既視感デジャヴを感じている。


 青山ゆりかが生死を彷徨さまよい、そして城野らの手によって救われたあの日から、一年以上経過した。目まぐるしい毎日だったが、振り返ってみるとあっという間の一年間という期間だ。罪人と日々接触する仕事ゆえ、そのあたりの知識はかなり役立ったのではなかろうか。自分でも驚くほど落ち着いた心持ちで臨むことができた。

 対照的に、この一連の事件に対する世間の喧噪けんそうは甚だしいものだったという。浜名湖西警察署や遠州刑務所だけでなく警察や法曹界を大きく巻き込んだらしい。警察庁や法務省は対応に終日追われ続けたという。いちばん社会的制裁を受けるべき張本人は、ある意味まもられて落ち着いているのに、周りはパニックに陥っている。遠州刑務所ムショの刑務官らは、逃げた俺を殴りたくて仕方がなかっただろう。


 そびえ立つ高塀たかべいを眺めながら俺はそんなことを考えていた。

 事件から今に至るまでの、詳細を振り返ってみる。

 以下は、拘置所の面会室にて、クロちゃんと麓さん、あるいは城野先生から得た情報である。なぜなら、自身が既に現行犯でお縄についていたからだ。


 市原紗浦の殺人に関与した疑いで、青山留利は署に同行を求められた。署に同行させたものの、そこで悶着があった。

 浜名湖西警察署は一度審理され判決の下った事件を、実は冤罪だったと認めることに非常に抵抗したそうだ。しかし、麓さんは、城野先生と青山留利、青山由栄らのやり取りの一部始終を録音していた。それを聞かされた署の上層部は、驚愕とともに怒りにも似た非常に渋い表情をした。組織の下層の人間が、勝手なことをやってくれるな、と。

 ところが、麓はさすがに長いものに巻かれることなかれと、必死で食い下がった。

「警察のつまらないメンツのために、一人の受刑者の人生を犠牲にし、一人の罪のない女児を死の危険に晒し続ける気ですか!?」

「八十万人近くいる浜松市民を、川越殺人の犯人未逮捕の恐怖にさらし続ける気ですか!?」

「一人の刑務官の逮捕を無駄にする気ですか!?」

「後になって、もしそんなことが明るみになったときに、警察の信用は失墜しますよ!」

 信念を曲げず独立どくりつ不覊ふきの精神で捜査を行ってきた麓の訴えも、梃子てこでも動かし難い幹部の心はなかなか微動だにしなかった。


 しかし、ここで署に播磨幸克が現れたのだという。

 絶妙なタイミングであるが、実は城野先生が播磨に電話をかけたらしい。隠匿されていた真相を話し、引導を渡したのだろう。警察に出頭せよ、と。

 播磨が素直に署に向かった理由が、城野先生の忠告に応じてすべての罪を打ち明けるためだったのか、青山留利を弁護するためだったのかは判然としないが、録音の一部始終を聞かされるとあっさりと認めたらしい。また、播磨が来たことで最初は虚勢を張っていた青山留利も、播磨に反駁はんばくの余地がないと分かると観念し、事件への関与を認めたとのことだ。


 城野先生の推理どおり、殺害、死体の損壊、臓器の遺棄など直接手を下したのは播磨であるとのこと。それを計画し、教唆したのは留利本人であり、留利に手を汚させないために、タイミングを見計らって市原紗浦の家のすぐ近くで待機していたという。口論が聞こえてきたら合図だ。揉み合いとなっているところに援護射撃と言わんばかりに播磨は侵入し、背中にナイフを一突きし、市原紗浦は果てた。

 口論の原因は金銭トラブルであるが、それは青山留利によって仕組まれたものだ。殺害から死体損壊までを播磨幸克に協力させるための綿密な根回し、青山由栄の指紋を包丁に付与したり精液を市原の体内に残したりするなどして罪を着させ、あまつさえ自白させる誘導のためのマインドコントロールに至るまで、その精緻な計画に犯人ながら舌を巻かざるを得なかった。そして、まんまと警察はミスリードされた。

 青山の自宅のある愛知県でなく、市原の住んでいた静岡県を犯行現場に選んだのも、意図的に行われたことで、矯正管区を名古屋ではなく東京にするためだった。青山留利は市原殺害前から、刑部所長と、ホステスと客という関係があったのだ。刑部がそのトップを務める遠州刑務所に収監させることによって、夫である青山の処遇について融通が利くと考えたのだろう。東京矯正管区の唯一のLB指標であるので、極刑にも短期刑にもならない絶妙なさじ加減を狙った、極めて計画的な犯行である。

 また、青山留利はそれだけでは飽き足らず、川越允軌を、市原紗浦とまったく同じ方法で播磨に殺害させたのだ。川越殺しに関しても、播磨にマインドコントロールを施し殺人を教唆した。播磨は、愛する留利を性的強要から守るため、そして警察の面を汚すため、能動的に川越を殺める。しかし留利にとっては、あくまでも夫を冤罪にするという大芝居のためだ。川越の殺人は主目的ではなく、冤罪から夫を救うために粉骨砕身努める献身的な妻を演じるためだ。収監後に青山由栄との接触も必須のため、制限区分の二種への格上げと処遇に関する情報を供させるための刑部所長への働きかけも行われたため、青山由栄も播磨も川越も刑部所長も、男としてのさがを留利の自己満足な欲求に利用された。もっとも、事件当時は利用されたなど思っていなかっただろうが。

 驚くべきことに、青山留利の市原を排除する計画は、かなり早い段階であったらしいということだ。ここからは麓さんたちの推測だが、その昔、市原も留利に勝るとも劣らない美貌にて、『Lazuriteラズライト』というキャバクラ店で人気を博していた。一方で、留利は当時『Goldenゴールデン Berylベリル』というキャバクラ店で不動の人気を誇っていた。留利は自分の店では無敵の人気だが、ライバル店の市原紗浦が邪魔だった。幾分、彼女に客を吸い取られているかと思った留利は、市原紗浦をホストクラブへと誘った。留利は、市原紗浦はもともと金遣いが荒いが、愉楽を感じると金銭感覚が麻痺することを悟っていた。そして現実、市原紗浦はその目論見どおりホストクラブに没頭するあまり、キャバクラによる収入では賄いきれず、留利の勧めでソープランドへの転職を余儀なくされた。それにより、『Golden Beryl』のみならず、浜松において『夜の蝶』としての地位を象徴的なものへ昇華させただけでなく、柱を失った『Lazurite』は閉店へと追い込まれた。

 それを機に、留利は『Golden Beryl』の店の名前の『Lapis Lazuli』への変更を提案したのだ。いや、変更しないともうここでは勤められないとでも言ったのかもしれない。『Lapisラピス Lazuliラズリ』は、『Lazurite』と語感も意味も酷似しているので、店長の反応は渋かったようだが、結局浜松一の稼ぎ頭を失うわけにもいかず、要求を飲んだそうだ。

 これは、『留利(=瑠璃)』という自分の本名を、店の象徴的なものにしたいという、至って自己満足的な欲求であった。

 一方で、源氏名として愛用していた『ルリ』を捨てて、『月浜ユリカ』という新しい源氏名を名乗る。また、客には偽名として『ユキ』をという名を使うようにもなった。これらは播磨幸克との関係を示唆するものであり、あわよくば播磨が犯人だとミスリードさせる意図だったのだ。


 事件の真相が明るみになった今、改めて考えてみると、医師の反対に耳を傾けず腹膜透析を続けさせられた、青山ゆりかはいちばん気の毒だったろう。ゆりかは、母の源氏名と同じ名前を与えられている。通常、我が子に、源氏名と同じ名前はつけないだろう。自分の娘が、今後何かの折で母親がホステスであることを悟られることを助長させる。虐待とまでは言わないまでも、青山留利が娘の人生を軽視していたという解釈もやむを得ない。

 また、夫である青山由栄も、青山留利に騙された人間としては、第三者的に見ると、かなり気の毒である。

『旦那の苗字に惹かれて結婚したんだ……』

 あのときクロちゃんはそう推測した。かなり大それた推論であり、そこまでの本音は青山留利本人からは聞けていないという。

 青山留利は夜の世界に舞う蝶。それは終始青の衣装を身に纏い、瑠璃色の蝶の装飾を身につけていたことから、殊に、幸せを呼ぶというオオルリアゲハ(学名:Papilioパピリオ ulyssesユリシス、英:Blue Mountain Butterfly, Blue Mountain Swallowtail)に自分を重ねている可能性は高いかもしれない。

 オオルリアゲハのはねは、人々を魅惑するターコイズ・ブルーの鮮やかな青。しかしそれは表向きの色だ。意外と知られていないが、翅を閉じると、そこには茶褐ちゃかっしょく翅裏はねうらが現れる。いま思うと、オオルリアゲハの暗い色の翅裏こそが青山留利の真の顔ではなかったのではないかとさえ思う。


 幾多もの人間を虜にするくらいの艶やかな美貌と眩しいほどの明るい一面、他方でその陰に隠れる暗い過去と陰鬱で歪曲した一面とを併せ持ち、さらには奇しくも『ルリ』という名前を兼ね備えた女性が、いつしかその存在をオオルリアゲハに重ね合わせ、名実ともにそれに近付こうとした。その完成形が『青山(Blue Mountain)』姓の獲得だったのかもしれない。たとえ、それが既婚者になるということであっても、理想の姓を所望したのだ。そんなことのために青山由栄は利用された。

 しかし、青山由栄自身はどう考えているのか。意外にもネガティブな捉え方ではないという。

 きっかけや経緯がどうであれ、ゆりかという目に入れても痛くないほどの愛娘を授かったことがその理由だという。それを叶えるためには、青山由栄には大きな障壁があった。一型糖尿病である。それに付随する腎障害はかなり重篤で、透析を要するほどにまで衰弱していたのだ。健康な腎臓と膵臓を提供できる身内がいない状態で、青山留利はまがりなりにもしたのだ。そして免疫抑制剤を服用しながらも、健康を維持している。娘も同じ病に冒されてしまったのは不運であるが、それでも愛すべき娘がいるということは、青山由栄にとっては代え難き幸せなのだ。


 青山由栄は、あの夜いったんは遠州刑務所に戻されたが、ほどなくして播磨が出頭し、留利とともに犯行を自供した。同時に青山由栄が無実であることを打ち明けた。

 それからしばらくの間、浜名湖西警察署内では対応に追われ混迷を極めたことは、言をたない。

 青山由栄は再審により、無実であることが認められ、誤認逮捕ならびに誤判から救済された。青山由栄が釈放され、すずめの涙ほどかもしれないが補償金を受け取り、晴れて現在は脳死患者から腎臓と膵臓を移植され元気になった愛娘の青山ゆりかと、二人で平穏な毎日を過ごしているという。ゆりかの若さとこれ以上の透析の難しさから、すぐにドナーが見つかったそうだが、やはり一連の事件の被害者の一人として注目が集まっていたことも一因と推察される。


 やっとのことでおやは平穏を手に入れ、代わりに警察と裁判所と刑務所の信頼は地に堕ちた。

 故意に囚人を脱獄させるという、前代未聞の刑務官。それに対するバッシングは、それはもう酷かったという。所長は懲戒免職、他の所の幹部も処分を喰らった。さらには当直に当たっていた西条さんや府中、医務課の上司である岡崎係長までも懲戒を受けた。

 しかしながら、青山由栄の冤罪を明らかにしたことに対する鮎京元刑務官に対する賛辞が少なからずあったもの事実。刑務官としてあるまじき行為をしたが、人間としては素晴らしい行為だという。著しい賛否両論で、マスメディアやSNSなどを一頻ひとしきり賑わせた、と聞いた。

 城野先生は拘置所にもよく顔を見せてくれる。今でも矯正医官を務めていると、こちらに赴いてくれたときにそう言ってくれた。

 第一印象でふざけた印象を抱かせた城野先生だが、少し自分の中のケジメなのか、ホスト然とした長髪はやめて短く整え、精悍せいかんな印象へと変化させていた。こちらのほうが似合っていると思う。青山由栄を医師として冤罪から救った立役者はその診断力を買われ、一部の医科大学から常勤のポストを与えるから来て欲しいとお声がかかっているそうだが、少なくともまだ矯正医官の後任が決まらないことには難しいのでは、と返事を保留している。本当は、医務課が率先して代わりの医官を手配するところだが、遠州刑務所も収拾がつかない現在、それが叶わないのだ。そのあたり実は義理堅い男だ。個人的には城野先生ともあろう切れ者の医師が、遠州刑務所の医官に留まっているのは、非常にもったいないと思う、と所感を伝えた。

 

 その後、マスメディアの報道も手伝って、稀代の美女から一転して稀代の悪女と非難を浴びた青山留利とそれに手を貸した播磨幸克は、一審で無期懲役を言い渡されたらしい。

 弁護側は、青山留利の代理ミュンヒハウゼン症候群の疑いの背景には、幼少期経験してきた虐待などの背景が関与しており、複数の精神疾患の可能性、ひいては責任能力の著しい減退状態を主張し、刑の減軽あわよくば無罪を主張しているらしいとのことだ。クロちゃんは、弁護士に対してもマインドコントロールが働いているのではないか、との見解ではあるが。

 これが本当なら控訴することになるのだろうか。それともこの判決を妥当として受け入れるのだろうか。俺としては、青山ゆりかの平穏のためには、この事件の顛末が早く収束することを希求するばかりだ。


 


 刑法第101条(看守者等による逃走援助)

  法令により拘禁された者を看守し又は護送する者がその拘禁された者を逃走させたときは、一年以上十年以下の懲役に処する。


 俺は看守者等による逃走援助を犯した罪により一年九ヶ月の実刑判決が言い渡され、房総ぼうそう刑務所に収容された。かつての職場からも犯行現場からも遠い千葉県南部にあるきみ市のやや東部に位置する。そしておなじ矯正管区でありながら縁もゆかりもない場所。物理的には遠いはずなのに、この高塀の中はどこも似たり寄ったりで皮肉なほど身近なものに感じている。慣れたこの閉鎖的な空間で俺の第二の人生が始まろうとしている。

「番号っ! 名前っ!」元同業者の点呼が所内にこだまする。

「はいっ! 448番! 鮎京英!」


 かくして俺は虜囚になった。


(了)

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虜囚達と夜のユリシス 銀鏡 怜尚 @Deep-scarlet

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