36 虜囚

『あ、鮎京くん!?』

『アユ! お前、正気か!?』

 鮎京の発言に、電話越しから麓や黒羽の驚きの声が聞こえる。しかし、もう鮎京の身体はひとりでに動いていた。スマートフォンの通話ボタンを消す。賑やかだったスピーカーは静かになる。

 現在は、いつの間にか日付が変わって午前一時。決意を前にし、西条には非常に申し訳ない気でいた。秘密裏にわがままな要求に応じてもらっただけでなく、刑務官としてのタブーを犯そうとしている。いち刑務官の問題でなく、全刑務所、いや法務省を巻き込む前代未聞の大不祥事を。その時間帯に夜勤だった西条に、処分が下らないわけがない。

 協力をしてもらった手前、黙って逃げたくはなかったが、電話を鳴らせば全力で制止しにかかるだろう。保身とかそういう問題ではなく、刑務官としての役儀、道徳、品位を守るためだ。武蔵野医療刑務所からのよしみがあるだけに、それだけが後ろめたかった。西条さん、ごめん。鮎京は心の中で西条に謝罪した。しかし、後ろめたさは、決行に当たっては邪念であり妨げになる。首を振ってすぐに頭を切り替える。

「刑務官さん、私は……」男のくせに涙のしずくで頬を濡らした青山が心配そうな顔つきで鮎京を見る。

「俺は……、刑務官である前に、一人の人間でありたいんです」

「気持ちは嬉しいです。しかしそれでは刑務官さんが……」

「もう決めた。というか、あなたに会ったときから何となく感じ始めていたんです。俺は、あなたを虜囚のままにしてはいけないって。警察でも裁判官でもないけど、潔白な人間を罪人のままにしておくのは……、俺はできないんです。俺が、そもそも刑務官の道を目指した理由っていうのがそれですから。仮にそれが法に反する行為であっても」

「しかし……」

「さあ、時間がねえ! 刑務官として、俺からの最後の命令だ! これ以上の抗弁は懲罰の対象だ、青山さん! 娘さんのもとに行くんだ!」

「は、はいっ!」

 刑務官の立場を利用した命令に気圧されたのか、娘を救いたいという気持ちが勝ったのか分からないが、消極的な青山も大きな決断を自分に下した瞬間だった。一方、鮎京は敢えて『命令』と言って覚悟を決めた。

 そろそろ西条が丸森を舎房に戻して、医務室に戻ってくる頃だろうか。戻ってくる前にやらなければならない。

「青山さん、その格好はさすがに目立ちすぎる。着替えた方がいい」

 青山がいま着ているのは、萌葱色の作業着ではなくパジャマだ。グレー地に縦のボーダーが入っている。パジャマとして見れば一般の家庭でも着用されていそうな柄かもしれないが、ここは刑務所だ。しかもこれから娑婆に飛び出そうとしているのに、寝間着は目立つ。鮎京は、自分のロッカーからたまたまもう一着ある制服を青山に着させた。冬服である。所を出るまでは制服で、出てからは制帽と制服の上着を脱げば良い。

 指示されるがまま、青山は着替えた。幸いにも鮎京も青山も体格としては平均的である。サイズは問題なさそうだ。何気に、この男の刑務官の制服姿は似合っていると思う。やはり、囚人服なんかではなく娑婆の人間が着用する衣装の方が、格好がつくのだ。

「急いでここを出よう」

 そう促した途端、医務室の電話が鳴る。ドキリとしたが、ここの電話を鳴らしているのはおそらく西条だ。出ようか出るまいか悩んだが、さんざん世話になった直近の上司だ。気付けば受話器に手が伸びていた。

「……はい」鮎京は緊張を表に出すまいと、努めて控えめな口調で応答する。

『どんな感じだ?』

 やはり電話の相手は西条であった。

「こちらは異常なしです」

 言った瞬間、しまったと思った。何を言っているんだ、と自分を恨めしく思う。

『異常なしって、俺が聞きたいのは、青山が真実を語ったかどうかって話だろう?』

 当然だ。先ほどあれだけスピーカー越しに青山留利と舌戦を交わしていたのだ。異常なしという回答はあり得ない。

「青山は無実です……」バツの悪さを感じながら、鮎京は本当のことを告げた。

『そっか。で、青山をどうするんだ?』

「……」

 困った。ここで本当のことを言うわけにもいかないが、もう青山を迎えにきてもらって結構です、とも言えない。

 返答に窮していると、西条の方から低い小さな声で驚くべき言葉が発せられた。

『……なぁ、お前、逃がす気だろう?』

「な!?」

 鮎京の手のうちを完全に読まれているようだ。絶望的な気持ちになった。この男に止められたら、計画は頓挫する。

 そんなことありませんよ、何をおっしゃいますか、と言うべきなのは分かっているが、鮎京の良心のしゃくが、円滑な弁舌を大いに妨害する。うまく言葉にできずにいた。しかしながら、続いて出た西条の言葉は、輪をかけて驚きのものであった。

『俺は、見なかったことにする。逃がせ! それが、先輩としてできるお前の気持ちに応えられる唯一のことだ』

「……」鮎京は驚きのあまり呆然としてしまう。

『さあ、早く!』

「はい!」

 鮎京は感謝のあまり、電話越しで見えないはずの西条に思わず敬礼をしていた。しかし同時に、筆舌に尽くし難いほどの後ろめたさを感じた。電話を切ろうとしたとき受話器越しに、大きな音と西条の怒声が聞こえた。何だろうか。しかし、西条が切ったのか、通話は途切れてしまった。


「青山さん、行きましょう」

「はい」

 気を取り直して鮎京は外に出るよう促す。医務棟を施錠し外に出る。満月は煌々こうこうと南の空に冴え渡っていた。白く美しい月だ。

 医務棟から刑務所内外を行き来する扉まではさほど遠くない。鮎京と青山はすたすたと歩くが、「おらぁ!」という満月の美しい夜には似つかわしくない怒声が聞こえてくる。西条の声ではなさそうだ。

 西条以外の刑務官に気付かれたか。鮎京は焦る。ロックがかかる金属の扉の前まで辿り着いた。手背しゅはいの静脈認証で解錠したところだ。

 横から、一人の虜囚がちんにゅうしてくるや否や、鮎京の両肩を掴んでくる。

「アユちゃん! 俺もこんなところ出たいよぉ! 他でもない俺とアユちゃんの仲じゃないか? 青山さんが出られるなら俺もついでってことで頼むよ……」

 丸森だった。怒髪天を衝いたのは言うまでもない。

「無礼者っ!!」

 刑務官の暴力行為を最も忌み嫌ってきた鮎京が、はじめて暴力を振るった瞬間だった。丸森の歯が三本ほど飛んで、二メートルほど後方に倒れた。

 刑務官の名前は受刑者に隠しおおせるものではない。しかも先ほどは丸森の前で鮎京の名前を呼ばれていた。そんなことは気付いていながらも、よりによって受刑者の中でも甲斐性なしで、かつ浅薄な男に、軽々しく名前を呼ばれただけでなく、ついでに俺も逃がせと言う。冒涜ぼうとくされた気分だ。

 西条は舎房にこの男をぶち込んだはずだが、施錠が甘かったのか。そんな西条に腹が立ったが、すべての怒りはこの丸森が買うことになった。

「さ、青山さん! 急いで出てくれ!」

 そう言って鮎京が、扉を開けた瞬間だった。

「こら! 貴様! 何やっとる!?」

 西条ではない声だ。丸森の暴挙を阻止すべく駆け付けた刑務官だ。

「やばい!」咄嗟に鮎京も声が出た。あの様子からすると鮎京の密謀が分かってしまったか。それとも、そこまでは行かなくとも何か不穏な行動を察知したか。どの道、危ない状況には変わりない。

 ロックの扉は二枚ある。しかも一方が締まってからでないと他方は解錠できない仕組みである。一枚目を閉めて、急いで二枚目の解錠にかかる。

 鮎京は焦った。得てして焦りは悪い影響をもたらす。二枚目の扉がなかなか鮎京の手の甲の静脈を読み取らないのだ。

「何でだ」

「刑務官さん! 手がさっきと逆です」

 なぜか鮎京は先ほどとは違い左手をかざしていた。後ろが気になって、無意識のうちにはんとなってしまい、右手ではなく反対の手をかざしていたのだ。平時には一度もそんなケアレスミスなどして来なかったのに。

 右手をかざすと解錠した。「サンキュ」と青山に礼を言う。

「鮎京か!? お前は!? 何やっとる! 開けろ!」

 声の主は府中だった。扉をガンガン叩いている。扉は厳重だが、ガラスで向こう側は一部見えるようになっている。

 府中と言えば、先日所長に厳重注意を喰らった刑務官だ。理由は青山への暴力行為。理由はともあれ、府中は汚名返上のために躍起になっているはずだ。

 しかし、間一髪で鮎京の解錠の方が早かったために、府中は解錠できないでいる。二つ同時に解錠できないシステムが功を奏した。

「鮎京! 貴様、しゅ、囚人を逃がすなど! 正気か!?」

 声が聞こえてくる。

「この男は無実です。冤罪です!」

 扉を開けたまま手で支えて、鮎京は説明した。しかし、そうとは言え、いち刑務官の独断でそんなことはできようはずがない。

「冤罪!? だからと言って逃がしていいのか!?」

 府中は怒鳴っているが正論だ。この男なら何が何でも阻止してくるはず。面倒な男が当直と来たものだ。

「走るぞ!」

「は、はいっ!」

 二枚扉の娑婆側の扉をもう一度最大限に開け放ち、そこから一気に鮎京と青山は駆け出した。扉がドアクローザーによって自動的に閉じられる時間までも稼ぐためだ。全速力で城野の赤いアルファロメオに向かう。病院からここまで向かうときのことを思い出す。

 車のエンジンを入れる。しっかりクラッチを繋いで、ギアチェンジする。

「動いてくれ!」

 その思いが伝わったか伝わらないか、車は動き出した。しかし、ほどなくして府中は追いついた。無謀にも車のフロントガラス部分にしがみつき止めようとする。とは言え、このまま動けば怪我を負わせることになる。いくら触法行為を犯そうとしていると言えど、怪我人は出したくなかった。前進も後退もできない状態だ。

 そのときだった。所内で警報ブザーが鳴り響く。

「何だ?」府中がその音に気を取られて、一瞬車体から身体が離れた。そのチャンスを逃さなかった。一気に車を発進させる。

「あ、この野郎!」

 この警報ブザーはおそらくフェイクで、押したのは西条だろう。そうに決まっている。

「サンキュー、西条さん」

 鮎京は感謝の言葉を呟いた。

 しかしながら府中は諦めていない。ここで取り逃したら懲戒免職ものだと言わんばかりの執念を感じる。すぐに公用車でなく乗り慣れた自家用車で追尾してきた。

「くっそぉ」鮎京は思わず同僚に毒づいた。

 鮎京も、行きとはうってかわってあり得ないスピードを出していた。真夜中で車など走っていないが、完全にスピード違反である。そして府中も同じだ。

「城野先生、この車目立つよ!」

 赤いボディーは暗闇でもライトを当てれば映える。府中をくことができない。

 もっとも、刑務所から近いところは一本道なので撒けないのだが、市街地に入ったときに、追尾されたままではいつかは捕まってしまう。

 気分はF1レーサーにでもなったかのように、アクセルをべったり踏む。ガリッ、ガリッと不快な摩擦音がする。ついに車体がガードレールに接触したようだ。大切な大切な城野の愛車に思い切り傷がつく。しかし、今はそんなこと気に病んでなどいられない。

 信号がようやく見えてきた。ここからは住宅街らしく家が建ち並び始める。天竜医科大学附属病院へは遠回りにはなるがここで思い切り右に曲がろう。しかも運が良いことに信号機は黄色から赤に変わるところだ。普段運転しないにも関わらず、スキール音を深夜の街中に響き渡らせてドリフト走行をする。そのシフトレバーさばきはプロドライバーが乗り移ったかのように滑らかで、鮎京自身驚いていた。しかし、歩行者や対向車がいたら大惨事になりかねない極めて危険な運転でもある。そんな運転にも関わらず、助手席の青山もアドレナリンが出ているのか、悲鳴の一つ聞こえてこなかった。

 さらに有り難いことには、信号が切り替わった瞬間、信号待ちしていた車が数台走り出したのだ。府中の車がそれによって足止めを喰らった。

 鮎京はすぐにまた路地に入り、府中の車は見えなくなった。

「よし、いたぞ! 行こう! ゆりかちゃんのもとに!」

 狭い車内で鮎京は興奮する。

 再び広い道に出た。府中らしき車は見当たらない。あとは突っ走るのみだった。信号も車さえなければ赤信号でも突っ切る。それ以外は基本的に全速力で、中央分離帯に擦ろうが縁石に引っ掛けようがお構いなしに、一心不乱に走り続けた。


 日中なら遠州刑務所から天竜医科大学までは三十分はかかろう。しかしながら、真夜中で、スピードを大幅に超過した運転で十五分にも満たない時間で到着した。パトカーがいたら間違いなく捕まっていたことだろう。病院の障害者用の駐車場に滑るように乱暴に停める。施錠すらせず乗り捨てるように傷だらけの車を降りると、全速力で病院の中に駆け入っていった。青山は鮎京の指示どおり車内で刑務官の制服の上着を脱いでいた。カッターシャツにビジネススラックスという出で立ちで、一見不自然さはない。

集中治療室ICUはこっちだ!」

 鮎京は青山を的確に導いた。集中治療室は二階だ。エレベーターなど待っていられない。階段を駆け上った。

 駆け上がった先はすぐ集中治療室の入口だった。そこには神妙な顔をした黒羽と麓、さらには青山留利がいた。青山留利は青山由栄の方を見ようとはしない。ちょうどそのタイミングで集中治療室の入口が開いた。黒羽らを無視して鮎京たちは室内に入っていった。

「鮎京! おいっ!」黒羽が大きな声を出す。

「あっ! 勝手に入らないで!」看護師も当然ながらマニュアルどおりに、無断の立ち入りを制止しようとするが、こちらも聞き入れようとしない。

「ゆりか!」青山由栄は叫んだ。

「こら、大声出さないで! ここから出て行ってください!」

 集中治療室の看護師たちが大勢集まってくる。ここは、夜勤帯と言えど大勢の人が勤務しているのだ。

 男性看護師が鮎京たちを取り囲み、外に引きずり出そうとした。一方、黒羽と麓、さらにそれに無理やり引っ張られるように青山留利までもが無断で中に入ってきて、現場はたちまち混乱に陥る。

「おい! い、入れてやってくれ!」

 その騒動に分け入るように、鶴の一声の如くある男の声が響き、騒ぎは鎮まった。城野の声だ。

「ど、どうっすか!? ゆりかちゃんは!」青山ゆりかの容態が気になるあまり、鮎京も大きな声を出して聞いた。

「青山ゆりかは、ゆりかちゃんは……」

 息を切らし気味の城野。その表情からは珍しくどっぷりと疲労感を感じる。鮎京は嫌な予感がした。

「……せぃしたぞ!」

「えっ?」切らした息のせいで何を言っているのかよく聞こえなかった。

「そ、蘇生したんだよ」

「マジっすか?」

「バカ野郎、う、嘘ついてどうする? 息を……、吹き返したんだよ!」

 鮎京は、声を出して歓喜することはなぜかできず、ただ、涙が溢れてきた。城野は続ける。

「クロちゃんからの伝言で、アユキョーがゆりかちゃんの親父連れてくるって伝言があって、正気か? バカか、って耳を疑ったさ。でもさ、アユキョーも立場を捨ててやってんのに、俺も絶対ぜってぇこの子を死なせらんねぇ、アユキョーと青山さんに一生の後悔をさせられるかって気合い入ったさ。しばらく心肺停止CPAだったけど、この子に『父ちゃん来るぞ!』って言ったら、脈が戻ってきたんだ。嘘のような本当の話だ!」

 不思議な話だが、きっとそうなのだろう。ゆっくり近付いてみると、モニターは正常な脈の波形を映し出し、何とゆりかはうっすらと目を開けていた。挿管チューブのため声は出せないが、意識までも戻っているようだ。

「先生! ありがとうございますっ!」

 青山由栄は愛娘に近付く前に城野に深く一礼した。そしてさらにベッドに近寄る。

「おお! ゆりか! ゆりかぁ……!」

 青山由栄は何度も娘の名を呼んでいる。絶望の淵から取り戻した微かな希望。喜びのあまり涙声に変わっており、さらには娘のゆりかにも透明な美しい涙が頬に流れていた。

 そんなやり取りを見て涙を流さずにはいられなかった。鮎京も黒羽も麓も周りの看護師も、さらには城野までも……。青山留利以外の全員が感極まっていた。


 だが、後始末がある。余韻に浸ってはいられない。

 鮎京は、麓に目を向けて、こくりと頷くと、麓も呼応したように無言で頷いた。

 青山留利のことはいったん黒羽に任せたかのように、麓が鮎京のもとに近付いてきた。鮎京も黙って両腕を麓の方に軽く差し出した。娑婆への訣別けつべつである。

 ひんやりとした感覚が両手首に伝わる。

 と同時に、カチャリと金属どうしが擦れ合う音が、集中治療室に響き渡った。

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