34 羞悪

『何? 丸森を連れてくるだと?』

 PHS越しに西条の訝しむ声が聞こえる。

「はい。城野先生のめいです」

『ちょっと待て、場所を移動する』そう言って、十秒ほどの沈黙の後、再び西条の声が聞こえた。『さっきは舎房だったからな。いま外に出た。いやいや、城野先生の命と言われても、これ以上事件の当事者じゃない人間を連れ出せねえよ』

「丸森は事件に関係するんです」

『は? 何故だ?』

「説明は後です。あと少しで、あともうちょっとで、青山の明かりが立ちそうなんです」

『……』再びのだんまり。西条は何を思っていることだろうか。

『いや、やっぱり説明してくれ』

 十秒ほどの沈黙を破って出てきた西条の回答は、やはり『否』であることの意思表示であった。

 そのとき、医務室にも聞こえるほどのうめき声が聞こえる。不気味な夜の刑務所でこんな声が聞こえたら非常に恐ろしいが、聞き覚えのある声だ。

「丸森の声じゃないっすか?」

 丸森の舎房は、実はこの医務棟からさほど遠くない。その影響もあってか、その特徴的なしゃがれ声はよく聞こえた。

『ああ、そうみたいだな』

「苦しんでるんですかね」

『そういう理由で、医務棟に連れ出すってか? あいつのことだ。仮病とも限らねえぞ』

「こちらとしては何でも良いです。丸森がこっちに来てくれれば」

『もう、好き勝手にしてくれ。連れ出しゃ良いんだな!?』西条はばちな態度をとった。

「そういうことです。俺はどんなお咎めも受ける覚悟はできてます」

『やれやれ、困った後輩を持ったもんだ……』


 数分後、西条に連れられて丸森が医務室に登場した。

 医務室に入る直前までは、呻き声で顔をしかめていたが、診察室にもう一つある予備のスツールに座らせると、急にケロッとした表情に変化させた。

「どうした? さっきの呻きは何だった?」西条は冷たく訊く。

「すんません。急にお腹が痛くなっちゃって。盲腸かな。でも何か良くなったみたいっす」

 丸森はニヤついている。普通なら、ふざけるなと一喝してやりたいところだが、偶然にもこの男に用事がある。

「そうか、それはそうとして……、お前に聞きたいことがある」

「何です?」

「以前、市原紗浦を知ってると言ってたな」

「ああ、そんなことっすか?」

 そんなこととは何だ、と思いながらも、鮎京はぐっとこらえる。

「市原紗浦と最後に会ったときのことを詳細に教えろ。お前はどんな状態だったか、そして市原と何をしたのか。その後はどうだったのか?」

「あーあーあー。あんとき話した内容っすか」

 相変わらず、浅薄な物言いは神経をさかでさせる。さっさと答えやがれ、と心の中でいらつきながらつぶやいた。

「やったんすよ。もちろんナマでね」

「そのときお前は、どういう状態だ? そして市原はどうなった?」

「俺は、病気持ってたんすよ。それを隠してやってやったんです。我ながらサイテーっすね。案の定、その後メールが来て、なんかブツブツできたって……」

「お前の病名は何だ!?」

 本当にこの男は、最低な野郎だ、と思いながらも、これが一つ重要な証言になる。怒りを必死に堪えながらも、鮎京の口調は強くなりつつある。

「あ、梅毒っす」

 来た。この証言が欲しかった。

 ここは法廷ではない。しかしスピーカー越しには警察官を含む証人は大勢いた。

『よくやった。お二人さん。これで、市原紗浦が梅毒に冒されていたことはほぼ決定的だ』

『市原紗浦には、ピルの処方歴はありますが、抗生物質の処方歴はありません。性病の疑いがあることを隠して、避妊薬だけ受け取っていたんでしょう』麓が追加の情報を提供する。

『サンキュー、刑事さん』城野は麓に軽く礼を言った。

『だーかーらっ!』急に女性の怒声がスピーカーから聞こえた。青山留利の声だ。『本人が、見知らぬ男がったって、証言してるでしょうが!?』

『その見知らぬ男が、一人で殺ったというなら、どうやって青山の精液を採取できたか、って聞いてんだよ! それが説明できねえから、旦那の証言に信憑性がねえんだよ! 青山と市原との間に肉体関係があったのはまずあり得ねぇ。だったら、青山が自分で採精したか、あんたがそれをしたか。でも青山に、播磨や川越への連絡手段はねぇんだ。だからあんたの関与は必須なんだよ。それでもあんたが無実だと言うなら、説明できるか? この矛盾を!』

 城野の口調は荒くなっているが、城野が優勢だ。ほぼ決まりだ。城野の説明が正しい。この矛盾が説明できないと厳しいだろう。

「あ、あの!」ここで、青山由栄が大きな声を出した。

「何だ?」鮎京は嫌な予感がした。

「さっきは嘘付いてました。紗浦さんを殺したのは僕です!」

「なっ!?」鮎京は耳を疑った。そんなわけがない。

「妻は現場で酒に酔って寝てました。紗浦さんとは口論になった。でもこのままでは、妻が犯人になってしまう。そこで、妻の知り合いである播磨さんを、妻の携帯電話を使って呼び出し、臓器を摘出してもらったんです。妻が疑われないようにするためと、妻に手を出している川越先生に罪を着せるためと言ったら、協力してくれたんです」

「そんなの嘘だ!!」思わず鮎京は声を荒らげた。

 作り話に決まっている。青山由栄は播磨のことを知らない。ましてや医師であるということは、城野の発言ではじめて知ったと思われる。そんな見え透いた嘘がまかり通るはずがない。そこまでして、妻を守りたいか。

 しかし、その後にスピーカー越しに聞こえた声は、信じ難いものだった。

『今の、主人の発言がすべてです。私が何も知らない間に、主人が播磨と結託して起こした犯行なんです。私は知らない』

 これまで夫の無罪を主張しようとしてきた妻の、自分の立場が危うくなった途端急に夫に罪をなすり付けるという、醜い姿であり本性だった。

「えっ……?」青山由栄から、蚊の鳴くような小さな声で発せられた戸惑いを、鮎京は聞き逃さなかった。

『もう一年以上も前のことでしょう。妹が死んで、私も夫も錯乱していたんです。でもやっとはっきり思い出しました。やっぱり主人が実行犯だったと。警察も誤認逮捕じゃなかった。旦那の自白も正しかった。そういうことです』

『バカ野郎! そんなこと信じられるか!?』

 城野が怒鳴っている。珍しいことだが、城野ですらはつしょうてんする程の、えぐすぎる罪の転嫁だ。

「嘘だろう? 青山さん、そこまでして奥さんを守りたいのか?」

 鮎京はなぜか涙が出てきた。青山が潔白だと信じているから、気の毒で仕方がないのだ。

「い、いいえ……! わ、私が犯人です……! 妻は無実です」

 青山由栄はうつむいた。そして、戦慄わななきながらそう答えたのだ。声と身体を震わせて、この男も間違いなくきゅうしている。

「何でそんなに奥さんを庇うんだ? あなたの潔白は明白だし、奥さんの嘘は看破されたんだ」

「……」

「じゃあ、本当は言いたくなかった!」押し黙る青山由栄に見かねて、鮎京はとうとう切りたくなかった札を切ることにした。「奥さんは、あなたのドナーじゃない!」

「えっ!」

「市原紗浦がドナーなんだ。でも奥さんはそれを隠して、あなたを支配するために、命の恩人を演じたんだ。それでもまだ庇いますか!?」

「なっ! なんと……」

「だから、あなたは奥さんに支配される筋合いはないし、もっと言うと、奥さんは健康な腎臓を二個持っていながら、敢えて娘さんに腎臓を提供してこなかったんだ! 知ってるか?」

「留利、それは本当か?」

『そんなの嘘に決まってるでしょ? 私の腎臓が二個生きてたら、とっくにゆりかに提供してるわ』

 青山留利にさらなる苛立ちを覚えた。

「青山さん、奥さんの発言こそ嘘だ。市原紗浦の臓器を摘出したのも、市原さんに腎臓が一個しかないことを見破られないようにするための、カムフラージュなんだ」

『由栄、冷静になりな。知り合ってからずっとあなたのことを想い続けて、結婚して、収監された後もゆりかを養ってあなたの無実を願って献身的に支え続けてきた愛すべき妻の言うことと、刑務所で刑務官だっていう理由だけで偉そうな態度をとってあなた達にむごい仕打ちを繰り返している看守の言うことと。どっちを信用するか、言わなくても分かるよね?』

 怒りが頂点に達しつつあった。刑務官が一律に傲慢ごうまんで囚人に理不尽な仕打ちをする者呼ばわりされたこともさることながら、つい先ほど、てのひらを返すように夫を罪人扱いした青山留利の、都合の良いときだけ、やれ無実を願っただのやれ献身的に支え続けただのと美辞びじれいで教唆する鉄面皮っぷりが、異様なまでに腹立たしい。

『何言ってんだ!? あんたさっき旦那が犯人だって……』今度は黒羽の声だ。

『今はそう思ったけど、そう思う前は無実だって思っていたもの』

 青山留利にわるれる様子はない。

「いや、確かに私は妻から臓器をもらった……」

 この男はまだそんなことを言うか、と鮎京は青山由栄を心の中で罵倒した。どうするか、と思い悩んだ、そのときだった。

『城野先生!!』

 この声は、確か喜連川医師だ。

『何だ?』青山留利に対するふんが、八つ当たりの如く喜連川に対する返答に表れているようだった。スピーカー越しでも伝わってくる。

『青山ゆりかちゃんが……!』

 娘の青山ゆりかだ。言外に急変を報せている。

『後は頼む!』城野は短く一言だけ言い残して、喜連川の発言の続きを聞かず、ガタンと音を立てた。急いで病棟に向かっているのだろう。

「ど、どうしたんです!」

 当然ながら緊迫の状況に鮎京は慌てたが、それ以上に慌てふためいたのは事情が把握できていない、ゆりかの父親、青山由栄だ。

「今、ゆりかちゃんが危篤状態なんです!」

「何だって! ゆりかが!?」

 鮎京は正直に答えた。ここで青山由栄を動揺させるのは得策ではないが、どうしても欺くことはできなかった。いち刑務官として、いな、いち人間として。

『大丈夫。あの子は意外にタフなのよ』

 鮎京は真剣に自分に耳を疑った。青山留利よ、そこにまだいるのか。母親なら真っ先に飛んでいくのではないのか。黒羽と麓がそれを制している様子はない。警察と言えどそこまでの拘束力を持たない状況だ。しかしながら、まだ青山留利は、娘のことなどどこ吹く風でその場にいる。そして根拠のない気休めを言っている。

『何言ってるんです? あんたそれでも母親?』

 同じ女性として看過できなかったのか、城野に代わって麓が追及した。

『私が行ってどうするの!? ICUにいるわけでしょ!?』

 その発言の直後、小さく『あっ』と言ったのが聞こえた。馬脚を現した瞬間だった。

「ICUって……! やっぱりそんなに危篤なのか!?」

 青山由栄が立ち上がって居ても立ってもいられない様子で、スピーカーに近付いた。

「そうだ! 青山さん。ゆりかちゃんは、苦しんでもがいて、でも耐え続けた。きっと腎移植という方法を医師が提案しながらも応じず、透析しかさせて来なかった母親のことを見限ってたんだ。自分の病気を母親の自己満足に利用されるんじゃないかって、子供ながらにどこかで悟ってたんだ」

「そんなバカな……。留利は……、妻は、常に娘の病態を気にしていました」

「ええ、それが献身的な母、妻であるための必要条件。でも残念ながら表面上の話で、実際はそんなこと思ってない。不遇な私を世間に憐れんでもらいたかっただけだ」

『このクソ看守! 名誉毀損で訴えるぞ! コラぁ!』

 女性とは思えないこの世とは思えない罵倒が聞こえてきた。通常なら、女性の、しかも一時期とはいえ恋してしまった美女の恫喝を聞いたら、人間不信に陥っているところだが、今はそれどころではない。

『ソウくん! ゆりかちゃんの状況をしっかり聞いてきて。そしてすぐに戻って教えて』

『分かった』麓の指示に、黒羽は二つ返事で返事した。

 ガタンと再び、扉が開閉する音が聞こえてくる。ICUへ黒羽が向かったのだろう。これで、スピーカー越しの状況は麓と青山留利の二人だけになっているはずだ。

「青山留利さん。僕のことをどうなじってくれても結構です。名誉毀損と脅されようが、僕はちゃんとした根拠を持っている。そして刑務官という罪を犯してしまった人間たちのかがみである以上、間違いは糾さないといけない。それが僕の信念ポリシーだ」

べんだ。私はあんたのボスともコネクションがある!』

 ボスとは刑部所長のことだ。しかし、もっと巨大な組織に立ち向かう覚悟ができている鮎京にとって、いち刑務所長などもはや脅威になり得なかった。

「青山由栄さん、頼む。本当のことを言って下さい!」

 青山留利の発言には答えず、青山由栄に懇願する。

「……」

 懇願を続ける中で、鮎京の中で密かに無謀な計画が構築されていた。鮎京自身の積み上げてきたキャリアーを崩壊させうる危険な計画だ。今は誰にもそれは言えない。ここには西条と丸森もいるのだ。

「お願いします。ここであなたが真実を語ってくれないと、一生の後悔を与えることになる!」

「一生の後悔?」西条の訝しげな声が伝わる。

 傍から見れば、この発言の意図は伝わらないだろう。


『もしもし、あ、所長さん? あの──』

『ちょっと? 待ちなさい!』

 スピーカー越しには、所長に電話する青山留利の声と、それを止めようとする麓の声が聞こえてくる。演技かもしれない。しかし、鮎京にとってそんなことどうでも良かった。

「所長!? 鮎京、ヤバいぞ!」

 所長に本当に告げ口しようとする青山留利の声を聞いて、西条がおじづいている。受刑者の前で刑務官の本名を言ってしまうほどの動揺だ。

「丸森を舎房に戻して巡回に戻って下さい」

 これ以上、丸森には用がなさそうだ。ここに留めておくメリットはない。西条に連れて戻るように促した。

「……丸森、行くぞ」

「マジっすか? 面白いもの見れるかと思ったのに」

 西条の声からはやるせなさが伝わってくる。先輩としての情けなさも含まれているだろうか。丸森のかんに障る発言に、注意することもできないでいる。

 静かに西条は丸森を連れて医務室から去り、青山由栄と二人きりになった。

「悪かった。さっさと丸森を追い出しておくべきだった」

「……いえ」

 すると、また、ガタンと大きな音がした。

『恭歌! ゆりかちゃんは心肺蘇生中だ!』

『えっ!』

「ゆりかが死んでしまうかもしれないんですか!?」青山由栄が立ち上がった。

 無期刑で収監されても、娘であることには変わりないのだ。通常なら安否を心配しないわけがない。

『青山さん、ゆりかちゃんは、生死を彷徨さまよっています』黒羽が青山由栄に対して直接応答した。

「刑務官の先生。本当のことを言います」

 ついに来た。鮎京は全意識を青山由栄に傾注した。

「私、青山由栄あおやまよしはるはやっていない。すべて妻を庇うためにやった芝居です」

 青山由栄の声に迷いはなく、その声は聞きまごう余地のないほど明瞭なものであった。

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