35 禁忌

『由栄……! な、何、寝惚ねぼけたこと言ってるのよ!』

 青山留利が、信じられない発言を耳にしたかの如く、動揺している。

「私は、殺していません。そして紗浦さんと一切の不貞行為はしておりません。留利から臓器を提供されていたとずっと信じていましたので、正直驚いています。でも、生活の苦しい紗浦さんからお金を要求されていることは知っていて、その要求に応えていたと思っていたけど、要求はエスカレートしていきました。何でかなと思っていましたが、まさかドナーだったとは……。気付かなかった私が愚かでした」

『由栄! 信じるな!』

「あの事件のとき、ちょうど紗浦さんから留利に連絡があり『大事な話がある、二人でどうしても来て欲しい』と言われ夫婦で紗浦さんの家に行きました。またお金の話になるだろうと思い、口論になるのは目に見えていたので、当時四歳の娘は私の父のもとに預けていました。家に行くと飲み物を提供されましたが、その後睡魔に襲われました。睡眠薬が入っていたのでしょうか。どれだけ寝たか分かりませんが、目が覚めるとまみれで見るも無残な姿になっていた紗浦さんと、気を失って倒れていた留利がいました。だから事件現場には私たち二人と死体だけ。部屋の鍵は閉まっていて、窓は開いていたけど、三階だったし、何と言っても我々には犯行の動機となり得る金銭トラブルがあった。殺した記憶はないが、明らかに私か妻が疑われる。そのとき咄嗟に何としても妻を犯人にさせてはいけないという使命感が働きました。仮に私が濡れ衣を着ることになっても」

「何がそこまで青山さんをそうさせたんだ?」鮎京は静かに尋ねた。

「私はこのとおり病弱です。娘が、私かあるいは夜の仕事で私よりも収入がある妻か、どちらが残されるのが娘にとって良いか、明白だと思ったのです。また、矯正医官の先生ならお気付きかと思いますが、私は一型糖尿病を患っていました。インスリンを作る膵臓が破壊され、血糖値が高くなります。更には腎臓までむしばまれて、透析が命綱となっていました。そんな病院と隣り合わせの私に、腎臓と膵臓を提供してくれたのが妻。命の恩人だから、今度は私が守る番だと思ったのです」

「しかし実際は……」鮎京は話を紡ごうとしたが、すぐに青山由栄は話を続けた。

「ええ。ドナーが妻ではなくて紗浦さんだった。にわかに信じられないくらい驚いています。これまで偽ってこられたのは心外ですが、それでも臓器提供のため手を差し伸べて、そのために結婚を切り出してくれた妻には感謝している。ドナーが誰であれ、私に長生きする道を残してくれたのだから。でも──!」

 青山由栄は一つ大きく息を吸った後、話を続けた。

「皮肉にも娘のゆりかも同じ病魔に冒されているのです。私は悔やみました。私が妻から臓器をもらわなければ、妻は娘に提供できたのだと。腎臓は二個あって一個までは提供できますが、二個は無理です。その貴重な健康な腎臓を、前途ある娘に捧げられなかったことを悔やんでいました。私は献腎移植という方法もあることは聞きましたが、何と言っても待機時間が長く移植の機会に恵まれないとも聞きました。膵臓も腎臓も元気な身内と言えば、紗浦さんしかいない。でも、お金に汚いところがあるから、慎重に行かないと面倒なことになると言って保留してきたんです。普通なら、これまで援助してきた見返りに臓器を提供してくれそうなものですが、紗浦さんの場合は、それを貸しと言わんばかりに、さらなる金銭を要求してくるだろうと言って。この交渉は妻に託すしかないと思いました。しかし、皮肉にも紗浦さんは殺された。妻と紗浦さんは仲の良い姉妹ではなかったので、私が殺したのではないのであれば、逆上した妻が殺してしまったのだろうと思いました。内臓が掻き出されたような凄惨な死体は、せめてその臓器でも娘に提供したいという意志の表れか。狂気の中にも妻の娘への想いを感じました。私はゆりかのことを考えて、罪を被って自首しました。そのあと、どういうわけだか、私の精液が紗浦さんの体内から検出されたという話まで出てきて、さすがにそれはおかしいと思いましたが、当時は私に意識はなく、何とも言えないというのが本音でした。私には無期懲役という判決が下りました。しかし、模範囚として認められれば仮釈放もあると聞き、また社会に出られることを夢見て控訴もせず刑に服することを選びました。ところが、私の手術を担当した川越医師が、紗浦さんとまったく同じ方法で殺されているという話を聞いて驚きました。同時に、私の制限区分が二種に上がり、面会で、妻は私が実は冤罪だったという可能性が出てきた。私は信じているから、あなたも無実を訴えて、と言われました。私は妻の言葉を信じて、無実を主張するようになりました。私を助けるために妻が頑張ってくれてるんだと!」

『そうでしょ! そうなのよ! 私はあなたのことを想って……』

『お前は黙っとれ!』

 この怒声が麓恭歌のものであることを確認するのにいくらかのを要した。それくらい怒気に満ちていて、鮎京はいささか萎縮した。

「でも、妻がドナーじゃないのなら、すぐに娘に提供できるはずなんです。この私にできるのなら、すぐにでもそうしていた! それができないのなら、もはや残念ながら擁護できる妻じゃない」

『私はあなたの冤罪を主張してきたのよ!』

「誰のために!?」

『もちろん、あんたとゆりかのためよ!』

「ゆりかのため。確かにゆりかを罪人の娘にしておきたくないのは分かる。それでも、ゆりかが死んでしまったら元も子もないじゃないか! 本当はゆりかや僕のためでなく、自分のためじゃなかったのかい? 気付いてたけど、哀れに思われることと、献身的なところを評価されることが、留利は好きだからな!」

 青山由栄は気付いていたのだ。妻のミュンヒハウゼン症候群の徴候に。

『この裏切り者! 恩をあだで返しやがって!』

「頼む。自分にはまだ健康な腎臓が二個あることを認めてくれ! そして、ゆりかに生きる道を差し伸べてくれ!」

『嫌よ! 仮に私に腎臓が二個あっても。この身体が資本なんだもの。ゆりかのためだってそれはできない』

「留利ぃ!」

「貴様ぁ!」青山由栄と鮎京の怒りの声が重なった。鮎京の発言は暴言とも捉えられるが、由栄の怒号に掻き消された。そして由栄のここまでの怒りははじめて聞いた。

「刑務官さん、僕は無力です! せめて娑婆にいれば、紗浦さんから譲り受けた僕のたった一個の腎臓と膵臓をゆりかに捧げたい。僕の命と引き換えにしてでも!」

「青山さん……!」青山由栄の悲痛な訴えに、鮎京もひとりでに涙が出てきた。

 そこにまたスピーカー越しに、ガタンと扉の開閉音が聞こえてくる。

『危ない状態です! いよいよ青山ゆりかちゃんの血圧が落ちてきました。城野先生がみんなを連れてきてと!』喜連川医師の声だ。

「ゆりかぁ!」青山由栄の悲痛なる叫びが医務室にこだまする。

 この声に鮎京の中で、安全装置セイフティーが解除されたように、青山由栄の腕を掴んだ。

「青山さん、行こう! 娘さんのところへ!」

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