12 契情

 『Lapis Lazuli』の店内は思ったよりも広く感じた。そのような店に入ったことがない鮎京にとっては相場が分からないのでなかなか比較ができないが、昔観たドラマの一場面から、満員になると相当な人数の客やホステスが座れるのだろうと推察される。

 Uの字型にカーブしたソファーは高級感溢れる暗色を基調としていた。薄暗い店の照明にマッチさせる色合いなのだろう。

 案内されるがままに三人は腰掛けると、「では少しお待ち下さいませ」とボーイはれいしながら言い、店の奥に引っ込んでいく。鮎京は初対面の二人に挟まれるように真ん中に座っている。

 十九時スタートらしく、まだ店内に客はほとんど入っていない。

「先生、どうして、指名するんですか!? 勝手に」

 城野にとっては言いがかりにしか聞こえないだろうが、それでも鮎京は抑えきれずに言った。追及しないと気が済まなかった。

「ホームページで見たら、ナンバーワンの子は俺にとってイマイチだったからね」と城野は答えるが、夜の街に詳しくない鮎京には衝撃であった。

「え? 顔載ってるんですか?」と思わず言う。

「え? アユちゃん、見ずに来たの? てっきりそれくらいの情報を握ってるかと思った」と横から黒羽が疑問を呈する。

「いや、店の場所と定休日は調べた。あと営業時間も」鮎京は率直に答えた。

「いやいや、普通お目当ての女の子がいたら出勤予定表とかプロフィール見るでしょう。いくら調査目的でもそれくらいの予備知識は仕入れておくべきだぜ。顔も知らないで指名の予約を入れようとする奴も珍しい。あと、通常は料金表も見るだろう。1ワンセット何分でいくらかとか、延長料とか指名料とか場内指名料とか同伴料とかボトルキープ料とか」

 鮎京にとってはよく分からない言葉の羅列だったが、『指名料』とは聞き捨てならなかった。

「指名料なんてあるの!?」

 おそらくそこそこの知識を持っている者にとっては、この鮎京の無知っぷりは噴飯ふんぱんものなのだろうが、それでも聞かざるを得なかった。

「うっそ、そんなことも知らんの?」案の定、城野が笑いをこらえているのが分かる。

「どれだけ指名を獲得したかがキャバ嬢の成績となって、給料に直結するんだよ」と黒羽が端的に補足する。言われてみれば当たり前のことなのだが、しっかり考えたことがないと言われないと気付かない。この自分の愚かさを恥じた。

「ごめん、本当に無知で申し訳ない」鮎京は申し開きもせずにただ謝ることにした。

「あ、言っとくけど、キャバクラはお触り禁止だからな」と言う黒羽の顔は、からかっているように見える。

「それくらいは知ってるよ!」鮎京は、実際にさすがにそれくらいは知っていたし、そもそも自分がここに来た目的が違うので、そんなことをする気は毛頭ない。

「触れる店もあることはあるけど、俺は詳しくないからな」と今度は城野がニヤニヤしながら言う。

 いっそのこと、笑ってくれた方がまだ気が楽かもしれない。その点、一緒に付いてきてもらった人物が、黒羽と城野で良かったかもしれない。黒羽は誰にも言わないだろうし、城野も刑務所内で、他に話せるような気心の知れた職員はいないと踏んでいる。これがもし刑務官の上官ならば、一気に噂は広まるだろう。下手したら受刑者に聞かれかねない。そうしたら鮎京の刑務官としての権威が損なわれるかもしれないのだ。

 自分の恥の露呈を最小限に食い止めるためにも良い人選だったかもしれない、とあくまでポジティブに捉えることに専念した。


 しばらくすると「失礼します」と言って黒羽の隣に腰掛けた。水色のドレスを身に纏ったホステスは「『レイラ』でーす」と言って自己紹介している。

 指名されていないホステスだがそれでも充分美しい。もちろん化粧の効果もあるだろうが、鮎京には刺激が強く、すでに心臓が高鳴っている。

 そして続けざまにホステスが現れる。今度はピンク色のドレスを身に纏っている。「本日はご指名ありがとうございます。『カレン』と申します」と言うと、城野と鮎京の間にわざわざ割り込むように入ってきた。ホステスの艶やかな上腕やでんが鮎京の身体に必然的に接触し、またあらわになった大腿だいたいの一部が眩しい。さらには、その名の通りの可憐で清楚な美しい顔立ちと、首筋あたりから香る甘い香水の香りに、高くて澄んだ声。触覚、視覚、嗅覚、聴覚の四方向から攻撃され、鮎京は早くも卒倒しかけた。

 確認だが、『カレン』は城野の指名したホステスであるので、『カレン』からしてみれば、奉仕の対象は鮎京ではなく城野である。なので、意図せず鮎京はのぼせ上がっているような状態に陥っているのである。

 まず異変に気付いたのは視界に入った城野であり、続いて黒羽も声をかける。

「おい、アユちゃん、大丈夫か?」

「不甲斐ない」と必死になって自分を取り戻した。

 自分の女性に対する免疫の無さが想像以上であったことを痛感する。医務課や処遇部門には男しかいない。庶務には女性も少人数いるが二十歳そこらの人間はいない。受刑者も当然男で、強面の毬栗いがぐり頭。浅黒い肌。萌葱色の制服と制帽に野太い声。さらに慣れてしまったが、入浴も毎日許されているわけではないので体臭もそれなりにきつい。これがデフォルトで鮎京の生活の一部を形成している。それが、露出の多いビビットカラーのカラードレスに、肌理きめ細やかな美しい白い素肌につぶらな瞳。甘い香りに澄んだ声は、鮎京の全感覚細胞がほぼ経験したことないような入力情報によって一斉に刺激されたものだから、中枢である脳が処理しきれなくなって、ビジー状態になっている。とにかくクールダウンするしかない。と言ってもまだ飲み物もない。

 無情にも、お目当てでもある真打ちはほどなくして登場した。

「はじめまして。ご指名ありがとうございます。『ユリカ』と申します」

 『ユリカ』と名乗る女性は、先に来た二名のホステスの美しさを遥かに凌駕していた。まるで、何かのフォトブックで見たような美しい蝶のようだ。『レイラ』と『カレン』の二人も充分美しいはずなのに、『ユリカ』を前にしたら、それが霞んで見えてしまうほどだ。あくまで鮎京の主観だが、それでもその差は歴然としていると感じた。

 ドレスは、店名と同じ鮮やかな瑠璃ラピス・ラズリこきむらさきにも近いその青は、かんじゅうかいでも示されるように高貴な色だ。まさにその店の象徴である、ナンバーワンホステスのみが着ることを許されたようにも思える。ドレス越しにも分かるボディーラインは美しいカーブを描いており、ウエストは細く引き締まっているのに対して、胸は不釣り合いなほど突出している。そして、キラキラと輝く胸元のボディジュエルとすいの下に揺れるのピアスは、偶然にも鮎京のイメージ通り、可憐な青い蝶がかたどられていた。

「お隣失礼しますね」

 『ユリカ』は鮎京の戸惑いなどお構いなしと言った感じで、すぐ横に腰掛けるなり、名刺を差し出す。フリーではなく指名客でも、それがはじめての相手だと判断した場合にはそうしているのだろうか。正確には、『月浜つきはまユリカ』という源氏名を有するらしいそのホステスは、美しく麗しい大きなじゅうけんつぶらな瞳で鮎京を少し上目遣いで見据えており、心奪われそうで目を合わせられない。しかし視線を落とせば、画像や映像越しでしか見たことのないほどの、豊満な胸と谷間がすぐそこにありきょを失いそうになる。

「ビールにします? ブランデーにします?」

「ぶ、ブランデーを、お、お願いしますっ!」

「水割りにしますか? 弱め? 強め?」

「ス、ストレートでお願い致しますっ!」

「ストレート!?」と、素頓狂な声を出した黒羽は続けざまに「おい、大丈夫かよ!?」と声をかける。

 しかしながら、正直、何か強めのお酒で、あらゆる感覚細胞を鈍くしておかないと、鮎京は耐えられなさそうだった。どちらかと言えばビールか焼酎を飲むことが多いので、洋酒はあまり飲まないが、それでもビールでは緊張のために酔わなさそうな気がする、と判断したのだ。すると意外にも『ユリカ』は鮎京を称讃した。

「お兄さん、すごいですね。すごくお若く見えるのに、正しいブランデーの飲み方をご存知で嬉しいです。ロックで飲まれる方が多いんですけど、実はストレートがいちばんおすすめなんですよ」

 『ユリカ』は実はお酒に詳しいのだろうか。こういう職業だと自然に詳しくなるのだろうか。ちなみに鮎京は、ストレートがおすすめだということなど知らず、早くこの慣れない環境に自分を馴致させるための苦肉の策だった。そして、この予期せぬお褒めのリアクションは、さらなる副次的効果をもたらした。慣れた者にとっては些細な変化かもしれないが、硬派な世界に身を置いてきた鮎京にとっては、甚大な影響を及ぼす。

 見た目が若いのに洋酒の嗜み方について造詣が深いと思い込んだ『ユリカ』は、親近感が湧いたのか、ブランデーをグラッパグラスに用意すると、ただでさえ近いのに、さらに身体を少し鮎京に預けるように、もたれかかった。満員電車並みかそれ以上に接近し、微かに吐息まで感じられそうなほど近いように感じた。

 鮎京にとっては逆効果であることは火を見るより明らかだった。

 一杯目のブランデーを一息に飲み干すと、お酒の強さには多少の自負があったはずの鮎京は、慣れない洋酒に思い切り目算が外れたようだ。

 見たことのない部屋で目を覚ますと、そこには城野と黒羽がいた。そしてしばらくして自分が記憶を失っていたことに鮎京は気が付いた。

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