11 出陣

 それからというものの、丸森は鮎京に会うと親しげに話しかけてくるようになってきていた。

 おそらくは、慣れない服役生活の愚痴を聞いてもらいたいだけで他意はないと思うが、もし刑務官と仲良くしておけば仮釈放への道が繋がると考えているのであれば、勘違いも甚だしい。むしろ逆効果だ。仮釈放の要件としては、刑務作業を真面目にやり、刑務官に従順で懲罰を喰らわなかった者で、且つ身元引受人がいることである。収容者遵守事項に違反すると懲罰の対象となるが、不正交談という刑務所内では許可なく会話したり喋ったりしてはならないという規則があるので、刑務官によっては連行、懲罰となる場合もある。

 仮釈放は刑法第二十八条に定められる。条文には『懲役又はきんに処せられた者にかいしゅんの状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる』と記されているが、実際には刑期の三分の二を過ぎたあたりから、無期刑なら二十年を過ぎたあたりから、いわゆる模範囚と呼ばれる受刑者に適用されることが多い。ここで述べる行政官庁とは地方更生保護委員会(静岡県なら関東地方更生保護委員会)であり、保護観察官による調査、面接を経て、委員会での審理にて許可が下りれば、仮釈放が現実的なものになってくる。

 仮釈放のためにも、鮎京は丸森に口頭で注意は促している。今のところ鮎京はそのあたり大目に見ている。それはひとえに青山に関する新たな情報が得られるかもしれないという期待があるからであるが、無事に疑問が解決し、なおも丸森の話しかけ癖が治らない場合は懲罰を科そうか、検討したいところである。

 本音を言えば、丸森に頼んで青山から情報を引き出させたいところだが、それはできない。刑務官と受刑者が個人的な利害関係を持つことは、懲戒免職ものだ。軽率な行動によって全国の矯正施設で働く者たちの評価を下げることはあってはならない。そのあたりは、鮎京はプライドを持っていそしんでいる。

 だから、あくまでこちらから探りを入れるわけではなく、丸森から話しかけられたときに一方通行で入ってくる情報に依存するのみだ。しかも緊急の用事が入ったときは、その情報を聞きたくとも、誘惑を断ち切り諦めなければならない。

 今のところ、丸森の話に青山も登場するが、事件の概要について核心に迫ることまでは言ってこない。おそらく青山は口が堅く同じ受刑者であっても身の上話をあまりしないのだろう。だから本人と一部の関係者やあるいは一部の警察官を除いて、ニュースなどで報道された内容以上の情報は握っていないと思われる。

 事件に関する新たな情報がない一方で、青山の誠実さ、凶悪犯罪者らしからぬ紳士的な態度などは、聞けば聞くほどにその人格が補強されていく。青山がちょっと羽目を外した、といった些細な失態すら聞くことがない。丸森はすっかり青山を頼り、崇敬の念まで抱いているようにも感じられる。そして、「何であんなにいい人が、刑務所にいるんですかね」と言う始末。まったく同感だ。

 もちろん、青山に関する情報は、他の刑務官などからも耳に入ってくることがあるが、その素行に関してマイナスの情報は入ってこない。おかしな話だが、取り乱してくれた方が鮎京にとってすっきりする。


 五月の連休明けには、処遇部門の新任の刑務官は昼夜間勤務もシフトで回ってくる。病院で言えば当直業務だ。夜勤では延々と巡回することになるので、体力勝負で睡魔との闘いだ。但し医務課に所属している場合は原則としてそういうことはない。

 五月二十二日の夜は予定どおり空いている。岡崎にお願いして、そこには余程のことがない限り定時に上がらせてくださいとお願いしているのだ。上下関係の厳しい業界で下官の要望は概して通りにくいが、岡崎は幸い聞く耳を持ってくれる上官だ。分かった、と特に理由を聞くことなく了承を得たのだ。もっとも理由を聞かれたところで、真の理由は話せないので適当な嘘でごまかすしかないのだが。


 そして、いよいよ五月二十二日を迎えた。

 夜勤のない医務課に属していたことを幸いに思う。一方で心の準備は整っていないと言えよう。

 そんな鮎京とは裏腹に業務自体は大きなトラブルもなく終えることができた。得てしてこういうときの運は悪い方ではない。昔から思わぬ形で予定が延期になってしまうようなことはほとんどない。

 ちなみに電話予約は、黒羽がやってくれた。鮎京が黒羽に懇願したのだ。本来はどう考えても誘った張本人である鮎京がするのが筋だが、人間、得手えて不得手ふえてというものがある。


 結局のところ丸森からの情報による収穫はなかった。

 青山夫人は当該事件において青山に次ぐ重要参考人と言えよう。警察でもない人間が、的確に情報を聞き出せるかという不安要素は大きい。言わば捜査において鮎京も城野も素人同然だ。一方の青山夫人はある意味会話のエキスパートとも言える。仮に自分の隠したい情報を隠したり嘘をついたりすることを相手に悟られずに、且つ相手を不快にさせずに成し遂げてしまいそうだ。黒羽という現役警官の援護射撃を期待したいが、それでも捜査ではなく遊興なので限界があるだろう。しかも彼は愛知県の警察官なので管轄も違う。


 今日に至るまで、休憩中も家の中でも幾度となく作戦を考えようとしたものの、つまるところ話の方向次第で綿密に立てた作戦も使えなくなって徒労に終わる可能性が高いと判断した。しかも実際に相手をしてもらうのは城野だ。百戦錬磨かどうかは分からないが、遊び慣れていそうな彼にたくすのがいちばんだ。そして随所で鮎京は、核心に迫るような質問をぶつけたいと思う。

 こんなおおよそ作戦とは呼べないような作戦で、しかも他力本願である。我ながら情けない。別に遊び慣れた男になりたいとはこれっぽっちも思わないが、このときばかりは女性を前にしても平然を装えるくらいの経験を有していることを羨ましく思う。


 黒羽とは、浜松駅の北口からほど近いところにあるえんしゅう鉄道の新浜松しんはままつ駅の西口で待ち合わせだ。目的地がそこから近いためだ。

 この日ばかりは城野と一緒に退勤する。一緒に医務棟を出ると目立つので少し時間をずらしてもらい、駐車場でいったん鮎京と城野は落ち合う。そして城野の車で浜松駅まで行くという。

 城野の車は赤いアルファロメオだ。見た目どおりというのか、予想に違わず外車である。これで可愛らしいピンク色の軽自動車だったらひっくり返りそうだ。

「先生、今日はお酒飲まないんですか?」

「飲むよ」

 城野の家は浜松市内だが、駅から徒歩で行くには少し遠いところだという。車を家においていかないので、素朴に疑問に思った。

「車は駅に置いたままにするんですか?」

「馬鹿言え。明日出勤できなくなるだろう。運転代行で帰るんだよ」

 さすが、この男は金を持っている。鮎京ならば、運転代行やタクシーなんて選択肢は出て来ない。やはり金銭感覚が違うようだ。


 浜松駅北口からほど近いコインパーキングに車を停める。時間は夜の七時十分前。五月に入り日照時間はかなり長くなってきて、西の空はまだ薄明るい。浜松市でいちばん栄えていると言っても過言ではないだけに、平日ながら人はかなり多い。スーツ姿のビジネスマンのみならず高校生や大学生とおぼしき人も行き交っている。正直、配属されたばかりのころは、城野という鮎京とは正反対の性格の男と、業務外で駅前を歩いている姿など、想像し得なかった。仕事で一緒にならなければ会話することすらなさそうな人間だ。今更ながら奇妙な感覚に陥って、どことなく気まずい。しかもこれから行くところはキャバクラである。鮎京にとっては遊びに行くわけではなく戦地に赴くような緊張も入り交ざって、そのときが近付いていると思うとますますそわそわする。そういう意味でも黒羽を呼んで正解だった。

 ほどなくして黒羽が現れる。緊張している鮎京とは対照的に颯爽さっそうと手を振って笑顔でこっちに来た。

「お疲れさん。悪いね、アユちゃん。待った? あ、はじめまして。黒羽です」と挨拶をする。

「はじめまして。俺は城野だよ。よろぴくね」相変わらず城野の挨拶は軽薄だ。続けて「あれ、アユキョー君。赤羽あかばねっていう名前じゃなかった?」と疑問を呈した。

「先生、赤羽は予約取った名前で、本名は黒羽です」鮎京はすかさず説明する。

「ややこしっ!」

「あ、すみません。コレ対策です」黒羽は小指を立てるジェスチャーで示した。

「まじで? 警察なのに遊んでんね!」

「それとこれとは別ですよ」

 黒羽は『赤羽』という偽名で予約したという。万一、何かのきっかけで黒羽が店を訪れたことが恋人の麓に分かってしまうことを防ぐためらしいが、それならもっとありふれた『鈴木』や『佐藤』にすれば良いのに、と思ってしまった。黒羽を偽って『赤羽』だなんて、却って怪しい。

 そんなツッコミを入れつつも、黒羽は初対面でいかにも変わり者然とした矯正医官に対してさっそく意気投合しているように見える。しかもこれから戦地に赴くというのに、緊張感をまるで見せない。こういう毅然とした男は心強いが、絶叫アトラクションに乗るわけでもないのに肝っ玉が縮んでいる自分を、つくづく不甲斐ないと思う。


 待ち合わせ場所から『Lapis Lazuli』までは非常に近い。浜松駅北口から少し北西あるいは西に数百メートルほど進んださかなまち鍛冶かじまち、千歳町近辺は、市内有数の繁華街でもある。

 実際歩き始めて数分で到着した。極彩色のネオンが煌々こうこうと光っているのを見るだけで、ホラー映画を鑑賞するが如く心拍数が上がっているのが分かる。時刻は予約時間の十九時だ。ここまで来たから覚悟を決めて入るしかない。大丈夫、独りではない。城野先生と黒羽という頼もしい仲間がいる、と鮎京は自分自身に言い聞かせ勇気づけた。


「お待ちしておりました。赤羽さまですね」

 店に入ると、黒いベストを身につけた店のボーイが出迎えてくれた。ボーイと言ってもホストが務まるほどのいわゆる『イケメン』だと同性ながら思う。同じくホスト然としている城野よりも格段にもくしゅうれいだ。

「は、はい」と鮎京はうわずった声でどもりながら返答する。服役中の強面なヤクザには緊張しないのに、正装で丁寧語の男前には緊張する。この期に及んで先行きが不安になった。

「本日は、三名さまのうち二名さまがご指名の予約とうかがっておりますが、お間違いございませんか?」

「に、二名?」どういうことか。指名をしたのは青山夫人である源氏名『ユリカ』だけだ。

「『ユリカ』と『カレン』の二名と……」

「あー、俺、俺!」と手を挙げたのは城野だ。「あ、俺ね、写真見て気に入っちゃったから『カレン』ちゃんを指名したんよ」

「は!? マジっすか!?」鮎京は驚愕する。

「だって、俺も久しぶりだったからさ、楽しみたいじゃん!」城野にまったくわるれた様子はない。確かに、城野に『ユリカ』の相手をしてもらうように確約はしていないが、しかしこれは。

「じゃあ、クロちゃんお願い!」鮎京は手を合わせた。

「それはいかんだろ? 俺、フリーで楽しみたいし、もともとはアユちゃんが話したいって言ったんだろ?」と小声で、しかしながらその語気は強い。

 ボーイは鮎京たちのやり取りを怪訝そうな表情で見ている。至極当然だ。

「わ、分かったよ。俺が話すよ」

「当たり前だ」

「ユ、『ユリカ』さんは私でお願いします」

「かしこまりました。では席までご案内いたします」

 私でお願いします、と言ったものの、鮎京のしんちゅうは穏やかでない。他人をあてにできるほど甘くなかった。確かに店のナンバーワンを城野が希望するとは限らない。頼むのなら、しっかり約束を取るべきであったと後悔する。

 通常、ナンバーワンをめでたく指名できて歓喜するところだろうが、それを上回る不安と緊張に押し潰されるように、鮎京はうなれながら、店のいちばん奥のソファーへと歩みを進めた。

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