32 矜持

「おいおい、何なんだよ。巡回中だぞ」と言いながらも、かつてのよしみで鮎京に一定の理解を示している西条は、医務棟まで同行してくれた。

 医務棟の医務室を開けると、部屋の電気ではなく鮎京の机にあるデスクライトのみ点灯させた。こんな夜中に天井の蛍光灯を点けるのは、かなりはばかられる。このデスクライトは鮎京が持ち込んだものではなく、前任の置き土産かもしれないが、意外なところで役に立っている。

 鮎京はさっそくハンズフリーを再びオンにした。

 オンにするや否や、『アユキョー、何やってたんだ!?』と、若干怒号めいた城野の声が聞こえてきた。

「じょ、城野先生!? その声は」と驚きの反応を見せたのは、西条だ。

『そこにいるのは西条サイジョーくんか。ご無沙汰だね。とゆーことはアユキョーくん、もうムショにいるね』

「はい、医務棟です」

『他には誰かいるか?』

「いえ、誰も」

『医務棟のライトは消しておけ』城野はこちらの行動をチェックするように様子を探っている。

「点けてませんよ」と言いながら、デスクライトも消しておく。舎房ではないのに真っ暗で不気味だ。

『サイジョーくん。実はな、お察しかもしれんが、631番の青山由栄は無実だ。今まさに冤罪による誤認逮捕だったということを明らかにしようとしている』

「ええっ!?」

『大声はNGだ。一応、秘密裏に動かなくてはならねえ。あのポンコツヤクザ所長が青山を釈放しねぇからな』

「そりゃあ……、無理でしょう、先生……」

『こちらはばっちり根拠を揃えているんだ。簡単に説明するとな……』

 城野は端的に説明した。とは言っても複雑な経過のため、説明は長くなる。そして説明の度に西条は驚いていた。

 途中、節々に青山留利の苛ついている声が聞こえるが、黒羽と麓がそれを何とか引き留めているようだ。

 城野が指揮を執ってしまったからか、浜名湖西警察署でもこの事件の真相を明るみにしたくないからか、病院という特殊な場所で事情聴取というような形となっている。現時点で逮捕状もない状態。任意同行に近いので、正確に言うと取り調べ中に青山留利が退去することを引き留めることはできない。

 しかし、青山留利が犯人であることが強く疑われている。それにも関わらず取り調べを受けているのは、仮に青山由栄に話を聞くことがあろうとも、真相を打ち明けないだろうという自信があるのだろうか。ともすると、巧みに青山由栄を誘導して、青山留利の悪事を表に出してやらないといけない。

『サイジョーくん、青山を医務室まで連れ出してくれ。それだけで良い。青山からの話は、アユキョーのスマホのマイクを通じて、俺らが聞いている。それさえやってくれれば、巡回に戻るなり何なりしてくれ』

「……」西条は迷っている。必要性は理解できるが、いち看守がそんなことを勝手にやっていいものか、という葛藤だろう。

『なあ、サイジョー。この事件は冤罪だ。これは必ずや、警察だけでなく法曹界の汚点になる。そして、そのことを薄々気付きながらも放置していた刑務所だって、世間的に見ればバッシングの対象だ。事件の残虐性、猟奇性からしてマスコミの反応だって大きい。いくら青山が自供して逮捕されたのが本当だとしても、マスメディアは自白を強要されただの、刑務所では看守にいじめられただの、如何いかようにも事実を脚色して、げて、攻撃対象がより明確になるように面白おかしく報道する。そして何の疑いもなく、疑う材料すら探しに行かず、民衆は鵜呑うのみにする。結果、警察庁だけでなく法務省までも大きく揺るがす社会問題へと発展する。下手したらここの刑務官は全員刑務官じゃいられなくなる。こんな時間に囚人を刑務官以外の人間の要求で呼びつけるなんて、現段階では刑務官の服務規程に違反してるかもしれんが、大事なことなんだ。サイジョーくん。傷が大きくなりきる前にみそぎをしなくちゃいけねぇ』

 城野のメッセージは西条に向けられたものだが、鮎京は大きく揺さぶられた。

『僕は、子供の頃から間違ったことが嫌いで、そういう人を正しい道に戻す仕事をしたいと思っていました』

 以前、播磨と談笑していたときに、刑務官になった理由を聞かれて、鮎京はこう答えた。『間違いをただす』ためにその道を志した刑務官が、間違いを看過するなんて、刑務官たる者の職業倫理、もといきょうに大きく反する。

「西条さん、お願いです! 当直でない俺が医務目的以外で青山を引き連れてくるのは、さすがに不自然だ」

「こんな時間だから、当直の俺だって不自然だろう。でもいいよ。こっそり連れてくる。丁度さっき青山が怪我したときに診てるだろう。診察目的だって言えば、何とか筋は通りそうだ。でもそれ以上のことは知らないことにする。頃合いを見計らってまた戻ってくるから、そうしたら舎房に青山を連れ戻すからな」

「ありがとうございます! あとは俺らで何とかします」

 鮎京が一つ敬礼すると、西条は黙って医務棟を出て舎房の方へ歩いていった。


 五分ほどして、西条は青山を引き連れて医務室に戻ってきた。

「無事連れて来れたんですね」

「そりゃあ連れては来れるさ。でも、隣の雑居房の丸森は狸寝入りだったな。変に勘が鋭いからな、あいつ。いくら理由をつけても、こんな夜中に受刑者を連れ出すのはイレギュラーだ」

 西条はやや渋い顔をしている。一方の青山は、怪訝そうな表情だ。無理もない。そんな青山に、西条は念を押す。

「青山。建前上は、パニックを起こしたときにできた傷の経過を診るためだ。わかったな」

「は、はい……」西条が睨みをきかせたので、どこか震えた声で青山は答える。

「じゃ、後は好きにやってくれ」と、言って西条は部屋を出ようとする。

「青山の話を聞いていかないんですか?」

「悪いが、俺にはパンドラの箱を開ける勇気まではねぇ。お前さんと違ってな。俺は小心者だ。ののしってもらって構わねえよ」

「罵ったりはしませんよ。それが組織に服する者のあるべき姿だ。俺みたいなはみ出し者は本来はいちゃいけない。でも、俺は刑務官である手前、善悪をはっきりさせたいだけなんです。有耶無耶の結論のままでは納得できないたちなんで」

「殊勝だよ、本当に。お前は看守ではもったいないくらいだ」

「ありがとうございます」

 鮎京が敬礼しながら一言礼を言うと、西条はその後何も返さずに部屋から去っていった。


 医務室に青山と鮎京のみとなった。青山はどこか落ち着かない様子だ。何か言いたげだが、許可のない発言が禁じられていることを、かたくなまでに遵守している。

「青山。これから自由な発言を許す。そして、俺たちの質問に答えてくれ。この場には俺しかいないが、実は電話越しには医官の先生がいる。さっき頭の出血を診てくれた先生だ」

「はい」

 すると、ハンズフリーの状態のスマートフォン越しに声が聞こえた。

青山由栄あおやまよしはる。いや、これからは「さん」付けで呼ぼう。青山、こんな夜中に急に呼び出してしまってすみません。あなたに聞きたいことがありまして……』

 城野の丁寧語は聞き慣れない。ぶっきらぼうな口調で話す城野の丁寧語は、どこかぎこちないが、青山を咎人とがにんではなく、善人として既に見なしている現れなのだろう。

「な、何でしょうか」

『アユキョー、ここからがお前の腕の見せ所だ』

 てっきりこのまま城野が青山に質問をするかと思いきや、この大事な役割を鮎京に委ねた。いや、託してくれた、と言うべきか。これは城野の善意だろう。鮎京が、刑務官の使命もとい、いや、鮎京自身の信念に基づく使命をまっとうするためのお膳立てをしてくれたのだ。

「ありがとうございます。先生!」

『さあ、青山留利さんよ、耳の穴穿ぽじって聞くが良い!』

 城野は、鮎京の礼に応えない代わりに、青山留利を煽った。鮎京にとっては却ってプレッシャーになる。

『いいでしょう。あの人は私に忠実だわ』

 青山留利の静かな声が、スピーカー越しにわずかに聞こえた。


「青山、いや青山さんと言うべきか……」

 鮎京は青山由栄に話しかけたところで、敬称を略することに躊躇した。そう感じたのは、刑務官という仕事がある程度板に付いてからは、はじめてである。

「は、はいっ」

 青山由栄自身は、未だ緊張の面持ちである。

「単刀直入に訊こう。あなたは本当に、市原紗浦を殺したのか?」

 鮎京英は、刑務官という立場を超越し、自身の信念に基づく使命をまっとうするために、静かに尋ねた。

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