幕間【西条 慎(Saijo Makoto)】

西条 慎 の章

 後輩の前で俺は無様な姿を見せた。

 俺は自分自身を嘲笑あざわらった。敵前逃亡したのだ。

 敵前逃亡?

 自問自答した。何に臆して俺はこんな意気地なし野郎に成り下がっているのだ。


 国家公務員たる者の服務規程からの逸脱に対する嫌悪?

 国家権力を有する組織に一石を投じる行為に対する畏怖?

 無辜むこの民かもしれない男に対して刑務作業を科していたことに対する背徳感?


 おそらくそれらのいずれでもあるのだろう。


「鮎京は、まったく何てことしやがるんだ。この俺がいるときに」

 そう小声で独りごちた瞬間、それがいかにも自己保身的な発言だったことに気付き、ますます嫌気が差した。

 そして、隣の舎房にいた丸森は、この俺の行動に気付いたはずだ。おそらく不審がっているだろう。あの男は、巡回のときも寝たふりをしているだけで起きていることが多い。刑務所生活を自分に有利に送るために、あれやこれや探っているのか。実は、意外にも察しのいい男である。噂によると、一時期ニュースを賑わせたあの稀代の連続殺人事件、『ミックスベリー殺人事件』で、丸森は悪魔的な機転を利かせて九死に一生を得たと言う。

 しかし、一方で鮎京のことを見直していた。仮に、あの青山が無実だったとしたら、そのびゅうを糾してくれるのだ。このまま見ないふりして、無実の人間にあらぬ懲役を科す真似が、看過されて良いはずがない。

 それが、いくら刑務官たる者の服務規程に合致していたとしても。


 鮎京という男は、城野先生とタッグを組んでそのパンドラの箱を開けにいっている。今は夜勤で巡回中だが、鮎京たちのやり取りが気になってそれどころでない。


 さて、どうなるのか……。

 俺はつばをごくりと呑んだ。

 舎房の奥から不気味なうめき声が聞こえてくる。ここは青山や丸森が収監されている舎房の棟である。奇妙だ。先ほどはこんなことなかったのに。よく聞くと、この濁声だみごえは丸森のこわに似ている。苦しがっているのだろうか。

 その瞬間、携行していた刑務官用の所内限りのPHSが震えた。静かな夜の刑務所では着信音が鳴らないように設定しているが、それでもいざブルブルと震えると少しぎょっとする。どこからか。

 慌ててPHSのディスプレイを確認すると、それは医務室からであった。鮎京である。一体何の用件か。

「はい。西条です」小声で応答した。

 そして、次の瞬間、俺は鮎京の発言に思わず驚愕した。

『鮎京です。大至急、463番の丸森も、医務室に連れてきてもらっていいですか?』

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