03 僥倖

『えっ!? 青山由栄の起こした事件の顛末てんまつを教えてくれって? 何でそんなの知りたがるんだ?』

 電話越しの相手はすっとんきょうな声を上げて驚いている。

「いや、俺の刑務所にそいつが服役してんだ。個人的に気になってるんだ」

 鮎京はあくまで冗談っぽさを打ち消した声音とすることを努めた。

『どういうふうに?』

「何と言うか。犯罪者っぽくないんだ。殺しをやってるようには全然見えなくて。警察の見解はどうなん?」

『いやいや、ちょっと待ってくれ。俺は交通課だぜ? 署も違うし、知り得ないだろう』

 鮎京は少しがっかりする。しかし、公務員たる者、同職でも部署が異なれば別世界。基本縦割り社会なのだ。同じく公務員である鮎京もそれは分かっている。

 電話の相手は黒羽くろばねそうじょうという、どこか現代っぽくない名前の持ち主の男だ。この男はお隣の愛知県の豊橋とよはしひがし警察署に所属する巡査部長である。

 鮎京は偶然にも高校時代の同級生が警察学校に進んだことを思い出した。同じクラスにも属したこともあって、幸いにも携帯電話に連絡先が登録されていた。まさしく鮎京にとってぎょうこうである。大学卒業後に一度同窓会で再会して以来の数年ぶりの会話で、黒羽も突然の久しぶりの電話に大層驚いたに違いない。しかも、用件がまた用件だ。

「じゃあ、誰か知ってそうな友達いないか?」往生際悪く鮎京は尋ねてみる。

『一応、相方が所轄の署の刑事一課だけどな』

 これこそ僥倖だ。鮎京は思わず浮かれる。

「相方? 彼女のことか? 奥さんか? 刑事一課って殺人事件が所管か? じゃあいろいろ情報は握っているのか?」

『一気に質問すんなよ。結婚はしとらん。刑事一課というのはそうだが、情報を握っていたとしてもそんなこと話題にできない』黒羽は明らかに鼻白んでいる様子だ。『って既決囚だろう? 今更何でそんなことを? 知ったところでどうする?』

 既決囚というのは刑が確定した囚人であり、つまりは、死刑囚を除くと刑務所に服役している者のことを指す。裁判中の未決囚なら、まだ聞いて弁護の参考にするとかあるかもしれないが、刑が確定している人間の起こした事件を根掘り葉掘り聞くのは確かに悪趣味以外の何物でもない。黒羽の言うことはごもっともだ。

「……そ、そのな。矯正の参考にさせてもらおうかなと思って」鮎京は少し回答に窮する。

『矯正の参考にするって……。事件の詳細を知ることが意味あるの? 第一、アユちゃんの方がずっと一緒にいるわけだし、警察の見解を聞いたところで何か参考になるとは思えん。第一、警察は逮捕したら四十八時間以内に送検するんだぞ。それくらい刑務官なら知ってるだろう』

「ま、まぁ、そうなんだが。個人的に気になるんだよ」

『ひょっとしてさ? 誤認逮捕って思ってるか?』黒羽の声音が低くなる。

「いやいや! そ、そんなこと、思ってないって。……でも、気分害したよな。ごめん」

 誤認逮捕を疑っているというのは誤解である。とても無期懲役に服するような凶悪犯罪者の様相を呈していないため、どういう経緯で青山をそのように変貌させたのかとにかく気になるのだ。しかしながら、久しぶりの電話でこれではあまりにもバツが悪い。鮎京は素直に謝った。

『いや、別に俺は交通課の人間だから何も思わん。ただ、既決囚でも、捜査上で知り得た情報を教えてくれるとは思えんが』

「そこをなんとか……」

『……』黒羽は押し黙っている。

「頼む! お願いします!」鮎京自身も説明できないほど心を突き動かされていた。

『──ほんと、期待しないでくれよ。まぁ、国家公務員の期待のホープが、知りたがっているとでも言っとくよ』

 黒羽の声は若干嫌味を含んでいるようにも思えたが、意に介さないことにした。

「ありがとう。でも国家公務員だけど、エリートでもホープでもないよ」刑務官は高卒でもなろうと思えばなれる。

『俺ら地方公務員に比べりゃ、憧れだぜ。国家公務員は。警察庁のエリートをイメージする』

「まぁ、響きはいいけどな。とにもかくにもお願いするよ。それと飲みにでも行こうぜ。せっかく近くに来たんだからさ」

『ああ。非番の時は声かけるよ』

 そう言って、鮎京は電話を切った。


 鮎京は久しぶりの友人との電話で懐かしさにより心躍らされるよりも、青山に対する好奇心の方が勝っていた。自分でも何故にいち受刑者に固執しようとしているのか分からない。問題児であれば別だが、模範囚のような立ち振る舞い。私服に着替えさせれば、誰が見たって犯罪者とは思わないだろう。ただ気になるだけという次元を逸脱しつつある。それだけの力が彼にはある。魅力と言っては語弊がある。なぜなら彼は刑の重さだけ見れば凶悪犯の部類だ。しかし、何度も言うが、外見が釣り合わない。説明がつかないと言っても差し支えないほどのかいが、そこにはあるような気がした。


 翌日、また青山が殴られたという情報が舞い込んだ。松山は保護室に入っていたが、他の受刑者が暴力沙汰を起こしたらしい。被害者の青山は、口の中をまた切ってしまったようだ。今度はしっかり流血していると言う。鮎京は、非常勤の歯科医師を浜松駅まで迎えに車を出していてちょうど刑務所に戻ってきたところでその情報を聞いた。

 医師の城野とは異なり歯科医師は非常勤である。毎日は診察していないのだ。それでもここ遠州刑務所では歯科の診察を希望する受刑者が多く、かなりの受刑者が願箋を書いても急を要する者でない限りはひたすら待つことを余儀なくされているのが現状である。

 しかし、医師がそこにいながら流血している受刑者を受診させずにいるほど、今の刑務官は冷血ではない。

「悪いが、笠松かさまつ。待っといてくれ」最初に受診する受刑者は待ち合いに呼ばれていたが、急患のため待たせた。笠松はここに来て長く、穏やかな受刑者だ。流血を腕で押さえて刑務官に連れられてくる男の存在を見つけたか、何も言わず頷いた。


「あ、月形つきがた先生。すみません。この人から先に診てもらっていいですか?」

 歯科医師の月形判信つきがたゆきのぶは口腔外科出身という。この手の怪我は専門家だろう。

「631番、青山よし……!」突然、青山は姿勢を正したと思うと一礼し、称呼番号と名前を月形に告げようとした。腕の圧迫を介助したためか口角から血がしたたっている。

 鮎京は若干慌てて「無理するな!」と止めに入る。鮎京は医務棟に入るのははじめてだと思われるが、矯正医官に対する風儀や作法を他の刑務官に教わったか。

「青山、どんなときでも許可なく話してはいかん。律儀な態度は感心するが、今はそれどころじゃないだろう」すかさず西条が注意する。

「すみません。先生」と青山は謝る。良かれと思われることでも、刑務所では許可のない言動はしてはならないのだ。

「青山さん、お話は刑務官の方から聞いています。殴られて意識はなくなっていないですか?」と月形は青山に優しく問うと、「はい」と答えが返ってくる。

 続いて、「口腔内に溜っている血を吸引して下さい。肝炎はないですね?」と鮎京たちに問いかける。

「この人には感染症はありません。しかし……」鮎京は内服薬のことを告げようとすると、

「うん、顎の骨折はなさそう。歯の損傷も明らかなものはないですね。下唇からの出血のみだと思いますが、念のためパノラマの準備を。その前に出血を止めましょう」と、すかさず月形は指示を出した。

 すぐに必要な局所麻酔やら縫合に必要な器具を揃えるよう指示し、あっという間に止血してみせた。

「ところで歯肉がぼこぼこに腫れてますけど、何か飲んでます? 降圧剤とか抗癲癇てんかん薬とか免疫抑制剤とか……」

 鋭い。思わずうなってしまった。何故分かったのか。

「はい。ネオーラルを飲んでいます。シクロスポリンです」

「なるほど。薬剤性の歯肉こうですね。青山さん、免疫を抑える薬ですので感染しやすい状態です。特に歯茎が腫れて歯磨きがしにくく汚れが溜まります。とにかく歯磨きをして下さい」と、青山に告げ、パノラマX線撮影と呼ばれるレントゲンの検査を促した。

 月形の指示はいつも的確で理路整然としている。ホームレスだろうとヤクザの組長でも紳士な態度で接するので、受刑者からの人気も高いようだ。鮎京も診察の補助についていて勉強になる。受刑者に対し若干丁寧すぎるようなときもあるが、城野の適当でぶっきらぼうな診察に比べればマシか、と思ってしまう。逆に必要以上の情報を与えない城野の診察スタイルを善しとする声も上がっており、刑務官によっても意見が分かれるのも事実だ。

 レントゲンの結果、やはり目に見える範囲での骨折は否定的と判断された。念のため翌日の消毒を城野に依頼し、さらに上述の理由により一週間後のフォローが必要と指示された。そのときに抜糸を行うそうだ。発行された処方箋には抗生剤が記されていた。


 その日の歯科の診察が終わると、月形は鮎京たちに声をかけた。

「青山さんですけど、カルテ見せてもらいます?」

「カルテはないです。まだ入ってきたばかりで」と言いながら、月形の言わんとすることが予想できた。「薬のことですか?」と逆に問うと、月形は首肯する。

「実は、何で飲んでるのか情報がないんですよ」と答えると、「調べておいて下さい」と言下に言われた。いつも優しい月形だが、このときは少しばかり厳しい口調だったので、どきりとした。刑務官は受刑者にとっては絶対的な上位だが、城野や月形よりは立場は下であると認識している。


 月形は週一日午前だけの非常勤歯科医師であり、県をまたいで愛知県南東にある豊橋市から通勤している。いっぽう刑務所はその性質上、利便性の高い場所にはないことが多く、ここ遠州刑務所もまた北遠地区のバスくらいしか公共の交通手段のないところに位置している。従って、浜松駅まで送迎している。最寄りはてんりゅうはま名湖なこ鉄道の駅だが、一時間に一、二本程度で乗換も必要となるため、遠くても浜松はままつ駅を利用してもらっている。なお、常勤の城野はマイカー通勤である。

 送りは用度課に依頼しており、車を手配してもらっている間、月形は城野に話しかけていた。言わずもがな青山の件だ。

「城野先生。この青山さん、明日縫合後の消毒お願いできますか? 右下唇なんですけど」

 城野はスマートフォンをいじりながら相変わらずどこかやる気のなさそうな態度で、「あいよ」と答える。

「ところで、若いのにネオーラル飲んでますけど、何か話聞いてます?」予想どおりその話題に触れた。

「まだ、俺は診てないんで知らないっすけど、何か飲んでるみたいっすね。明日聞いときますよ」意外にも月形の要請を受け入れた。

「お願いします」

「アユキョー君、青山の手術歴聞いといて。あと消毒ついでに全身を診るから、その心づもりで。いちおーさ、歯科のエリート先生のお願いだからさ」城野は皮肉で言っているのかどうなのか分からないが、全身を診ると言っている。

「分かりました」と思わず敬礼のポーズで承諾した。何故、単に病歴ではなく手術歴を気にしているのか分からなかったが、そこは言及しなかった。

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