04 隻眼

 ようやく昼休みの時間が訪れたような気がした。

 午前中は、いきなり青山が殴られたという出来事によって、緊急の対応に迫られたのだ。月形から城野への処置の引き継ぎ、それから青山の手術歴の聴取など、やるべきことをしっかりメモしておいた。


「忙しそうですね?」

 背後からいきなり声がかかった。しかしその口調は優しい。明らかに刑務官でも城野でもない。しからば消去法で答えは明白だ。

「播磨先生」

「ごめんなさい。別に驚かすつもりはないです」

「いえいえ、大丈夫です。それに、もう一段落ついたんで、ご飯でも食べようと思っていました」

 実際に、行きにコンビニエンスストアで買ったおにぎりとパンを引き出しから取り出そうとしていたところだ。

 そう言えば、播磨とはしっかり話したことがない。

「播磨先生、あ、もし良かったら一緒にご飯食べます?」社交辞令的かもしれないが誘ってみる。働く上でこういうのは大事なことだ。

「あ、いいですよ」あっさりと播磨は乗ってくれた。渋った様子はない。

 見た目そのままに柔和で社交的な人物が同じ職場にいることは非常に有り難い。はじめて話す割には、ストレスがかからなくて済む。


 薬剤師の播磨は調剤室の隣にある小部屋に机があるという。そこでいつも昼食を摂っているそうだ。

 中に入ってみると、狭いながらも雑多な感じはなく、書類や本などは綺麗に整理されている。播磨は調剤室から小さな丸椅子を持ってきてくれた。

「播磨先生は、ここに勤務して長いんですか?」

「僕はまだまだです。ここに赴任したのは半年くらい前ですよ。実は、薬剤師の経験は浅いんですよ」

「そうなんですか?」

 播磨は爽やかな笑顔を見せながら答える。柔和でハンサムな男だ。概して粗暴な受刑者たちを相手していると、同性ながらもこのような男は目の保養になる。さぞモテるだろう。

「ええ、実は、医者を目指してた時期があったんですよ。でも医学部の六年生のとき事故で目を怪我してしまって、左眼の視力を失いました。一応医師免許は取ったんですが、とても研修できる状態ではありません。片目では遠近感が掴めないし、臨床医として働くことを諦めました。でも薬剤師なら、片目の視力だけでもできるはないかと思って、薬学部に入り直しました」

「えっ!? 播磨先生って医師の資格もあるんですか?」

「そうなんです。資格上は。でも私は医師として勤めるなら外科が良かったので、片目をダメにしたときには、絶望的な気持ちになりました。大学を辞めようかと思いましたが、視力はなくても医師の欠格事由にはならないので、医師の資格だけは取ったんです。でも薬学部に編入しようと準備を進めておりました。おかしいでしょ? 医学部を卒業しようとしている人間が、薬学部に入ろうだなんて」

「医者は薬剤師の仕事ができるんじゃないですか?」

「医者でも一応調剤はできます。でもやはり薬学部で薬理に特化した教育を受ける必要があると思ったので、ちゃんと薬剤師の資格を取ろうと編入しました」

「すごいですね……。また大学入り直して何年も勉強するなんて」

 眼を怪我しているとは知らなかった。よく見ると左眼のまぶたに古傷があって少し痛々しい。視力がないということは義眼が入れられているのだろうか。その割には自然に感じる。言われるまで気付かないほどだ。それにしても薬学部に編入だなんてそのバイタリティが凄すぎる。

「いや、編入ですから普通よりは短いですし、医学部で学んだ基礎知識もあったので、勉強は大変じゃなかったです。おまけに、医師国家試験の家庭教師カテキョのバイトもしてましたから」

 なるほど。医師として診療行為はできなくても、知識はあるから家庭教師というニーズもあるのか、と歎息する。やはり賢いと選択肢が多い。

「やっぱり僕も勉強もっと頑張れば良かったっす。あ、嫌々いやいや刑務官になったわけではないですよ」

「鮎京さんは、何でこの仕事を選んだんです?」

 よく聞かれる質問だ。刑務官は人気のある職業ではないだろう。その問いに対して、まったく面白くない回答を用意している。

「僕は、子供の頃から間違ったことが嫌いで、そういう人を正しい道に戻す仕事をしたいと思っていました。そういう意味では警察官でも良かったかもしれませんがね」

「素晴らしいじゃないですか。鮎京さん、いつも真面目に仕事なさってますし、受刑者に対しても真っ直ぐな姿勢で向き合って、ちゃんと更生できるような対応をしてるって、誰かが言ってましたよ」

 そんなことはないだろう、と心の中で否定する。受刑者と真っ直ぐ向き合うことを、善しと思わない刑務官も多い。必要以上親切にすることは、逆になめられたりするだけだと。でも、鮎京は過保護に接しているわけではないつもりだ。でも自分なりに更生させられるよう心がけていることは確かだ。播磨は気を利かせてお世辞を言っているのだと思うが、それでもやはり嬉しい。

「恐縮です」素直にお礼を言う。

 こうやって播磨と話せば話すほど、この刑務所という空間には馴染なじまないように思える。綺麗な病院で患者さんのそばでしんに薬の相談に乗っている姿の方がしっくりくる。

 となると、こちらも気になって聞かないわけにはいかない。

「何で播磨先生は刑務所で働こうと思ったんですか?」

「何故でしょうね? 実は自分でもよく分かりません」

 意外な答えだった。これだけ真面目そうな人間なら、ちゃんとした理由がありそうなものなのに。播磨は続けた。

「……強いて言えば、社会勉強ですかね?」

「社会勉強?」

「あ、いや、変な意味じゃないですよ。刑務所ってどんなところなのかなって興味はありましたから」

「なるほど」

 確かに、罪人か刑務官にならない限り、この塀の中には足を踏み入れないだろう。

「ところで話は変わるんですが……」と真面目な顔をして切り出す。何だろう仕事の話だろうか、しかし少しだけ間を置いてから切り出した言葉は意外なものだった。

「鮎京さんはご結婚されてますか? または、お付き合いされている人はいますか?」

 わざわざ畏まって何を切り出したかと思えば、まさかこんな話題だったとは。

「残念ながら、結婚どころか、結婚してくれそうなお相手もいません……」

 やや鮎京は卑屈になって答える。

「意外です。モテそうじゃないですか?」

 人の良さそうな播磨に限って言えば、お世辞ではなく純粋にそう思ってくれているのかもしれないが、残念ながら鮎京はモテない。見た目とかの問題ではなく、何と言っても女性と一対一になるとどのように振る舞えば良いのか、皆目分からないのだ。

「いやー、先生こそ、めっちゃカッコいいし性格も良くて頭も良いじゃないですか?」

 それは本心だった。眼を怪我したと言ったが、義眼の出来が良いのか、まったくそれが分からないほどだ。

「私も独身で相手はいません。しかも、恥ずかしながら人を好きになるということがよく分からなくて……」

 おやおや、と思う。たまに、そのような人はいると聞く。特に頭脳明晰な人ほど、好きになるという気持ちを論理的に考え過ぎてしまって、結論が見出せずにそれを見失ってしまう、というようなことを、テレビか何かで聞いた。播磨もそうなのだろうか。

「──でも実は、好きな人はいるんです」

 鮎京の憶測はまんまと外れる。あれ、先ほどと言っていることが違うようだが。

「どういうことです?」

「絶対結ばれない関係の女性を好きになって以来、それを超える人に出会ってないんです。そのうちに『好き』って何だろうって……、あ、すみません、男なのにこんな話して」

「いえいえ、お気になさらないで下さい」

 絶対結ばれない関係の人とは誰なのだろう。既婚者ということだろうか。切ない話だ。好きな気持ちを見失うほど迷わせる人とは一体誰なのだろう。

 はじめて、しっかりと播磨と会話をしたが、予想どおりと言っては失礼かもしれないが、いわゆる『良い人』だったと思う。

 刑務所という閉鎖空間の中では、こういった職種の垣根を越えた付き合いを大事にしなければならない。今度はまたこちらから声をかけてみるか。


 その日の午後は、午前中とうってかわって静かだった。大きな事件もなくいつものルーティンワークをこなす比較的穏和な一日を終えた。

 LB級のこの刑務所では粗暴な者が多く、警報ブザーで通常の業務を妨害されることもしばしばある。そうなれば当然ながら業務が増え定時に退勤することは叶いにくくなる。そうでなくても新人の鮎京は業務が多いので、定時で上がることは少ない。青山に対しての興味は依然強いが、だからと言ってそればかりにかまけていられるほど、楽な仕事ではない。それでも、少しずつ業務には慣れてきた。灰汁あくが強い城野の診療補助には未だまごつくこともあるが、通常の雑務は円滑に進めることが出来てきたように思う。


 午後六時には仕事は片付いていた。新人の鮎京ですらそうだから、上司たちも仕事を終えて帰宅してしまった者もいる。

 夜勤もなく、残業することを美徳とする偏屈な上司もいない。働き方改革で、業務が片付けばむしろ帰宅を促される平和な職場環境だ。鮎京は荷物をまとめ、着替えることにした。何気なくスマートフォンを見る。恋人のいない鮎京は、着信やメールが入っていることは少ないが、この日は珍しくメールが入っている。驚いたことにそのお相手は黒羽だった。しかも、黒羽の刑事の彼女同席で飲みにでも行かないか、とのことだ。

 刑事は多忙というイメージが強いが、この日は非番とのことだ。ただし、事件が起これば呼び出される性質上、場所は警察署の近くで彼女はノンアルコール、そして呼び出されればおいとまするという条件であった。彼女ははま名湖なこ西にし警察署に勤務しているという。JR東海道本線のわし駅からほど近いところで、鮎京の住む官舎が近い同じく東海道本線の舞阪まいさか駅から三駅と比較的近い。一方の黒羽も県は跨ぐものの、愛知県の東端の二川ふたがわ駅から来るということで、両者の間に位置する鷲津駅は、三者にとって有り難い場所である。

 ただし、やはり浜松駅や豊橋駅といった主要駅に比べると、利用者が少なく駅前はうら寂しい。当然、居酒屋も限られていそうだが、黒羽の彼女が詳しいらしく、個室の四人がけテーブルの席を確保してくれたという。素晴らしい。


 それにしても、思いのほか飲み会のセッティングが早いので驚いていた。

 鮎京はつい、黒羽が彼女から情報を仕入れ、男二人で飲みにいく中で何かしらの情報提供を受けられると踏んでいた。しかし、刑事である彼女自身から一次情報を聞ける機会を設けてくれるとは、願ってもない話である。いや、まだ情報提供してもらえると決まったわけではないのだが。


 それでも、静岡に来て職場以外の人間と、食事を共にすることははじめてだ。全寮制だった武蔵野医療刑務所では、常に同僚と一緒だったが、新天地に移ってからは毎日の食事に寂しさを感じていたところだったので、素直に嬉しい。

 車のない鮎京はバスと電車(遠州鉄道)と自転車で官舎に戻り、支度をしてすぐに出かけた。

 鷲津駅に着いたのは、結局午後七時半くらいになってしまっていて、すでに黒羽たちは到着していた。予約の個室に入ると、お互い忙しい中時間を割いて実現させたデートを邪魔したようで、ちょっと悪い気がした。

 黒羽は数年前の同窓会とほぼ変わらぬ姿であった。彼女は初対面だが、その美貌に驚いた。女性に免疫がすっかりなくなっている鮎京にとっては眩しいくらいの容貌だ。といっても、刑事という職業柄か、可憐な美しさではなく、強さ、たくましさ、勇ましさを備えていることが見るからに伝わってくる。

 そんな黒羽を羨ましく思わざるを得ない。ひょっとして、美しい恋人を紹介したくて会わせたのかと邪推してしまうほどだ。鮎京は二人に努めてそんな動揺を見せないように努めた。

「紹介するよ。相方です」と、黒羽は簡単に彼女を紹介すると、「はじめまして」と、彼女の方から挨拶をしてくれた。

「はじめまして。鮎京です」と初対面なので、応対する。

 すると、おもむろに彼女はポケットから何かを取り出した。警察手帳だ。

「私は、浜名湖西警察署刑事一課巡査部長のふもときょうです」

 すかさず、鮎京もズボンの知りポケットをまさぐる。実は、役職の分かる身分証明署を携行するように指示されていたのだ。警察官が警察手帳を所持しているように、刑務官には刑務官手帳がある。勤務中は常に携行することが義務づけられている必需品であるが、非番の時などは携行していないことが多い。常に制服にしまっているものを外に持ち出すのは、若干の勇気を要した。紛失しないようにしなければならない。

「遠州刑務所医務課看守のあゆきょうまさるです」

 看守という刑務官の中ではもっとも初等の階級の鮎京は、プライベートな自己紹介にも関わらず反射的に敬礼した。それが麓の印象を操作したようだ。

「本当にあなたは刑務官のようですね。疑り深い性格でごめんなさい。身分を確認しないと安心できない性分ですから」

 職業病だろうか。無理もない。一方、刑務官の鮎京は、年齢を気にしてしまう。縦社会の厳しい刑務官は、これから話すべき相手が、親しくなっても敬語で接すべき相手なのか、若干気になるところだ。しかも相手は、話し慣れていない女性だ。

「巡査部長なんですね」と役職に言及することでえんきょくてきに尋ねた。

「そう。警察学校卒業して何年かは別の課にいたんですけど、一昨年おととしの春から刑事課に配属されて……」

 警察は巡査からスタートするが、大卒で警察学校を経由してストレートに進めば、巡査部長クラスだろうか、と推測する。

「クロちゃんとは?」鮎京は、今度は黒羽との関係から推測をしようと画策する。

「あ、同い年です。二十八歳です。ソウくんから聞いてますけど、鮎京さんとは大学の同級生ですって? ですから同い年だと思います」

 安心した。相手は警察官。殊に上下関係に厳しい環境に違いないから、相手の年齢を気にするたちなのかもしれない。

「というわけでだな、アユちゃんも恭歌もタメ口でいいと思うから」と、同じく警察官の黒羽が懸案事項についての解決策を代弁した。

「よろしく。鮎京くん」

「ありがとう。では麓さん、よろしく」と鮎京は言う。麓とはまた変わった苗字だと思いつつ、鮎京という姓も珍しがられているだろうか。


 プライベートとはいえ、もとは青山の事件について所管の刑事なりの見解を聞き出したかったのが目的だ。

 だから、わざわざ個室を確保したのだと思う。ということは、やはり何か重要な情報を握っているのだろう。


「鮎京くんが、青山を担当している看守さんなの?」

「いや、僕は処遇部ではなくて医務部なので、直接担当しているわけではないんだ。しかも四月に配属されたばかりだからよく彼のことは分からないんだけど、そのなんていうか、犯罪者特有のにおいと言うのか、そういうのがまったく感じられなくてね」

 鮎京は、青山についての所感を素直に語った。

「私も罪人と接する職業だから、鮎京くんと共通するところがあるけど、青山が捕まったのは、私が刑事課に配属されて間もない頃だった。でもいま考えてみると、鮎京くんの言うとおり、彼は全然犯罪者っぽくない。取り調べにも新米刑事の私にも丁寧に応対してたのは印象的だった。供述調書は、まぁこれは警察が作るものだけど、少なくとも否認の供述はしてないようだったし、第一、自首だったから」

 意外にもあっさりと青山の事件に関して情報提供をしてくれてので、却って鮎京は当惑した。事前に確認しておきたいことがある。

「あ、あの、事件の概要を教えてくれるんですか?」

 戸惑いが、突然の敬語対応と言う形になって表出してしまった。それを聞いた麓はくすっと笑う。

「だって、そのためにわざわざ時間作ってこうやって来たんじゃないの。さらに言うと、それで個室を用意したようなものだし」

 やはりそうか、と期待は本物に変わろうとする。麓は続ける。

「まぁ、捜査中の事件なら口が裂けても、たとえ相手がソウくんでも言えないけど、既決の事件なら、まぁいいのかなって」

「ありがとう」

 礼を一言言うと、麓は急に神妙な顔つきになった。

「それに、私もあの青山という男にあなたと同じような疑問を感じているんだよね……」

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