02 初顔
一週間が経過した頃。
葉桜へと変わり、刑務所の敷地内にも散った花びらが増え始めた。気候は穏やかだが、北遠地区の森林地帯が近いせいか、花粉症を患っている鮎京にとっては、マスクと薬が欠かせない。
医務課に属すると言っても、受刑者に対する矯正処遇を行わないことはない。常勤の医官はいても四六時中診察をしているわけではないので、診察に付き添う時間帯およびそれに伴う事務作業を除けば、受刑者の処遇に割く時間だってある。
少しずつではあるが、受刑者の顔と名前、それから称呼番号を頭に入れていく。
鮎京は元来、人の名前を覚えることが苦手ではない。六百人ほどもいる受刑者を全員覚えるにはまだ程遠いものの、それでも受刑者の顔と名札を見れば、自然と頭に入った。特に医務棟で診察を受ける人間は、併せてカルテ情報をくっつけて頭の中にインプットしていった。
先輩の西条に至っては、適当に番号を言っただけで受刑者の名前と既往歴、刑期、罪状を
しかし、当初から気になっている青山という受刑者には出会えていない。無論、受診の機会も未だなかった。
受刑者は、全員坊主頭で同じ色の服。そして、チームで移動の際などは隊列のように同じ動きをする。服役中は完全にその個性を消されながら生活することになる。余程、身長が高いとか太っているなどの身体的特徴の際立つ者か著名人でもない限り、何らかの形で接しないことにはその人物を特定することは困難である。
受刑者ならぬ丁寧な態度というのは、大きな特徴なのかもしれないが、刑期が長くある程度の節度を
ある日、休憩時間に、同じく手持ち無沙汰にしている新任常勤医師の城野に鮎京は尋ねてみた。
「あ、城野先生。631番の青山由栄って奴なんですけど、分かります?」
城野は椅子にやる気なさそうに座って、スマートフォンを操作しながら鮎京を
案の定、「うーん。俺は知らないね。会ったことないし」と、至極ごもっともな回答が返ってくる。
何の情報も得られなかったが、期待もしていなかったので落胆もなかった。
「失礼しました」と言って、その場を去ろうとしたとき、城野から意外な言葉が返ってきた。
「でも、その人、何か変な薬飲んでるよね?」
「変な薬?」
変な薬と聞けば、職業柄、違法薬物を想像してしまう。隠語で『シャブ』と呼ばれる代物のことだ。しかしこの場合は文脈的に違う。
「カルテ見といて。たぶん、その薬ずっと飲んでんでしょ? 薬切れたら
願箋というのは、被収容者が面会、物品の購入、受診など各種の願い出をする際に、その内容を書いて提出する書面を指す。
「そ、そうですね」と返事をするも、意外にも城野という人間が受刑者の医療情報をチェックしていたことに驚いていた。と同時に、気になりつつもそれをチェックしていなかった自分を恥じた。
しかし、変な薬とは何だろう。この特殊な患者層において向精神薬や睡眠剤などは、珍しい部類には入らないだろう。かと言って、受刑者の高齢化が進んでいる昨今、糖尿病や抗血栓薬、降圧剤もまったく珍しくない。
受診歴はなくとも、受刑者はすべての持ち物は刑務官によって厳重に管理されることになる。その人に必要とされる常用薬とて例外ではない。
法務省発出の通知に則り、ここ遠州刑務所でも被収容者処遇関連情報は一元化されつつある。氏名、性別、出身地等入所時からほぼ変わることのない情報と、施設の中で刻々と変化し、追加や変更あるいは削除が必要となる情報とがあるが、それらを従来のアナログではなくデジタルにより管理するのだ。
その情報は、領置物品や医薬品の情報も同様である。被収容者が入所する際に所持携行してきた金品、外部の人からの差し入れあるいは自費で購入した物品、あるいは医薬品なども、このシステムにて情報が書き込まれ、そして管理され、閉鎖されたネットワークにおいてのみ閲覧できるものとなる。
鮎京は、すぐに業務用のPC端末に自分のIDとパスワードを入力し、青山の情報を閲覧する。
表示された、常用薬の情報として記されていたのは、ネオーラルという名前の免疫抑制剤である。一般名でいえばシクロスポリンだ。ぱっと思い付いたものは、自己免疫疾患。例えば関節リウマチか、はたまた
彼の年齢は三十三歳。まだ若い。一般的にはいろいろ持病を抱えている年齢ではない。
「結局、何の病気なんですか? 自己免疫疾患とかですか?」鮎京は問うと、若干不機嫌そうな表情を見せながら城野は言う。
「診てもないのに分かんねーよ。そーゆーの、アユキョー君の方がよく知ってるっしょ?」わずかながらも
「じゃあ、今すぐ診察しますか? 必要なら病状照会かけますか?」
「いや、そこまでやる必要ねーよ。どーせ薬が必要になれば自分から願箋書いてくるわけだし、そこまで俺が面倒見る筋合いはねぇ。それはどっちかと言うと君たちの仕事だから。ただ、ムショにストックがあるかないか確かめといてよ。なくてギャーギャー
「分かりました」鮎京は承知した。確かに被収容者処遇法に則って、彼らの健康には配慮しなければならない。城野の言うとおり、自分たちの役目なのだ。
失礼します、と敬礼して辞去する。
忘れないうちに調剤室に向かう。そこには刑務所で唯一の薬剤師である
「あ、播磨先生」と、呼びかけると、城野とは違って丁寧に応対する。
「はい。何でしょうか?」
「教えて頂きたいんですが、ここってネオーラルは常備してますか?」
「えっと、ジェネリックなら確かあったかと思いますが……。今調べてみますね」
そう言うと、播磨はきょろきょろと目を動かしながら薬剤の保管された引き出しを探し始めた。
「ありがとうございます」と鮎京は礼を言うと、ほどなくして、
「あ、ありましたよ! ジェネリックで、すごく多いわけじゃないですけど。期限も切れてないみたいです。
「良かったです」
「そういう人がいるんですか?」当然の疑問を播磨は投げかける。
「ええ、最近入ってきたのなんですが、一人いるんです。しかも無期なんですよ」
「ひええ。分かりました。切らさないように注意しなきゃですね。気にしておきます」
播磨は、刑務所には異質な存在とも言える爽やかな笑顔を見せてそう答えた。そう思った瞬間、城野医師の方が異質な存在だな、と思わず苦笑いした。播磨のような物腰の柔らかい人とは今後仲良くなりたいと思った。
そうこうしているうちに休憩時間が終わり、午後が始まろうとする。午後は受刑者の診察が待っている。城野は診察にあたり準備など細かく指示する方ではなさそうだが、滞りなくスムーズに進めるために、西条から教えられたようにしっかり揃える。
そのときだった。刑務所内に耳障りな大きな音が鳴り響く。ここに来てこの音を聞くのははじめてだったが、経験的にこれが所内の異常を報せる警報ブザーの音だということは、鮎京にも容易に想像がついた。武蔵野医療刑務所時代ではほとんど聞くことがなかった。遠州刑務所でのはじめての緊急事態に、自ずと緊張する。しかし身体は反射的に動く。脱走でなければ良いが。どうやら鳴らされたのは比較的近くのようだ。
急いで駆け付けると、受刑者の一人が倒れ込んでいた。一方、もう一人の受刑者が処遇部門の刑務官に取り押さえられている。おそらく受刑者たちも昼の休憩を終えて、これから刑務作業のため工場に向かう途中かと思われる。受刑者の顔ぶれから10工場のチームだろう。10工場と言えば──。
准看護師の肩書きを持つ鮎京は、とっさに倒れ込んでいる方の受刑者に目をやる。口から少量の血が流れているようだった。
「
「あ、青山?」
倒れている男の名札が見える。そこには『631 青山』と書かれていた。
取り押さえられている方の受刑者、松山は「てめぇのそのツラ見てっと、殴りたくなんだよ!」と吐き捨てるように言う。
処遇部門の刑務官が、すかさず「松山ぁ! 黙らんか!」と、ヤクザに負けずとも劣らずの
おそらくこのような場合、加害者である松山は保護室行きだ。案の定、所の至る所から応援に駆け付けた刑務官たちに抱えられ、松山は集団から強制的に隔離された。
鮎京は青山と呼ばれた男に「おい、大丈夫か」と、反射的に声をかけていた。受刑者を無闇に
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」と小さな声で言って、男は
どうやら、この男が
身長は170センチメートル程度といったところか。痩せぎすだが、これはおそらく入所して食事などが質素だからではないだろう。まだここに来てさほど長くないと聞く。おそらくこの男のもともとの体型だろう。
そして、特筆すべきは、顔つきが至って穏やかなのだ。それは、刑務所生活において日常的に暴力を振るわれて元気がないとか覇気がないと言い表すには、どこか語弊を感じる。適切に説明しにくいが、あえて表現するならば、達観しているような、あるいは諦観しているような表情であった。
穏やかな顔つきな人間は、
しかし、受刑者達は、そうでない人間とはどこか一線を画すような犯罪者特有の面影をやはり感じる者が多い。反社会的勢力に属する者、違法薬物の常習者、性犯罪者、殺人犯など様々だが、共通して言えるのはどこかきな臭い雰囲気を顔つきから感じる。これは受刑者だからという先入観かもしれない。もちろん、長期の服役中に過去の過ちを反省し、更生したと言っても差し支えない者もいる。彼らからは犯罪者特有の殺伐とした面影を呈さないこともある。
最近では、一見大人しそうな人間が猟奇的な犯罪に手を染めて、世間を賑わすことも多くなったが、鮎京に言わせれば、そのような者でさえ容貌や言動の節々がやはり常人とは異なって見えるが、この青山という男は、そういったものを
西条からの情報に鮎京は得心がいった。
一方の加害者と思われる松山は、何でもないことで腹を立て、簡単に人を殴ったりする、受刑者の中でもいわゆる問題児なのだ。暴行罪や傷害罪で入所と出所を繰り返している累犯だ。犯罪を繰り返すたびに刑期は長くなっていくが、もともとの性なのか、服役生活においても素行の悪さは変わらない。そんな彼でさえも殺人は犯していない。
罪状を青山と松山で交換すれば、風体と一致するだろうが、もちろんそんなことは口に出さない。でも他の刑務官も薄々そう思っているかもしれない。
そして、悲しいかな、そのような威厳のない受刑者は、消極的ゆえ、刑務所の先住民の格好の餌食となり下がりやすいのも事実である。青山も早々とそのような末路を
そんなことを鮎京は頭に巡らせながら、「処置するぞ」と言って、青山を医務棟へ連れて行こうとした。
「あ、先生。もう止まってますから、結構です」と青山はそれを丁重に断る。
刑務官のことを『先生』と呼ぶ受刑者は、経験的にみて素行が良い。大抵、鮎京のような若輩者であっても『オヤジ』と呼ばれるのが、刑務所の通例だ。または『担当さん』とか。
なお、刑務官であってもなくても、職員の名前は絶対に受刑者に教えない。出所後に
確かに血は止まりつつある。処置は不要かもしれないが、やはりこの男のことが気になる。
基本的にチーム編成は変わることがない。メンバーが出所したり入所したりして入れ替わるだけだ。
松山もまだ服役生活を長く残している。青山にとっては御愁傷様な話である。口には出さずとも、そう感じざるを得なかった。それとも青山は、今は新参者として猫を被っているだけで、そのうち化けの皮が剥がれて、このヒエラルキーが逆転する日が来るのだろうか。
しかし、青山の言動には理解できないところもある。
無期懲役という先の見えない服役生活で、怪我の処置よりも、ヒエラルキーのいちばん下ということで、またいつ嫌がらせを受けるかも分からない信用ならない男たちに囲まれて作業をすることを選んだ。
作業報奨金は、一般的な社会の賃金からすると極めて低い。どんなに優秀な受刑者でも、月一万円をようやく超えるか超えないか、である。この極限まで作業のモチベーションの上がらない要素で埋め尽くされた環境で、青山は働くことを選んだ。
犯罪者は、元来仕事が長続きしなかったり怠け癖があったりする者が多い。それは舞台が刑務所だからといって、
成果を上げた分だけ出世に繋がる社会などではなく、ここにいる限り日の目を見ない。何かの使命感とも言えるほど、ストイックな働きっぷりに鮎京は感心していた。
途端にこの男がどのような経緯でここにいるのか知りたくなった。
医務棟に戻ると、警報ブザーの対応で遅れた分、急いで診察室に戻る。しかし、西条が来ていて準備の続きを手伝ってくれていたので、ほぼやることはなかった。まだ、受診予定者の受刑者を呼ぶには少し時間がある。
さっそく鮎京は、西条に気になっていたことを訊く。
「青山ですけど、何でムショに入ったんですか?」
「あれ? お前知らないのかよ? 殺しだよ」
「あ、それは知ってます。殺しの内容です」
「いやいや、それだって有名だら? 若い女性を惨殺したって」
「惨殺ですか……」
「ああ。死体損壊罪との併合罪らしいからな」
併合罪ということは、死んだことを確認してから、死体を何かしらの方法で損壊したということだろう。鮎京はぞっとした。殺しても飽き足らずに、なおも死体を損壊する。並々ならぬ
「場所は?」
「ここ浜松市内の被害者のアパート。比較的この近くだったはずだぞ」
「まじっすか?」
「結構ニュースになったんじゃないか? 特にここ地元では……、な」
「あ、自分は武蔵野にいたし、テレビもあまり観てなかったんで……」
「そうか。このあたりは一時期騒然としてたぞ。この片田舎で殺しなんてそうそう聞かないからな。でも意外なことにすぐに自首したって話だから。もし、自首じゃなかったら極刑だったかもしれないな……」
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