第一幕【徒刑囚の牢愁(The prisoner's loneliness)】

01 牢愁

 約五メートルもの無機質なぎんねずのコンクリート塀に沿って咲き、鮮やかに華やぐソメイヨシノのゆるしいろの対比が、奇妙に思われて仕方がなかった。北遠ほくえん地区の森林地帯からさほど遠くないところにそれはある。春の薫風は程よく暖かく、心地良さを感じさせる。

 あゆきょうまさるは、今春からこの桜たちが出迎える囲いの中で務めを果たすことになった。

 美しくあでやかな木々とは打って変わって、中では社会とは隔絶されたらいの男達がひしめいている。

 彼らは、全員毬栗いがぐりあたまもえいろの制服と制帽を着用しており、いかにも統率の取れた集団であるようにも見える。しかしながら、それは個々人のアイデンティティを抑圧するために科せられた烙印らくいんのようなものであり、監視を容易にするために古くから行われてきた一種の儀礼のようにも見える。

 そう。ここに集っているのは、様々な悪事を働いたために禁足された囚徒たち。彼らは一様のごくを身にまとっていた。

 右胸にあるのは白地の紙に見栄えのしない黒の明朝体で苗字とその左上に小さく数字のみ書かれた名札。それは、いかにも必要最低限の情報のみ分かれば良いということが伝わってくるようだ。

 まさしく必要最低限のものさえあれば良い。もっと言えば、必要最低限を超えるものが提供されてはいけない空間なのだ。居心地の良い場所であってはならない。なぜなら、法に定められた罰則として、刑に服するみそぎの場であるからだ。二度と刑に服さぬよう更生させるのだから、ここがしゃよりも快適であってはならない。


 庁舎の二階には、幹部にもならない限り滅多に入ることはなかろう所長室があり、そこで看守を拝命する。LB級の刑務所だからというわけではないだろうが、おさか法務のりちか所長は、かなり威厳のある男だ。上下関係の厳しい刑務官の世界ゆえ採用辞令の交付式は非常に緊張する。まだ受刑者相手の方が気は楽だ。

 辞令交付を終えた鮎京は、先輩刑務官の西さいじょうまことに連れられ、厳重なロックのかかった金属の扉を二つ通り、医務棟へと向かう。西条は以前、武蔵むさし医療刑務所時代でも勤務をともにした一年上の先輩だ。

 医療刑務所には法務省設置の准看護師養成所がある。そこに鮎京は二年間通い准看護師の資格を取ったばかりだ。刑務官兼准看護師という立場で、受刑者の健康のサポートを担うため、今春この刑務所に移ったのだ。西条は鮎京より一年早く資格を取得し、この刑務所で医務に従事している。

 刑務官としてはまったくの新任ではないのだが、それでも新しい職場とは緊張するものだ。無意識にネクタイが曲がっていないかえりが立っていないか、先ほど確認したにもかかわらず、手をそこに持って身だしなみを改めようとした。

「この春からお世話になります、鮎京英です! よろしくお願いします!」

 棟内の事務室の中に入った鮎京はハキハキとした口調でそう言うと、右肘を四十五度に屈曲させながらその腕を挙上させた。いわゆる敬礼である。それに対して、中にいる職員も答礼で応じる。ここではお辞儀や握手ではなく敬礼および答礼が基本的な挨拶であり礼式でもある。自衛隊や警察の如く、刑務官もそれを行うのである。

「君が鮎京くんか。よろしくな」

 代表するようにそう答えたのは、副看守長・医務課保健係長の岡崎おかざきじょう一郎いちろうだ。白髪混じりの頭髪は五十歳台の風体だが、刑務官の適性をいかにも備えたような筋肉質そうな体格を備えていた。

 岡崎係長は、順番に手で指し示しながら紹介を続ける。事務室の中は鮎京を含めても職員は片手で数える程度。無論、全員男だ。ここは拘置所ではないので、庶務課職員の一部を除いて、原則女性職員は存在しない。男性刑務所とは非常に硬派な世界なのだ。


 刑務官は、決して派手な職業ではない。国家公務員ということもあるが、罪人を更生させる立場にある者だから、その見た目も地味である。受刑者とは異なり坊主頭ではないが短髪である。大体、眉や耳に髪がかからない程度で襟足はシャツ襟に付かないくらいか。これは抵抗した受刑者に髪を掴まれないようにするためとも言われるが、いちばんは受刑者の秩序を乱さぬよう、あるいは国家公務員としての秩序を乱さぬようにという意味合いだ。だから事務室内も例に漏れず皆短髪──。と、思いきや、一人それに該当しない者がいた。

 辛うじて髪色は染められてはいないものの、男性にしては長い髪型でまだ若い。眉は綺麗に整えられ、色白で目鼻立ちが非常に整っている。辛うじてネクタイをしているが、淡藤色あわふじいろのシャツの上に羽織られている白衣さえなければ何者か分からないほど、刑務所には非常に異色の存在に見える。

 彼を指差して、岡崎係長は言った。

「同じく春から赴任したばかりの医官のじょう匡正ただまさ先生だ」

「ちいっす!」

 城野先生と呼ばれた男は、足を組んだまま腰掛けにだらしなく座り、左腕だけは敬礼のように挙がっているが、敬礼とは右手でするものだ。手はピースサインの人差し指と中指をくっ付けた形になっており、これでは百歩譲っても敬礼とは呼べない。軽薄な挨拶といい、女子高生の中でもいわゆるギャルに近いような所作である。もっとも、男に囲まれた世界に生きている鮎京は、ギャルどころか一般的な女性との接点すら持ってはいやしなかったが、想像でそのように感じた。

 しかし、岡崎係長は彼を医師と呼んだ。

「ド、ドクターですか?」

 鮎京のどもりと上ずったこわが、彼の狼狽ろうばいさ加減を露呈していた。

「ああ、常勤のな?」

「じょ、常勤!?」

 常勤の医師が刑務所に勤務していること自体は、何も驚くべきことではない。受刑者だって病気にかかる。例えば、長期の服役囚が集っているL級の刑務所では、被収容者の高齢化が進んでいるという。被収容者処遇法には受刑者の健康の維持に努めなければならないという内容の文言が明記されているのだ。

 ただ、偏見かもしれないがこのような容姿の男が医師であることに違和感を禁じ得ない。ことに刑務所という秩序に厳格な空間ではミスマッチな存在極まりない。端的に言えば明らかに浮いている。

「城野先生はT大の医学部出身だそうだ」

「T大!?」

 T大は誰でもその名を知っているほど有名な大学であり、そこの医学部は間違いなく国内トップクラスの難易度を誇ることは語るまでもなかった。

「そう。俺、てんりゅう医科の医局を辞めて、ムショのドクター募集に目が留まって、応募したんだよね。ほら、給料良いからさぁ」

 間延びした口調からも、眼前の男が聡明な頭脳の持ち主には到底見えなかった。能鷹隠爪のうよういんそう、あるいは大賢は愚なるが如しということか。それにしてもおちゃらけている。もしこの男が刑務官なら、上官に出直して来いと一喝されること請け合いだ。それがゆるされるのは、この男が医師だからだろう。ここでの医師の立場は刑務官より高い。

「前任の大阪おおさか先生は、三月で退職されたからな。これからは、城野先生と、非常勤の医師と歯科医師を中心に診療を進めていくことになる。そして鮎京くんと、ニューフェイスが多くなるが、気を引き締めてやっていくように!」

 岡崎係長がそのように場をまとめると、城野を除く一同は答礼した。


 その後、鮎京は西条に連れられて、一通り刑務所内の挨拶回りのため事務室を一旦辞去した。

 主に受刑者の戒護を担う刑務所の核となる処遇部門、物資の搬入や管理、営繕に関わる用度課、組織全体に関係する事務を担う庶務課、経理を担う会計課などが所内には存在する。

 簡単に挨拶回りをし、医務課へ戻る頃にはもう昼休み近くになっていた。コンクリートで敷き詰められた通路を歩きながら鮎京は与えられた席の隣に座っている西条にこっそり尋ねた。鮎京は城野という医師が気になって仕方がなかったのだ。

「西条さん。あの城野さんと言いましたっけ? 医者なんですか?」

「……みたいだな」

「だ、大丈夫ですかね? ホストみたいじゃないっすか」

 城野の風体は、無彩色の高塀の中か極彩色の歓楽街の中かと言われれば、明らかに後者の方がマッチする。

「っても、俺らから何も言えんだら。もし受刑者の風紀が乱れるようなことがあれば、所長から注意が来るかもしれんが」

「──ですよね」

「それでも、T大医学部出だら。えんしゅう刑務所では、キャリア組の所長に並ぶか凌ぐくらいのブレインという噂だ」

 西条は帽子を取って頭を掻きながら、かわなまりで話す。鮎京は西条の三河弁に、ちょっとした懐かしさを感じ、安堵する。

「話変わりますけど、俺、西条さんと同じところに配属になって良かったっす」

「お。何? 気持ちわりぃな!」西条はぎこちない照れ笑いなのか、顔がったようで不自然な笑みで答える。

「いや、だって、職場の人間関係大事じゃないですか。特に刑務官って上下関係厳しいですし。西条さんがいるから、安心してるんです。お世辞とかそういうのじゃないっすよ」

「わ、分かっとるけど、ちょっとキモいわ」

「そ、そうっすね。すみません」

「謝ることでもないら」

 西条は愛知県の東南端、豊橋とよはし出身である。一方で、同じ愛知県でも鮎京は西北端のいちのみや出身なので非常に離れているのだが、ともに中日ドラゴンズのファンであることから武蔵野医療刑務所時代は打ち解けた。そのため、鮎京は西条に敬語で話すも、比較的気安く接することが出来る。

「ぶっちゃけ、ここはどうっすか?」

「ああ、比較的医務課は人間関係良いぞ。岡崎さんも面倒見いいし。本当は、そういう人が処遇部にいる方が良いんだけどな」

 医務課は、ということは、処遇部門は刑務官でも厳しい人材が揃っているのだろうか。刑務官の受刑者に対する態度が、以前はよく問題視されていた。近年は大分改善されてきたというが、刑務官が受刑者をリンチの末に死なせてしまうという事件もそう遠くない昔に起きている。

 鮎京は、刑務官の受刑者に対するれつな態度には、極めて批判的である。刑務所はあくまで更生の場であり、間違っても拷問の場ではないからだ。節度を超越した暴虐的な態度は、かいしゅんなどではなく、えんしか生まない。

 かと言って、間違ってもホテルマンの接遇よろしく受刑者に丁寧なもてなしをすることはない。必要以上にいたわったりもしない。通常の刑務官のように、呼び捨てにはする。ただ、受刑者が罪を少しでも反省し、二度と塀の中の世界に戻って来ないように送り出すのが、自分の使命だと思っている。ただ、ここは少年刑務所ではない。多くの受刑者は自分よりも年上だ。鮎京は、刑務官にしては線が細めでどちらかといえば童顔で中性的な風貌であることも手伝って、大抵の受刑者にはなめてかかられる。下手をすれば、殴りかかって来ようとする者もいる。矯正を目標に置く身としては不利な条件からスタートすることを余儀なくされる。うまく更生へと導くための駆け引きが非常に難しいのだ。

「受刑者はどうですか?」鮎京は尋ねる。

「どうって?」

「いや、いろんな奴がいると思うんすけど、全体的に僕らの言うことを聞くとか、荒くれ者が多いとか……」

「んなもん、千差万別だら。もちろんA級のとこよりは、比較的荒くれモンが多いって聞くがな」

「そうっすよね」

 遠州刑務所は収容分類級でいうとLB級といって、長期服役受刑者、再犯・累犯るいはん受刑者を主に収容する刑務所だ。

「あ、そういえば、この間入ってきたばかりの奴だが、ちょっと変わっててな」

「変わってる? っても、受刑者はみんなどこかおかしい奴が多いじゃないっすか」

「いや、そうなんだが。受刑者らしからぬ、というか」

 一般的に考えて、ごく普通の人が獄中生活に服するとは考えにくい。

「と言うことは、大人しめな奴ですか?」

「大人しいってもんじゃない。どう見ても刑期と風体が釣り合わん」

「刑期は……?」

「無期だ」西条は静かに言った。

 無期懲役は死刑の次に重い。死刑囚は拘置所に収容されるため、刑務所に収容される服役囚の中では最も重い刑である。

「名前は?」

「631番の青山あおやま由栄よしはる

 鮎京は名前をどこかで聞いたことがあるような気もしたが思い出せなかった。無期懲役になる者は、例えば強盗殺人などニュースになるような犯罪を犯していることが多い。よって耳にしたことがあったかと思ったが、生憎あいにくよく分からなかった。武蔵野医療刑務所で日々忙殺されていたからかもしれない。

「殺しですか?」

「ああ。でも、本人を見てみろ。ビックリするぐらい正常だ」

「更生したんじゃなくて?」

「まだ入ってきたばかりだぞ?」

「そうっすよね……」

 受刑者の中には、最初は荒れていても更生によって落ち着き、犯罪者の面影を見せなくなった者もいる。また、皮肉な話ではあるが、娑婆では自立した生活を送ることが困難で犯罪に手を染めてしまうが、刑務所という衣食住を保証された空間で精神的な安定を取り戻す者もいる。しかし、西条の話から察するに、その両者でもなさそうだ。

「素行は極めて良く大人しい。ましてや俺らに歯向かう気配なんてないし律儀だし、受刑者であることを忘れかけるほどだ」

「じゃあ、楽じゃないっすか。こっちは」

「いや、それがそうでもないんだ。聞いたことあるか? ヒエラルキーって言葉」

「ヒエラルキー……」

「カースト制度みたいなもんだ……」

「あ、まさか」

「あいつは格好の的なんだ。10工場でひどい目に遭ってるようだ」

 受刑者は刑期を終えるまで常に二十〜四十人というの極めて狭いコミュニティーに終始しなければならない。そこで、上下関係が成立するので、下位になった者はたまったものではない。目に見えた暴力行為は刑務官の見えるところでは行わない。しかし、シャリあげ(立場の強い受刑者が弱い受刑者から食事を奪う行為)などは日常茶飯事だ。

 イジメの対象となりがちな受刑者には特徴がある。物覚えや要領の悪い人間や大人しく控えめな性格の人間はその傾向にある。青山という受刑者はそれに該当するのだろうか。また犯罪の内容によっても、ヒエラルキーの優劣が決定されると聞いたことがある。たとえば政治犯や思想犯といった類いの犯罪者は受刑者の間で崇められる立場にあるとか。ヤクザの組長もやはり強い。一方で性犯罪、児童虐待などを理由に服役する者はイジメの対象になる。これは受刑者の中にも倫理観が存在するためだろうか。それとも、良好な養育環境で育ってきた受刑者は稀で、親の離婚と再婚を繰り返す中で、養親から暴力を受けながら育ってきた者も珍しくないので、児童虐待を忌避する傾向があるためかもしれない。

 また特定の職業はイジメの対象になる。警察官が犯罪を犯し服役した場合は、そのことが暴露された日には悲惨な刑務所生活を過ごさねばならない。


 青山は殺人罪だという。

 例えば、何も罪もない子供や老人をあやめたりして、それが受刑者の間で知れ渡った場合、苛められる可能性もある。

 しかし、得てして、非のない社会的弱者に手をかける猟奇的な殺人者は、更生の余地などないほど、社会一般的な常識から大きく逸脱した価値観の持ち主が多いことも知っている。

 まったく反省の態度も一切ない犯罪者で、死にたくないという理由だけで出頭し、無期懲役を獲得し、もし出所したら同じように人を殺すと堂々と言っている者もいるが、正直な話、そのような人物は血税で生かすことなどせずに、いっそ極刑になってしまった方が世のためではないか。無論良くない考え方であると認識しつつも、世の不条理を感じている。

 しかし、特に矯正処遇を受けることもなくして、はじめから慇懃いんぎんな態度で接してくる受刑者もいないわけではないが、無期懲役になるくらいの重い犯罪を犯した人間では珍しいのではないかと思う。


 631番の青山という人物を、鮎京は頭に刻んだ。

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