第二幕【瑠璃色の契情(The lazuline beauty)】
09 架電
『おう、アユちゃんじゃねえか! 聞いてくれよ!』
「な、何だよ。クロちゃん」
『恭歌だよ。もうめっちゃめちゃ怒られてさ、泣きそうだよ!』
電話の相手は、開口一番そんなことを大声で言うので、鮎京は面食らった。電話をかけたのはこちらなのに。
事実鮎京は、黒羽をキャバクラに誘うという目的のために、電話履歴から彼の名を探し出しては、やはりそれが切り出せずに再度待ち受けに戻し──、といった作業を五、六回反復した。
勇気を振り絞ってやっと呼び出し音を鳴らすに至ったのは、最初に電話をかけようと思ってからも一時間以上要している。それだけのためにそれだけ
それだけ、というが、夜の街に無縁で、女っ気も今はゼロ。かつて付き合った彼女はいるものの、それは刑務官になる前の話の遥か昔、学生の頃に一回だけで、しかもごく短期間だ。手を繋いだ覚えすらない。繋ごうと誘えないまま別れを迎えた。異性と手を繋いだのは幼稚園の頃ではなかろうか。
さらには職業柄、庶務課の一部職員と売店のおばちゃんを除いて、接するのは男のみという、軍隊的男女比の環境でここ最近は培養されている。さらに、これは鮎京にも非があるのだが、プライベートでもいわゆる『コンパ』や『
先日の麓恭歌との会話も、我ながらよく持ち堪えたと思うものだ。それは、黒羽が同席していたこと、アルコールが入っていたこともあるが、何よりも女性警察官が務まるくらいにいかにも男勝りでチャキチャキした麓の性格のおかげだったと分析している。もちろんこんなこと、口が裂けても麓には言えないことだ。黒羽の泣き言から察するに、おそらく手錠をかけられるよりも恐ろしい報復が待っているだろう。
普段の鮎京は、例えばコンビニエンスストアなどで、妙齢の女性店員からお釣りを受け取る際に、指が触れただけで心臓が高鳴ってしまう。こんな人間、おそらくは男子高校に通う高校生でもなかなかいないかもしれない。
そんな人間が夜の街に行くなんて、お酒を全く受け付けない人間が焼酎の一升瓶をストレートで飲み干すようなものだ。
しかも相手は男性客を手玉に取るプロ中のプロなのだから、文字通り骨抜きにされるかもしれない。
丸腰で行くなんて犬死にするようなものだ。だから一緒に『
「お、落ち着きなって! ど、どうしたんだよ、一体っ!」
誰が見ても鮎京自身落ち着いていないのが見え見えだが、自分のことは棚に上げるように黒羽に尋ねた。
『どうもこうも、恭歌のメアドを勝手に渡したのと、機密情報を漏洩させていることを注意しなかったことで、「警官としてなっとらん!」と激怒されたんだよ!』
鮎京は、数秒考えた。自分のことではないか。黒羽は鮎京の要求に応じようとしたがために、麓の
「ちょっと待て、そりゃ俺が原因じゃないか!」
『そーだよ。お前が原因だよ。でも麓は同じ警察官として、さらには彼氏として容赦なかったよ! ついさっきまで電話で一時間は怒られた』
一時間とは……。ちょうど電話をかけようかどうか迷っている間、彼はずっと罵倒されていたのだ。浮気をしたわけでもないのに一時間も怒鳴られ続けたなんて、思わず鮎京は同情する。一方で、嫌な電話なら切れば良いのに、と思ったが、切らせないくらい麓が強いのか、黒羽が弱いのか。少なくとも鮎京がその引金を引いてしまったことに強い罪悪感を感じるとともに、女性というのはつくづく恐ろしい相手だ、収容されているヤクザの方がまだマシではないだろうか、とますます鮎京の異性に対する苦手意識が蓄積されていったのは言うまでもない。
「本当にごめん! マジごめん!」
鮎京は、電話越しの男があまりに可哀想なので、取りあえず謝った。ひとしきり謝り続けると少し気が楽になったようだ。
そして、黒羽は問うた。『ところで、アユちゃんの用件は何なの?』
架電してここに至るまで三十分ほど。当の目的を言うのを忘れかけていた。
「あ、えっと、何だっけな?」と十秒ほど考えた後に思い出した。「あっ!」
『何だい?』
思い出したは良いものの、鮎京にとってはたとえ男相手でも言うのが憚られるほどハードルの高い内容だということを思い出して、おおいに戸惑う。
「えっとな、キャ、キャ……?」
『キャ?』
「ほら、あるだろ? 女性の……」
『キャビン・アテンダントか?』
なぜ、ここに来てキャビン・アテンダントという単語が登場する。鮎京は盛大にずっこけそうになる。この間、麓を交えて三人で会話したときに登場したあのフレーズを想起させようとした。しかし、鮎京からそれを発するだけでも、顔から火が出る思いなのだ。
「違うって! あるじゃないか。女性と話をする店だよ。えっと、キャ、キャバ……」
『キャバクラか!?』
「そうそう、そんなやつだ。あ、青山の……」鮎京は口を濁すが、次の黒羽の応答は意外なものだった。
『いい! 行こう!』
「えっ!?」鮎京は動揺した。まさか完全に用件を伝える前に、その意志を汲み取って乗ってきた。
『正直な、キャバクラでも行ってガス抜きしないとやっとれんじゃん! 恭歌は
「……お、おう」
鮎京が
青山の身辺を探るために、客を装って夫人であるホステスに接触する。
既決の事件であり、警察の捜査の一環として探るわけにもいかないので、そうするしかなかった。しかしながら、偶然にも夫人が水商売で生計を立てているからこそ調査の
だから、青山夫人に応対してもらうことが絶対条件であり、そうでなければまったく意味がない。ただ、指名をするためのノウハウなど鮎京には当然備わっていない。
聞くところによると、黒羽はキャバクラに行ったことがあると言う。通い詰めていたということはないが、そういう店が好きな先輩がいたと言うのだ。
鮎京は黒羽に指名の手続きを行ってもらうよう懇願した。幸いにも二つ返事で承諾してくれた。当人には悪いが、麓との
少なくとも、鮎京にとってはまるでナイト・サファリのような場所へ独りで赴く事態は
数分後黒羽から応答があった。もう早くも件の店舗に電話をかけ青山夫人の空いている時間帯を確認したというのか。鮎京がその行動を起こそうとするとなれば、もじもじして軽く三日くらいかかると予想される。恥ずかしながらその行動力には素直に感服せざるを得ない。
黒羽からのメールには、基本的には月曜日を除いて毎日出勤しているらしいが、空いている日時は早くも三週間先であり、直近では五月二十二日の火曜日の十九時からで、それを逃すと六月になる旨が記載されていた。
どうやら『Lapis Lazuli』は浜松でも、ホステス在籍数および知名度ナンバーワンであり、競争率の激しい指名ランキングで二位以下が目まぐるしく入れ替わる中、青山夫人だけは常に頂点に君臨し続けているとのことである。様々な方面からの情報からその信憑性はますます高まっていく。青山夫人の名声が轟いていることを再確認する。
ゆえに、チャンスは限られている。指名の取れる日時と城野、黒羽、鮎京のスケジュールを合わせなければならないのだ。今更ながら実は日程調整が面倒ではないか、と
取りあえず、黒羽にメールでお礼をする。
翌日の城野の午前診察後にこっそり聞いた。実は城野と二人きりで会話するチャンスは診察後なのだ。他の人間に聞かれたくない内容の会話をするのにはもってこいだった。
「先生、あのお願いなんですけど、僕と一緒に『Lapis Lazuli』という店に行くの付き合ってくれませんか?」
立場が上の人間に、しかも仮にも勤務中に夜の店に誘うのは、通常ならかなり勇気を要するが、城野と秘密裏に会話するチャンスが限られていること、遊び慣れていそうな城野の風体に加え、黒羽が鮎京の誘いに乗ってくれていることや電話で指名可能な時間帯を照会してくれたことなどが勢いとなって、自分でも不思議なくらい自然と切り出すことが出来た。
「あん?」案の定というか分からないが、突然のお誘いに怪訝そうな表情で反応する。
「『Lapis Lazuli』っていう、いわゆる、えっと、あのキャ、キャバクラですよ」
「聞いたことあんよ」やはり鮎京の見立ては正しかった、この男は夜の街に詳しいのではないか、とおおいに期待する。
「一緒に行ってくれませんか? お願いですから」気付くと勢い任せで懇願していた。部屋は暑くないはずなのに鮎京は汗をかいている。
「……いつだ?」
来た、乗ってきた、と心躍る。五月二十二日の火曜日の十九時はどうですか、と伝えると、空いていると返事が返ってきた。三週間後の平日の夜だ。予定が入っている可能性は低いのだろう。ちなみにその日は黒羽も鮎京も今のところ空いている。幸い医務課の職員は夜勤が原則としてない。もし夜に業務が食い込みそうなときでも、緊急を要する案件でなければ予定を死守しようと思っている。
「人気ナンバーワンを用意しておきますから!」
「どういう接待? アユキョー君そんな趣味あったん? まぁいいや、付き合ったげるよ」
「ありがとうございます!」
誤解されているかもしれないが、アポイントは取れた。まずはこれでいい。
城野は診察室を出て医師控え室兼更衣室に向かう。
ところで、接待と言っていたが、城野は鮎京に金額を支払わせる気でいるのだろうか。確かに誘ったのは鮎京だ。とはいえ、地位も違えば年収も違う。年収は推定だが三倍くらい城野の方が上のはずだ。しかも国家公務員の中でも矯正医官はフレックスタイム制の上に兼業なども例外的に認められ、宿舎などの手当も手厚い。
さらに、城野は外見に違わず金に糸目をつけないように見受けられる。机の上の私物は、刑務所にはあまり相応しくないブランドもののキーホルダー類や香水などであり、かなり金遣いは荒そうだ。
年齢で見て平均年収と大差ない程度の鮎京にとって城野の分まで支払うとなれば、かなり痛手である。例えば延長して高級酒を飲むなどされれば、なけなしの貯金を切り崩し、以降給料日まで爪に火を
「あ、待って、先生!」
鮎京は我ながら情けない声で呼び止めた。
「全部僕の自腹は無理ですーっ!」
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