20 豎子

 その後、ずっと鮎京は城野の言葉を反芻はんすうしていた。かなり重い言葉である。

 もちろん黒羽の意見にも重みがあった。そのときは、くんを帯びていたから、まだどこかに気持ちの余裕があった。しかしその直後、麓に、川越が殺害されたという情報が飛び込んで一変した。そこで城野の忠告は、相乗効果を伴ってさらなる重みでのしかかっている。

 午後の業務を終えて、職場をあとにする。夜勤、日当直業務がローテーションに組み込まれるが、その初陣ういじんは今週末からだという。やや沈鬱な足取りで遠州鉄道に乗っていると、黒羽から電話がかかってきた。車内のなので周囲の目を気にしつつ小声で電話を取ると、『突然だけど、今日飲みにでも行かないか?』と言う。

 本当は、週末の夜勤、日当直に向けて体力を温存しようと思ったが、どこかで少し酒を飲んで心を落ち着かせたいという気分でもあった。

二川ふたがわは飲む場所があまりないから、浜松駅に行くよ』と、電話越しの黒羽は言ってくれた。黒羽も深夜遅くまで起きていたはずだが、月曜日の仕事後から飲みにわざわざ隣の県まで行くとは、元気なものだ。黒羽のフットワークの軽さは、多忙である刑事の彼女と隙間を縫って逢いに行っていることからも窺える。

 自宅から最寄りの浜北駅では下車せずそのまま乗り続ければ、目的地付近である終点、新浜松駅だ。

 月曜日の薄暮。浜松の駅前は賑わっていた。そこに地味でややみすぼらしい格好をした少女がひとりたたずんでいた。しかし、その人形のように大きく澄んだ瞳は、よく見ると涙で潤んでいるように見える。幼稚園か保育園らしき名札がついていたから未就学児だろう。こんな街中で、少女がひとりぽつんと立っていることはあまりない。迷子になったのだろうか。声をかけようか。しかし、幼児を対象とした性犯罪が取り沙汰される中、不用意に声をかけるのは自分まで変質者に思われないだろうか、と躊躇した。

 ただ、次の瞬間、鮎京に電撃にも似た衝撃が走る。少女の名札には、無視できない七文字の平仮名が羅列されていたからだ。

『あおやまゆりか』

 思わずその文字列を確認するために覗き込んでは、驚きのあまり後退あとずさった。『あおやま(青山)』は言わずもがなくだんの人物の姓である。『ゆりか』はあの女性の源氏名と一緒だ。『あおやま(青山)』も『ゆりか』も、これ自体はさほど珍しくない名前だが、組み合わされば話は別だ。言うまでもなくこの少女の父親と母親と予想されるあの人物たちの顔が、瞬時に鮎京の頭の中に描かれていく。思えば、眼前の少女は非常に顔立ちが整っている。最近見た誰かさんのように。しかも麓は以前、青山には、事件当時は四歳、おそらく今は五歳になる娘がいると言っていたことから、ぜんその親子関係の信憑性を増してくる。

 少女は鮎京の不審な動きをいぶかしげに見る。当然だ。

「あ、ご、ごめんね」バツが悪そうに、鮎京は頭を掻きながら少女に声をかける。「あ、あの、迷子か何かかな?」

 すると、やはり知らない男性に話しかけられたせいか、その少女は逃げようとする。しかも、逃げた方向は浜松の歓楽街だ。『Lapis Lazuli』もある。

 鮎京は慌てて、「待って、そっちは危ないよ。迷子なら交番のおまわりさんを呼んでくるから」

 そう言うと、少しだけ安心したのか逃げるのをやめてこちらを見る。そして少女は言った。

「お兄さん、アタシ、迷子じゃないよ」

「そう。それなら良かった。お母さんを待ってるのかい?」

 少女は黙って頷いた。きっと、そのお母さんは『ユリカ』こと青山留利で、どうりで『Lapis Lazuli』のある歓楽街に行こうとしたのだな、と分析するが、おくびにもださないように努める。

 でもなぜ涙ぐんでいたのだろう。推測で鮎京は尋ねてみることにする。

「どうして泣いてるの? お母さん、なかなか戻ってこないのかな?」

 おそらく母親は、娘を連れているときに自分の店に何か忘れ物でも取りに行こうと思ったのだろう。ただ、店は娘の教育上あまり宜しくないと判断し、ここに待っているように言い付けたのだ。

「……違うの」

 鮎京としては自信のある推測であったが、あっさり否定された。

「じゃあどうしてかな?」

 すると、少女はうつむいて、大きな瞳をギュッと閉じて涙がしたたった。人通りの多い中、とても気まずくなるが、少女は答えてくれた。

「……パ……に……たい」

「えっ?」

「……パパに……、会いたいの……」

 その言葉に強い衝撃を感じた。ここでいうパパとは、うちの刑務所で服役している青山由栄で間違いないだろう。『ユリカ』に似て美少女だと思ったが、よくよく見ると青山由栄にも似ていなくもない。

「パパはいないの?」無知を装い、敢えて聞いてみる。

「マ、ママがね……、パパは、今はお仕事でいないけど……、もう少ししたら帰ってくるね、って。でもアタシ、パパ大好きだから今すぐに会いたい」

 それを聞いて、ずしりと胸にナイフが突き刺さったように、心苦しくなった。いくら法の裁きを受けて服罪していたとしても、幼い少女には関係ない。五歳ならば、いちばん父親の愛情を欲して止まない時期だろうことは、鮎京にも想像がつく。

 そして同時に、娘にとって青山は良き父親だったと言うことも分かった。もし人違いで刑に服しているのであれば、それをただしてやりたい。改めて使命感に湧いた。

 少女は続けた。

「お兄さんね。アタシ、身体が弱いの。おしっこの病気で、今日病院に行ったの。いつもはね、毎日おうちでお腹からお水入れて、注射してるの」

 おしっこの病気とは腎不全に陥っているのだろうか。お腹からお水入れるとは腹膜透析ふくまくとうせきと考えれば納得がいく。そして毎日注射という発言。これが仮にインスリンを指しているのなら一型糖尿病で腎障害とも結びつく。いつしか城野が話した筋書きでは、青山由栄も一型糖尿病である。非常に共通点が多い。果たしてこの病気が遺伝するかまでは知らないが、これが本当なら、ますます居たたまれない。

「どの病院に行ってるの?」

「えっと、えっと……。とってもおっきな病院で……。車で行ってるの」

 つい聞いてみたが、やはり幼児に病院名まで答えさせるのは酷な話だ。しかし、とても大きな病院ということで、天竜医科大学の附属病院である可能性は否定できない。考えれば、小児の腹膜透析となると、実施している医療機関もさほど多くないだろう。ひょっとしたら地方では医学部の附属病院くらいしかないかもしれない。

「ゆりか!? 何でこんなとこにいるの!?」

 突然背後で声がした。どうやら女性の母親のようだ。あの『ユリカ』の声だ。声だけで分かる。問題は振り向いて相手がどのように反応を示し、どのようにこちらが反応するかだ。

 意を決して振り向くと、やはりそこには、伝説のホステス『ユリカ』が立っている。今日は出勤日ではないのだろう。やや化粧は薄めの印象だが、暗い店内と薄暮とはいえまだ明るい外とでは、見え方が違うのかもしれない。しかし、美しいことには変わりない。身につけているものも高そうなブランドものだ。さすが人気ナンバーワン。常連客が買い与えてくれるのだろうか。

 しかし次の瞬間驚くべき光景を目にする。バシッと渇いた音が鳴り響いたとともに、少女が左頬を抑えていた。『ユリカ』が娘のゆりかをぱたいたのだ。優しい印象を抱いていたが、意外にも娘には厳しい。やはり娘は親の言いつけを守らずに勝手に場所を移動していたのだろうか。そういうときは、手を挙げることも辞さないというのだろうか。

 『ユリカ』は鮎京の方を見た。見たことある顔だと思ったか一瞬目を見開いたが、知人を装わない。まなむすめに手を挙げてしまった現場を見られたからだろう。しかしながら愛想笑いや軽く会釈だけでもするかと思ったが、「ゆりか! 帰るよ!」と言って、少女の手を引っ張ってそそくさといなくなってしまった。

 若干の淋しさを感じたが、『ユリカ』は一児の母だ。娘の前で、ホステスと客の関係を見せることははばかられたのだろう。あくまで娘が優先で、これは教育でありしつけなのだ。そう理解した。


 奇遇にも、青山の娘に会うことができた。そして父親と同じ病気である可能性が高い。いずれ臓器移植を受けることになるのだろうか。

 少女は病気と孤独と闘っているはずだ。もし自分が刑務官であることを『ユリカ』に知られていたら、伝えてやりたい。「お父さんに会わせてあげて下さい」と。もっとも、獄衣を身に纏っている姿を見せたくないという親も多いのだが。


 気付くと、待ち合わせの約束の時間をとうに過ぎていた。慌てて駅前のロータリーに行くとスマートフォンを弄っている黒羽が待っていた。しかし意に介した様子はない。この男も鷹揚おうような性格だ。

「すまんすまん」

「全然いいさ。こっちこそいきなり呼んですまんな」

 男の友人の間の粗相はこの一往復のキャッチボールで終わる。しかし男女のデートの待ち合わせとなるとどうなのだろう。そうはいかなさそうだな、と女性遍歴に著しく乏しいくせに、鮎京は先入観でそう感じた。

「ところでどうした? いきなり呼んで」

「ああ。川越が死体で見つかったろう。おかげでしばらく恭歌は泊まり込みだな。暇になった」

「御愁傷様」

 さして治安の悪くない地方都市で惨殺死体が見つかれば、それこそ刑事一課は大騒ぎだろう。しばらく働き詰めになること請け合いである。

「さあ、寂しい男同士しみじみ語らい合いましょうか」

 恋人のいない鮎京は、そう言う黒羽の発言を嫌味に感じないことはないが、意に介さないことにした。

「俺と話したら、事件の話になるぞ」

「別に良いさ」

 黒羽と鮎京は適当な居酒屋のれんをくぐった。月曜日なので店内は比較的落ち着いている。


 やはり、仕事後のビールは格別に美味だ。乾杯して一口目を飲んだあと、渇いた喉を潤す爽快な感覚に思わず低い声でうなってしまう。オヤジ化したな、と少し自虐的になる。

 話題は、互いの業務の話しから麓恭歌の他言無用の秘密まで、言わば『男子トーク』もとい『オヤジトーク』に花を咲かす。黒羽も酔っているようだ。

 しかし、次第に事件の話にもなる。麓はやはり市原紗浦殺害事件の情報収集に孤軍奮闘していたようだ。

 分かったことは、『ユリカ』こと青山留利は複雑な家庭で育っていることだ。留利の母親は、留利を生んだ後まもなく離婚し、留利を引き取った。すぐに別の男と再婚し、新しい夫との間に紗浦を授かる。これで留利と紗浦は異父姉妹ということになる。ところが、留利は継父と実母から虐待を受けることになる。ありがちな話とはいえ心が痛んだ。

 その後、児童相談所に虐待の事実が判明し、留利は児童養護施設に保護された。異父姉妹は離ればなれになった。

 しばらく養護施設で育った留利に転機が訪れる。里親として迎え入れたいという親がいたそうだ。

「里親? ということは養子縁組か?」鮎京は尋ねる。

「いや、里親委託と養子縁組は違う。子供を引き取るという意味では一緒だけど、親権の有無という決定的な違いがある」と答える黒羽は、酒で顔を少し赤らめながらも眼差しは真剣だった。

「あ、親権が、虐待していた両親にあるということか」

「そーゆーことだよ」

 里親委託ということは、虐待していた両親が親権を放棄しなかったということだ。養子縁組となるためには実親の同意がいる。すなわち、親権を手放させることを承諾させないといけない。しかし、育てられないけど手放したくないという身勝手な理由が養子縁組の妨げの一因となっており、子供を中心とした対応がなかなかできていない、ということを黒羽は教えてくれた。

「クロちゃん、詳しいな」

「一応警察だからな。児童虐待って警察も関与することがあるから、知ってるだけだよ」と謙遜気味に答える。

 つまり、戸籍上、青山留利の旧姓は市原いちはら留利るりということになろう。

 児童虐待というキーワードで思い出した。先ほど青山夫妻の娘と思しき少女に遇ったのだ。待ち合わせに遅刻した原因でもある。

 その一連のやり取りについて鮎京は黒羽に説明した。少女が青山と同じ病に冒されているだろうことも。さすがに、その偶然にはかなり驚いている様子だった。

 准看護師の資格を持つ鮎京は、多少の医学的知識はある。もちろん城野のそれと比べれば月鼈雲泥げつべつうんでいの差だが、それでも黒羽よりは詳しかろう。鮎京の医学的な見解には、相槌を打つしかない様子だったが、一点説明しきれない謎を提示してきた。

「ところで、もしその女の子が臓器移植を受けるとしたら、誰から臓器もらうんだろうな。何か調べるところ、複雑な家庭事情の割に身内が少ない」

「そりゃ、お母さんだろう」お母さんというのは『ユリカ』を指す。あんな美しくて若々しい女性にお母さんとは、違和感がある。年齢は鮎京と同じなのに。

「お母ちゃん? だって、旦那に腎移植したんだっけ」

「いや、城野先生がためらい傷っぽかったから、してないだろうって言ってたじゃん」

 城野の水着イベントの日に確認した話によると、術後の傷にしては綺麗すぎるということだ。

「それなら、なおさら不思議だな。じゃああのためらい傷は何だ。術後のアピールか? 一体何のために? いざと言うときに娘に臓器提供するため?」

「ためらい傷は分からないけど、最終的には女の子は最終的にお母さんからもらうんだろ?」

「じゃあ、旦那は誰から臓器もらったんだ?」

「それは……」

 言わずもがな、腎臓は二つあるので一つは他人に提供できる。しかしもう一つは自分が生きていくために必要である。『ユリカ』が、夫と娘の二人に腎臓を提供することはできない。

 完全なる当てずっぽうだが、一つの可能性として回答した。

「実は献腎けんじん移植だったんよ」

「何それ?」

「脳死や心臓死の患者からの腎臓提供だよ。あ、青山の場合は膵臓もだけど。とにかく、奥さんから臓器をもらったわけではなかった」

「じゃあ、何で嫁さんのお腹に、ためらい傷みたいなのがあったんだ?」

「それは……、もう、たまたま転んだか引っ掻いたかしてできた傷としか説明できないだろう」

「うーむ……」

 黒羽は、いまいち納得していないような反応を示している。それはそうだ。『たまたま』とか『偶然』とかいうのは何でも説明がついてしまう。『たまたま』と『偶然』を除外した場合の説明がつかないのだ。突き詰めて考えていくと謎が残る。

 確かに、あのためらい傷は何なのだろう。あれは偶然引っ掻いてできてしまった傷で、実は夫は献腎移植で、あの女の子は将来的に母である『ユリカ』から臓器提供を受ける予定で──、というシナリオを描いていた。それは、青山家をどこかで擁護したいと思っている鮎京の気持ちの表れでもあった。

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