21 聴取
翌日の朝、鮎京はいつもどおり出勤する。
毎日願箋は多い。娑婆と異なり、この閉鎖コミュニティーでは一部、例えば義歯製作費などを除き医療費はゼロなのだ。しかも一日八時間労働が保証される刑務作業時間。『ブラック企業』という言葉が昨今よく話題になる中で、刑務所は対照的に『ホワイト』な環境なのだ。睡眠時間もしっかり取れるし、食事も炊事夫がいるので提供される。舎房は家賃が発生しない。慣れてしまえば、ある意味娑婆よりも環境はいい。それは如何なものかと物議を醸しそうだが、それが現実なのだ。
たくさんある願箋から選別する。なるべく緊急性の高そうなものを優先的に診てもらうようにする。今日は称呼番号463のあの男の願箋がある。やたらと鮎京に馴れ馴れしく話してくる丸森桑麻だ。昨夕、刑務作業中に怪我をしたらしい。
怪我の様子から緊急性はなさそうだが、他の受刑者の願箋もさして緊急性は高くなさそうだ。タダで受診できて、通院も徒歩圏内、さらに診察時間は刑務作業をサボれるわけだから、仮病を使う者だっている。自分が受刑者でも同じことを考えそうなくらいなシステムだ。だから、そういう詐病っぽいのはなるべく後回しに、受診者リストを毎日組み立てるのが鮎京の仕事だ。
結局午前中の適当な時間に丸森を入れることにした。
しかし、その日は珍しく城野の診察が長引いた。と言うのも、途中、電子カルテ用のパソコンの調子が悪く、診察ができない時間が生じた。再起動をして事なきを得たが、少し時間は押してしまっている。といっても、ここはその日診察予定の患者を必ず診ないといけないわけではない。緊急性のない受刑者は後日でも良い。そこは矯正医官と刑務官の裁量にある程度委ねられる。
結局、丸森は午前の最後の患者となった。見ると左手を怪我したらしい。やはり大した傷ではない。娑婆にいたら受診しようと思わない程度だろう。
消毒だけして午前の最後の処置を終えた城野は適当にカルテを書いてそそくさと医務室を去ると、案の定丸森はすぐには部屋を出ずに喋りかけてきた。
「オヤジさんは結婚とかしてるんすか?」
なめられたものだな、と思いながらも、「独身だ」と、答えてしまう。こんな風に正直に答えるからなめられるのだろうが、と自覚はしているが、まあいい。後片付けをしながら適当に受け流すことにする。
「そうっすか。俺、こー見えて昔はモテたんですよ」
何、自慢していやがる、と心の中で
鮎京が黙っていると、勝手に丸森は喋り続ける。
「実はこれ偶然なんすけど、俺の実家ここからそんなに遠くないんっすよ。浜松に二十代半ばくらいまでいて、そのあと上京して働いてましたけど、実はホストなんかしたりして……」
「ホスト!?」思わず大声を出してしまった。今は肌も荒れて浅黒くなり、歯並びも悪く全体的に汚ない。それでも昔はまともな風体だったのだろうか。
「そうなんすよ。大したもんでしょ? こっそり客と付き合っては女に貢がせたりしてましたけど、あっ、いけね、これは余計な情報だ」
何だ、最低な野郎ではないか。まあ、ここはそういう
丸森は求めてもいない情報を一方的に話し続ける。
「しかもね、意外といい女が多くてね。特に上京する直前に付き合ってた女は、良かったなぁ」
そろそろ
「名前も覚えてる。サホちゃん。市原紗浦ちゃんって言いましてね……」
何と言った。驚きを禁じ得ない。
「ま、待て。もう一回、言ってくれ!」
思わず、鮎京は後片付けの手を止めて、丸森の両肩に自分の両手を突くように勢い良く置いて迫った。当然ながら丸森は突然の反応に驚いている。
「な、何っすか!? オヤジさん!?」
「その女の名前だよ! もう一回言ってくれるか!?」
「え? あ? い、市原紗浦ですけど。それがどうしたんですか?」
「市原紗浦は殺されてるんだよ?」
「えええ!? 嘘だぁ」丸森は驚いている。
「丸森、お前何か知ってるか?」
「いやいや、俺は
「最後に会ったのはいつなんだ?」
「最後に会ったのは、二、三年くらい前だったかな。でもたまたま、俺が実家に帰ってきたときにばったり
丸森は
「そ、そうか。悪かった」
過去に報道はされているものの、わざわざ、その犯人とされているのが、丸森が崇拝している青山という受刑者であることは言わない。刑務所生活にプラスになるとも思えない余計な情報を与える真似はしない。
「ちなみにばったり二、三年前に遇ったとき、その女はどうだった?」
「どうって……。そんなに変わってなかったっすよ。金あげるって言ったら、やらせてくれましたけど。ちょうどそんとき安いソープでおみやげもらっちゃって治療中だったから、溜まってたんです。ひょっとしてうつしちゃったかもしれないっすね」
やるとか、やらないとか、こいつの頭はそんなことしか考えていないのか、本当に下品な男だ、こんな奴がいるから病気が蔓延するのだとひどく軽蔑したが、この男は強制性交等罪でここにいることを思い出して、鮎京は勝手に納得した。ちなみに丸森の言っている比喩表現は性病のことだろう。この男には梅毒の既往がある。
「ところで、何で殺されたんすか?」丸森はさすがに気になっていたのか、鮎京に尋ねてきた。
「いや、知らん」
本当は動機となり得る情報はキャッチして推測はついているが、それも敢えて言わない。逆に丸森に聞こう。
「その女、どんな人だったんだ?」
「あー。顔はすごい
「働いてはなかったのか?」
「俺っすか? だからホストして働いてましたよ。上京してからはホストも上手くいかず、結局土建屋とか工場とかフリーターとか……。あんま長続きしませんでしたが」
「お前じゃない! そんときの彼女だよ!」丸森の的外れな回答に、鮎京は少し苛つきながら聞いた。
「お、女のほうは、風俗っすよ。付き合った当初はキャバクラやってたらしいですけど、その店が潰れてからは、ソープで働いてましたね。あ、でも、女はもともと金遣いも荒かったし、俺もガンガン貢がせてたんで、貯金はゼロでしたね。どうやら俺と付き合った後もホスト通い癖が直らんかったらしく、借金に首が回らなくてソープはじめて、しかもチップで
丸森は
「その彼女の家族関係はどうだったんだ?」
「家族関係? 確か、両親は離婚していて、母親と二人暮らしだったかな。母親から虐待されてたらしいっすね。ありがちな話っすけど」
何となく想像できる。一時的ではあるが丸森のような男に依存してしまったのは、父親からも母親からも愛情を注がれなかったためかもしれない。少しでも優しくされると、それが女性を蔑視ししこたま貢がせるような
「兄弟関係は?」
「兄弟ですか。確か、生き別れた種違いの姉貴がいるって言ってましたね。生き別れって言っても高校で再会したらしいっすけど、その姉貴はどうやら金持ちの家に引き取られたって言って、かなり羨ましいって言うか嫉妬してましたね」
「姉貴の名前は分かるか?」
「ルリちゃんですね。これがまた、紗浦に似てすんげー美人で、しかも細いのに巨乳でしてね。そっちに乗り換えようかと思ってたのは内緒っすけどね」
来た。青山留利のことで間違いなかろう。鮎京は心の中で小さくガッツポーズをする。
「姉貴は仕事何やってる人だったんだ」
「それがですね、ルリちゃんもまた若いときからキャバクラで働いてたらしいっすね。紗浦とは違う店っすね。今も続いてんのかな。地元の友達から紗浦に似た女を見たって聞いたから、それがルリちゃんかもしれませんね。ちなみにルリちゃん、店の売り上げナンバーワンだったって噂ですけど、あれだけ可愛けりゃ当然だよなぁ」
「なるほどね」
丸森は当時を思い出したのかニヤニヤし、
もし、本当にその『ルリちゃん』が『ユリカ』なら、かなり前からキャバクラで働いていたということになる。
「ってか、オヤジさん、何でそんな詳しく、俺の元カノについて聞いてるんですか?」
「え? あ、いや……」不意に聞かれて、今度は鮎京が狼狽した。
「天下の刑務官様もここだと出会いがないから、俺の話聞いて参考に、ってことですか?」
「あ、ま、まぁそういうことだ。そういうことにしといてくれ」
思わずぶん殴りたくなるほどに見当違いな発言だが、弁明が面倒なので適当にお茶を濁しておく。
「安心して下さい、誰にも言いませんから」と、丸森は言って、診察用の椅子から立ち上がった。いかにも口の軽そうな丸森の発言は、まったく信用ならないが、この際情報をいろいろ聞き出せたので善しとするか。
「あ、そうそう。ルリちゃんの店の名前ですけど、『ゴールデンベリル』っていうらしいっすよ。ちなみに紗浦が働いてたキャバクラは『ラズライト』なので間違えないで下さいね。あ、でも閉店してるか。オヤジさんも興味あったら行ってみて下さい。すごい美人がいたらルリちゃんだと思うんで、丸森桑麻を知ってるか聞いてみて下さいよ」
医務室の去り際に、丸森はへらへら笑いながら出て行こうとする。丸森のことはまるで興味ないが、気になるのは新しいキーワード『ゴールデンベリル』だ。
昼休みになったので、すぐにスマートフォンで調べる。なるほど『Golden Beryl』とは宝石の一種で、ヘリオドールとも呼ばれる黄色い
浜松市のキャバクラの店名としての『ゴールデンベリル』である。それがヒットするように検索をかけてみるが、うまくヒットしない。そんな名前の店は存在しないようだ。しかし、とある市内の風俗情報が書かれていると思しき掲示板には、情報が載っていた。それによると、かつて『
七年も前ということは、丸森の情報が正しいと仮定すれば、かなり前からこの職業に就いていたことになる。かなりの古株であろう。
今、推定『ユリカ』は二十八歳なので、七年以上ということは最低でも二十一歳から働いていたということになる。このような店は労働基準法の年少者労働基準規則によって十八歳にならないと働いてはいけないそうだ。ひょっとしたら十八歳になって、すぐこの業界に足を踏み入れていたかもしれない。そして、類稀な美貌を生かして、トップの座に君臨し続けた。
ということは、青山由栄と知り合ったときには、すでにキャバ嬢だったのだろうか。結婚した時もキャバ嬢だったのだろうか。そして、出産した時もキャバ嬢として働いているときに産休を取ったのだろうか。
もちろん、『Golden Beryl』に在籍していたが、一旦辞めて、出産後に新しい店舗『Lapis Lazuli』に復帰したのかもしれない。
いろいろ可能性を考えるときりがない。しかも、この差異が、事件の全容解明に関係するかも分からない。
それと、もう一つ気になるのは、『ラズライト』という紗浦が働いていたという店。こちらも案の定検索してもうまくヒットしない。どうやら潰れたというのは間違いなさそうだ。某掲示板によると『Golden Beryl』とは同じ浜松駅界隈ではあるものの少し離れた場所にあったようだ。しかも七年も前までその店はあったという。『
「アユキョー、いいか?」
スマートフォンの画面に市内のキャバクラについての情報を表示させているときに不意に声をかけられて、ドキッとした。この声は城野だ。
冷やかされるかと思ったが、当人は神妙な顔つきで、「青山のことだ」と言う。
無言で頷いて、また部屋を隣の医師控え室兼更衣室に移す。最近、事件のことで何かあるとすぐ城野と医師控え室兼更衣室に場所を移すので、変な噂が立っているかもしれない。
城野はソファーに足を広げ、両膝に自分の各々の肘を乗せる格好で座した。
「率直に言おう。俺の読みが外れた」
自信家の城野にしては珍しく、自らの敗北を認めるような発言である。何があったのか。鮎京があれこれ考える間もなく、城野は続けた。
「ドナーはやはり青山の嫁、本名、青山留利だ。どのカルテを見てもそう書いてあった」
そのように言う城野は項垂れて顔を下に向けていたので、表情こそ見えなかったが、その姿から歯を
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