15 蠱惑

 深酒したにもかかわらず、鮎京は、城野と黒羽との会話によって大きな収穫があったせいか、頭の回転は自分でも驚くほどスムーズであった。ただ、多少頭は痛い。それでもその程度で済んでいるのは、城野の勧めに従い輸液代わりに烏龍茶をたっぷり飲ませてもらったからだ。

 おかげさまで二日酔いも軽微だ。城野らの対応と自分のしたたかな肝機能に感謝する。しかも翌朝は城野の車で出勤だ。一緒に仕事をすることがなければ水と油のような鮎京と城野だが、まさか二十四時間以上連続してずっと同じ空間にいることになるなど、考えもしなかった。それには、鮎京が店で酔った上寝てしまうという不測の事態ゆえであるのだが。一つ言えるのは、この水と油の親和性を高めてくれたのは、黒羽の影響も大きいということだ。麓には悪いが、この男に頼んで正解だった、とつくづく思っている。

 もちろん、同僚の刑務官には内緒にしている。城野は、フレックスタイム制よろしくいつも刑務官よりも遅れて出勤してくる。特に西条は意外そうな顔をしていたが、何か悟ったであろうか。

 今日の午後の診察が終わると、昨晩の青山に関する一連の身辺調査の続きが気になるのだろうか、片付けをしているときに話しかけてくる。

「今日のこの後良いか。青山のことだけどさ」

「先生。もう少しその件は小声でお願いします」

「あー、わりわりぃ」

 青山の調査を岡崎に咎められてから、診察室の中とはいえ青山の話をすることははばかられる。城野には、せめて小声で話すようにお願いしたのだが、失念していたのか、それとも何も考えていなかったのか、通常の声の大きさで話しかけてきたのだ。


 六時半に職務を終わらせると、鮎京は医師控え室兼更衣室に入った。そこで話し合う約束なのだ。ここは医師の控え室であり、刑務官は用事がない限りあまり立ち入らない。しかも控え室は、手前の背の高いロッカーに遮られて、扉を開けただけではよく見えない作りになっている。城野は、鮎京より先に仕事を終えることが多いので、先に控え室で待っていたのだ。

「青山のことでしたよね?」鮎京は敢えて小声で話す。用件は言わずもがななのだが、念のため刑務所内なので、小声で話し合う確認の意味も込めて、そのように切り出した。

「ああ、そうだ。単刀直入に話す」

 これは、もしやかなり核心に迫る見解を得たのだろうか。まったく人まかせだな、と鮎京は心の中で自嘲しつつ、城野の発言に期待した。

「六月十六日だ!」城野は突拍子もなく日付を言う。

「えっ?」鮎京は発言の意図が全く読めず、頓狂な返答をしてしまう。

「行くぞ。確かめるんだ」静かだが、城野の声には力がこもっていた。

「どこに? 何を?」

「何だ? アユキョー君、何も調べてないんか?」

「……すいません」久しぶりに城野に怒られて気がして、気落ちした。

「『Lapis Lazuli』に決まってんだろ」

「へ?」城野の発言に呆気にとられる。「六月十六日って何かあるんですか?」

「水着だ。イベントだよ」

「イベント? 水着って、まさか……?」

「そのままの意味だ」

 鮎京は、肩透かしを喰らったところではない。大幅に気勢がそがれた気がした。

「先生、何を言い出すと思ったら。しかも勤務中そんなこと調べてたんですか?」

 もちろん何か意図があるのだろうが、突っ込まざるを得ない。

「バカ言えよ。アユキョーのためだろう?」

 さすがに不本意だったのだろう。呼び捨てで呼ばれてしまった。城野は続ける。

「もちろん、理由があってのことだ。安心しろ。職場のパソコンからアクセスするわけにはいかないから、ちゃんと自分のスマホから調べている。そこでもう一度青山の嫁さんにアタックするんだ。いいな?」

「六月十六日は……」と言いながら、近くのカレンダーを見る。大抵予定のない鮎京だが、曜日くらいは確認しておきたい。その日は日曜日だ。そして予定はない。「空いてます」

「分かった。ちなみにクロちゃんに俺メールして、嫁さん指名の予約を確保してもらうよう頼んである」

 城野と黒羽は、鮎京の介抱を通じてか、そこまで非常な親密な間柄になったようだ。自分の失態が原因だけに、素直に喜べないが。

「あ、ありがとうございます」と取りあえず礼を言った後、確認のために聞いてみた。「今度は『ユリカ』を、先生が対応してくれるんですか?」ところが、城野の回答はやはり、時として鮎京の物差しでは測れないようなことを平然と言う。

「ん? もちろんアユキョー君だよ」

「いやいやいや、先生ご冗談を! 僕はやらかしてるんですよ! 昨日見ましたでしょう?」鮎京はさすがに待ったをかける。

「俺はまた昨日のを指名する。大丈夫。アユキョー君をフォローしてあげるから!」

 城野という男は、またナンバーワンホステスに城野が手のひらで転がされるのを見て笑いたいのか。しかも今度は水着イベントだなんて冗談ではない。妙齢の女性のそこまで露出の多い姿を、現実にほぼ見た記憶がない。

 いや、飲まなければ大丈夫だ。飲み潰れることさえなければ、理性を保つことはできる。城野の意図が読めなかったが、何かを目的としているはずだ。現に、鋭い推理を披露し続けている。この場合、自分をワトソン役と呼べるのかは分からなかったが、ただ従うことしか選択肢はない。


 次の日の午前診察後、城野の思惑を聞き出したかったが、こういうとき城野には何かとはぐらかされる。

「すべてのデータが出揃ったときに、俺の見解を話してやる」

 つまり、件の水着イベントがキーになっていると考えられる。そこで城野にとっての足りないパズルのピースが補われるのかもしれない。

 鮎京は鮎京で、丸森に会えば話しかけられるが、相変わらず「青山さんは仏様だ」といったようにたたえるだけで、事件の核心に迫るような情報は寄越してこない。彼に密偵を頼んで知るわけではないが、つい使えない奴だとしんちゅうでは毒づいてしまっている。


 仕事に慣れてきたせいもあって、あっという間に時間は流れる。気付いたら六月十四日だ。この日は金曜日なので、リマインドの意味で城野に確認した。

「明日っすよね?」

 黒羽は、恨めしいほどに強運の持ち主なのか、水着イベントにも関わらず、何と人気ナンバーワンホステスの予約を難なく勝ち取った。しかも城野のお目当ての嬢までも、同時に指名できたらしいのだ。六月十六日の十九時に。

 そこは自分に気を遣って、嘘でも良いから、城野先生のご指名の嬢は予約が取れなかった、などとごまかして欲しかった。何で正直に指名を取ってしまったのだろうか。恨まずにはいられない。

 しかし、そこは例によって城野がお金を払ってくれるらしく、文句は言えなかった。薄給ではないが裕福では決してない鮎京では、すぐに火の車になってしまうだろう。


 そして翌日。

 この間のキャバクラ以来の三人の再会だ。同じ時間、同じ場所での待ち合わせ。目的地も一緒だ。違うと言えば、五月よりもさらに日が長くなってまだ明るいことか。また日曜日で職場帰りではないので、城野はバスで来たようだ。なお、鮎京は遠州鉄道で来た。

「どうだ。心意気は?」鮎京に問う黒羽の発言は、半分茶化しているようにも聞こえる。

「どうもこうもないよ。前回の二の舞を演じないように気を付けるしかない」鮎京は敢えて素っ気なく答えた。

 店の場所などは記憶に新しい。前回ほどの緊張はないものの、それでもやはり心拍は速くなる。女性に対する免疫は相変わらず皆無と言っても差し支えない状況だ。


 そして、前回と同じ店のボーイに出迎えられる。

赤羽あかばね様三名様ですね。お待ちしておりました」

 おそらく、前回鮎京が酒に酔って自滅した事実を知っているだろうことが予想されるので、この上なく恥ずかしくてバツが悪い。


 前と同じ席に案内される。同じ偽名を用いて予約し、同じメンツで同じ店の同じ席に、同じ時間。すべてが前回と同じ状況は既視感デジャヴを通り越している。

 しかも同じホステスを指名。きっと、心の中では『また、あの人たち?』と思われているに違いない。

 そんな被害妄想の半分は『ユリカ』のお相手を城野が買って出てくれなかったことに起因するだろう。城野か、せめて黒羽にお相手を任せて、鮎京自身は横から観察しているのが理想なのだ。

 そんなことを言っても、ここまで来てしまったら仕方がない。しかもわざわざこの日を選んで来た城野なりの理由があると言うのだ。それを信じるしかない。

「ご指名ありがとうございます! 『ユリカ』です。先月も来て頂きましたね。今日は楽しく飲みましょうね」

 ネガティブな妄想で脳が支配されている最中に、不意打ちの如く『ユリカ』は登場した。五月に来店したときには、他の二人のホステスが先に席に着いた。てっきり今回も真打ちは最後に登場するつもりになっていたせいで、心の準備はできていなかった。しかも今回は前回よりも比べ物にならないほど露出が多い。正視できなかったが、無視するわけにもいかない。目のやり場に困窮する。しかし男の本能的には、鮮やかな瑠璃るり色の水着から覗かせる艶やかな胸元や細くくびれたウエストにどうしても視線が向かってしまう。

 再び挙措を失いそうになったのは言うまでもない。

「おいおい、アユちゃん! しっかりしろよ」

 黒羽が、悩殺されてどこか飛んでいきそうな鮎京の意識を呼び戻すかのように声をかけてくれた。そのおかげか、鮎京は何とかすんでのところでこらえることができた。そうだ。せっかく、城野と黒羽が貴重な時間を工面して付いてきてくれているのだ。そしておそらく金額面でも城野が──。

「す、すんません」やや情けない返事になってしまったが、この際どうでも良い。

「お兄さん、『アユちゃん』って呼ばれているんですね。身体つきとか結構たくましいなって思ったけど、可愛らしい名前なんですね」

 前回は会話らしい会話ができなかったためか、ようやくと言わんばかりに、『ユリカ』は話題を切り出した。

「あ、はい。そういう苗字なんです」

 女性との会話は慣れていないが、黙っていては、この婀娜あだっぽい姿態を見ることに全神経が傾注されてしまい、却って辛い。何か喋っていて意識を分散させた方が幾分楽かもしれないということに気付く。

「え? 本名なんですか? すごい! 可愛い! お魚の『あゆ』ですか?」

「そ、そうです!」と鮎京が言うと、横から城野が「こいつ、アユキョーって言うんですよ! 魚の『鮎』に京都の『京』! 変わってるっしょ?」と言う。

「鮎京!? はじめて出会った! 可愛い! いいなぁ」と『ユリカ』は鈴を転がすように笑う。

 簡単に個人情報をばらさないでくれ、という言葉が喉まで出かかったが飲み込んだ。確かに鮎京という苗字は、親戚以外に出会ったことがないが、城野や黒羽も珍しいではないか。一方で『ユリカ』の本名は青山留利であることを麓恭歌からの情報で知っている。

「ユ、『ユリカ』さんの苗字は、あぉ──」と言いかけたところで気付く。黒羽や城野も、失言に気付いたのか、視線が鋭くなったことを察した。当たり前だ。いきなり打ち明けられていない本名を当ててしまっては、いくら何でも怪しまれる。鮎京は、財布を明けて、以前もらった名刺を取り出すことに成功した。『月浜ユリカ』と書かれていた。

「あ、つ、『月浜つきはまユリカ』さんと、おっしゃるんですね」と鮎京は慌てて取り繕う。名前を読み上げてみて、どこかで聞いたことあるような、と思ったが、鮎京は思い出せなかった。ただの思い過ごしかもしれない。

「ええ、でもこれは源氏名ですから、本名ではないです。自由に付けられるんですよ」

 鮎京はチャンスだと思った。この流れから本名を聞いてみようかと思ったが、その瞬間、「お客さんのこと、『アユちゃん』って呼んでも良いですか?」と少し甘えるような上目遣いで聞いてくる。さらに「だって、たくましそうに見えて、顔も結構イケメンなのに、女性慣れしてないところが可愛くて。あ、気分、害しちゃったかな?」

 心なしか、先ほどよりも物理的な距離が近くなったような気がする。鮎京に少し体重を預けるように『ユリカ』が身体を寄せてきているようだ。鮎京の左の上腕に、ビキニ越しではあるがほのかに体温を感じる。つまり、たわわな胸部が当たっていることを示す。この状況には殊更ことさら不慣れである。

 援護射撃が欲しい、と思ったが、気付くと城野にも黒羽にもホステスが付いていた。「ア、ア、『アユちゃん』でも呼び捨てでも良いっす! ユ、ユ、『ユリカ』さんは本名は、なな何ておっしゃるんです?」

 どもっている上に、ちょっとしか話していない人気キャバ嬢の本名を尋ねる不始末に、鮎京は我ながら愕然がくぜんとした。職業柄、そういうのは秘匿したいに決まっている。特に、目前の女性は凶悪犯罪の犯人の夫人なのだ。しかし、『ユリカ』は嫣然えんぜんとして微笑みながら鮎京に耳打ちする。『ユリカ』の吐息に心臓が高鳴りながらも、その答えが意外で驚く。

「ユキカです。幸せな花で『ゆき』」

ゆき? 変わった名前ですね」と、鮎京は冷静を装っているが、内心不思議でたまらない。『青山留利』ではないのか。あ、でも確か、そんな情報を麓から聞いたような気がする。あのときは気にも留めなかったが……。

「アユちゃん。本名なんて聞いても普通女の子は教えてくれないよ」と黒羽は横から口を挟む。

「そうだよ〜。いきなり名前聞くなんてねぇ、デリカシーに欠けるから注意しなよ。アタシだって『ユリカ』さんの本名知らないのに」と同調するように指摘するのは、黒羽に付いていたホステスだ。この女性は鮮やかなオレンジ色の水着で、いかにも明朗闊達めいろうかったつそうに見える。

 鮎京は、慣れない場で思考が錯綜していた。

 黒羽は本名を聞いたところで教えるわけがない、と言った。『ユリカ』が教えてくれた本名は、『留利るり』ではない。『幸花』というあまりお目にかからない名前を敢えて使用している。源氏名の『ユリカ』に近いが、似て非なる『ユカ』である。いずれにせよ、異なる名前だから偽の本名か。それにしては、ありふれた名前ではない。本名でないのならなぜこの名前をチョイスしたのだろう。

 そして、黒羽はさりげなくホステスの女性に、鮎京のことをキャバクラ慣れしていないことを伝えたのかもしれない。何か粗相があれば指摘するように、と。余計なお世話と思いたいが、残念ながら反駁はんばくできるほどの経験値は鮎京にはない。ここは素直に、鮎京は下手なきょうを捨てなければならないのだ。

「どうしたの? 難しい顔して?」

 急に『ユリカ』は鮎京を覗き込む。その上目遣いと嫌でも見える妖艶な姿態に、思考が妨げられ掻き乱される。つくづく鮎京は考え事をすることによって、理性を保っていたのかもしれない、と思う。

「あ、いえ……」ぎこちない応答が自分でも情けない。

「この前もかなり緊張していたみたいだから、こっちは心配になっちゃうよ。でもまた私を選んでくれて嬉しい。お酒飲む?」

 屈託のない笑みを浮かべて、グラスを手に取ろうとするが、

「あ、ぜ、前回失敗しちゃったんで、きょ、今日は、お酒は結構です」と答えた。

 このような女性の気遣いに鮎京は縁遠い。ましてや相手は頭に超がつく美女だ。普通の女性でも気持ちが揺れるのに、これは激烈である。お相手が既婚者で子持ちであることを知らなければ、傾倒してしまうことだろう。キャバクラに通い詰める男性の心理が分かったような気がする。

 お酒を飲まない、相手を正視しない、なるべく余計な考え事をする。仕事上の付き合いの飲み会なら、間違いなく疎ましく思われる態度を貫き通して、何とかぎりぎりの理性を保った。こんな状態であるから会話するのもやっとである。当然ながら事件について核心に迫るような質問などできやしない。

 一方の城野は、前回同様、指名した『カレン』に夢中になって話に花を咲かせている。この男は、『ユリカ』と鮎京のことをすっかり忘れてしまってはいないか。そう感じる他ないくらい、鮎京は取り残されている気がして居づらくなった。

 しばらくして、ボーイが登場する。

「まもなくお時間になりますが、延長はどうなさいますか?」

「どうします? 僕的には延長はなしがいいんですが……」と小声で鮎京は助けを求めるような心境で城野と黒羽に同意を求めた。

「え!? いいんか? アユキョー」という城野は目が笑っている。

 そう言われても、正直これ以上『ユリカ』からは事件に関する情報は見込めそうにない。いや、正確には、それを引き出す会話のテクニックなど持ち合わせていなかった。著しく場慣れしていないのだ。会話の主導権は終始握られていたが、鮎京にとっては、こんな妖艶な女性を前にしてまだ挙措を失わなかっただけマシだろうと自己評価する。

 それにしても、わざわざこの水着イベントの日を指定して日程を組んだ城野を恨むしかない。きっと大きな意図があったと期待して、おそらく隠れた真相に近付けるような鋭い質問をぶつけるかと思っていたが、とんだ見込み違いであった。城野は、自分の指名した『カレン』の黄色いビキニ姿に鼻の下を伸ばしてうつつを抜かしていたではないか。心の中では盛大に城野に対して毒づいているが、今はまだ店内なので我慢する。鮎京や黒羽の分まで、おそらくクレジットカード払いしてくれた恩恵も度外視してしまうほど、グラグラと感情が煮えたぎっていた。店を出たら力の限り文句を垂れてやる。

「アユちゃんが帰っちゃうなんて、私、淋しいな。これでも結構、アユちゃんのことタイプだったのに」

 頭の中が城野に対する不平不満で思い切り占拠されているときに、『ユリカ』は鮎京にとっててつもなく刺激的な言葉を造作なくさらりと言ってのける。恨みつらみで支配されて膨らんだ心が一気にガス抜きされて戦意喪失し、すっかり調子を狂わされる。女性の言葉の魔力とはすごいなと思うのは鮎京だろうか。いやいや、これは夜の蝶にとってのリップサービスでありビジネストークなのだ。甘い言葉一つで一瞬でも恋に落ちそうになってしまった自分を、思い切り責めたくなる。邪念を振り払うように頭を掻きながらも、気持ちを整理する余裕もなかったので、「ありがとうございます。またお願いします」と、傍から見ると至って事務的な返答をするのが精一杯だ。

 店の外まで見送ってくれるホステスたちに別れを告げて店を離れる。その頃には余韻が少しずつなくなり、城野に物申したい感情が復活していた。

「ちょっと、城野先生、いいっすか!?」大声ではないものの自分でも珍しいくらいの怒り口調で鮎京は迫る。

「まあ待て。ゆっくり話そうじゃないか」と意に介しさない様子で城野は言う。

「ここで立ち話ですか?」と黒羽。ここは浜松駅前だ。時間はまだ夜八時過ぎで賑わっている。

「どっか飲み屋に行くか。浜松餃子ギョーザの上手い店知ってっぞ!」と城野は言いながら、半ば強引に鮎京と黒羽を引っ張っていった。

 そのとき一瞬だが、見たことある男の姿を確認した。

 所長のおさかだ。いち看守の鮎京が、階級で言うと矯正監あるいは矯正長クラスの所長に関わることは少ない。しかし、あの特徴的な大きな顔と浅黒い肌と威厳のある目付きとオールバックの髪型は、間違いなく遠州刑務所長だ。

 一人でうろついている。今から飲みに行くのか、それとも……。その足取りは極彩色のネオン街へ向かっているようだ。

 城野に声をかけようかと思ったが、よほど餃子を食べたいのか城野らの足取りは早く、気付けば二十メートルほど離されていた。鮎京は急いで城野と黒羽のあとを追った。

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