16 変容

 翌日は月曜日のはずだが店内は混雑していた。それでも運良く空席があり、待たずして中へ案内された。餃子を鉄板で焼く音、食器やグラスどうしが擦れ合う金属音。がやがやした店内、高い人口密度。しかし、鮎京はそちらの方が落ち着く。

 着席するや否や生ビール中ジョッキを三つ注文すると、さっそくと言わんばかり鮎京は本題を切り出そうとした。

「城野先生、今日はごちそうさまでした! それはそれとして、今日わざわざイベントの日に決行して、『ユリカ』さんに何もしなかったんですか!?」

「アユキョーもせっかちだなぁ」城野はへらへら笑っている。

「アユちゃん、まぁ時間はあるんだ。乾杯してからでも遅くはないんじゃないか? 特に酒我慢してたんだから喉乾いてるだろ」黒羽もなかばなだめるような口調で、口を挟む。黒羽は城野と会うのは二回目のはずだが、ずっと一緒にいる鮎京よりも城野と馬が合っているような気がする。城野と仲良くなっていることに特に自負はないが、それでも扱いにくい城野とここまで短時間で波長を合わせられるのは、羨望を通り越していささしゃくである。

 ほどなくして凍ったジョッキに容れられた冷えたビールがテーブルに届けられた。

「おつかれさまでーす」と黒羽は笑顔で乾杯する。対照的に鮎京は笑顔では乾杯する気分にはなれなかったが、取りあえずさかずきを交わした。

「で、先せ──」とさっそく本題に入ろうとすると、先手を打とうかのように城野が切り出した。

「今日はな、アユキョー君。何でイベントの日を選んで来たかという狙いを考えてはみたか?」

「いや、全然分かりませんよ。水着姿でまごつく僕を見て笑うためですか?」

「バカ野郎。何で、俺が金払って女の子のいる店に来て、アユキョーを見なきゃならんのだ。ただでさえ嫌々ながら会ってんのに」

 そんなに職場で俺と会うのが嫌なのか、この人は、と鮎京はまたもや心の中で毒づいた。しかし、確かにお気に入りのホステスを指名してまで、鮎京を観察するほど城野は物好きではなかろう。

「じゃあ、何ですか!?」

「傷だよ」

「傷?」落ち着いた口調で城野がヒントを言うも、鮎京は即座に理解できなかった。

「呆れるほど頭の回転が鈍いな、アユキョーは」と、実際に呆れ顔で城野は罵倒してきた。

「手術のあとですか?」代わりに答えたのは黒羽だ。

「クロちゃん、正解!」

 言われてみても鮎京はなおも意図が分からなかった。

「だから水着だったんですね!」

「そうだ。腹部の手術痕だよ」

 そのやり取りを聞いてようやく分かった。城野は、『ユリカ』がドナーか否かを探っていたのた。青山は夫人から臓器の提供を受けていたかどうか、ということだ。非常に単純明快な解にあっにとられた。傷と言えばそれしかない。キャバクラに行って思考回路がショートしてしまったか。

「わざわざそれを確認しにいったようなもんだよ。分かったかい? アユキョー君」

 見下したような言い様に嫌気が差すが反論できない。城野が言うように、頭の回転の鈍さに鮎京自身情けなく思っていた。

「それで、どうだったんです?」鮎京は先ほどよりも冷静な態度で聞いた。

「結論から言うとよく分からん。謎が深まった」

「は?」意外というよりも、非常に期待はずれな回答で愕然とする。あれだけ気を張って、自分なりに神経をすり減らした代償がこんなものだったとは。「先生、しっかりしてくださいよ」思わず鮎京は城野に詰め寄った。

「まぁ、俺の考察を説明してやる。いいか?」

「ええ、お願いします」謎が深まったと言われ、若干聞く気が削がれたが、取りあえず聞いてみることにする。一体どんな申し開きだろうか。

 やや神妙な顔つきで城野は語る。

「まず、青山は夫人から臓器提供を受けていない」

「それじゃあ、別の誰かからってことですか?」鮎京は当たり前な言葉で返した。

「──はずだ」

「??」鮎京の頭の中は疑問符でいっぱいになる。黒羽も怪訝そうな表情だ。いつも断定的な発言をする城野としては珍しい。

「いや、実は言うと腹部に傷はあった」

「傷はあった?」頓狂な声で鮎京は反復する。ますます訳が分からなくなる。ただ、城野自身も表情はが渋い。鮎京はいちばん近くで『ユリカ』の姿態を見ていたはずだが、どうだったか。少なくとも目立つようなものはなかったと思う。非常に恥ずかしながら鮎京は『ユリカ』の吸い込まれるがごとく麗しき瞳とFカップという噂の豊満な胸部に目がいってしまって気が付かなかった。豊満だっただけにくびれたウエストが見えなかったとも弁明できるかもしれないが、まあ、揶揄やゆされること請け合いないなので、敢えて言わないことにする。

「どういうことです?」と、黒羽も疑問に思っているようだ。

「傷はあったんだけど、非常に綺麗だった。いくら腕の良さで名声を得ている川越でも、あんなに綺麗な傷にはならない」

「じゃあ、手術してないっていうことですか?」鮎京は反射的に問うた。

「手術とは無関係な傷と言われれば説明はつくかもしれない。ただ、傷の形は膵腎同時移植と言われて説明がつくラインだ。膵腎同時移植は、以前は大きく開腹していたけど、今はHALSハルス、つまり用手補助下腹腔鏡手術という手法によって、身体の真ん中、肋骨の下あたりから7センチくらい創で済むらしい。これだけの傷で左側の腎臓と膵体すいたい尾部びぶを摘出するので、目立ちにくくなっているのは間違いないが、それでも綺麗すぎる」

 城野は、さすがに専門外の分野のため文献で得た知識なのだろうか。それでも説明は上手い。

「じゃあ、お腹を切って、でも手術ができないと思って閉じたとか。そういうのをドラマで観たことあります」今度は黒羽が質問する。

「試験的開腹術だろ? それは、診断を下すために行うことはあるが、病人ではない健常者にやるこたぁねぇ。しかも試験的開腹術をしても、開腹は開腹だから傷はしっかり残る。今回の傷は、そんなはっきりした傷じゃあなかった。何と言うか、ちょこっとせつして縫い合わせただけのような、ためらい傷みたいな傷だ。説明がつかん。かと言って、転んだり引っ掻いたりして簡単に付くような場所じゃねえ。だってここだぞ?」と言って、城野は自らの肋骨の下あたりを指で示して縦になぞった。

 確かに謎だ。一同は黙っている。確かに説明がつかない。しばらくして、再び城野が口を開いた。

「もし、何らかの意図がある場合、つまりだ、青山の臓器提供と無関係ではない場合、何でそんなことをしたのか? ドナーは誰なのか……? 結構この事件、かなり臭う」

 鮎京は唾をごくりと飲んだ。城野の言わんとすることが見えてきた。

「この事件には、警察が見過ごしている重大な事実がある……、と」鮎京は言った。

「お、俺は、さすがに現役警察官を前にそれは言えないわぁ!」と、城野は頭を掻いているが、つまり同じことを考えていると言っているようなものである。

「恭歌のやつ、大丈夫かな……」黒羽は、いちばんの所轄に配属している恋人を心配した。

 そう言えば、と言わんばかりにあの事実を情報共有せねばと気付く。

「あ、さっき、所長いましたよね? 城野先生」

「所長? あのおさか法務のりちかか!?」

「そうです」

 この反応からすると、城野は気付いていない様子だ。

「店内でか? 一人か?」城野は矢継ぎ早に聞いてくる。

「店内じゃないです。さっき店を出てここまで来るまでの間、僕らがさっきいた方向に歩いていきました」

「ビンゴだな」

「ビンゴ?」

「青山の嫁さんのところに行くに決まってらぁ」

「えっ? 決定ですか!?」

 城野はしばしば突拍子もなく断定する。それなりの根拠があることは多いが、これはいくら何でもやり過ぎかと……。

「だってな。推定五十代のおっさんが、日曜日に一人であの界隈をうろついてんだ。どうやったって女だろう。金と名声に物を言わせて浜松のナンバーワンホステスのところに行くのは目に見えとる。特にあの刑部だぞ。サングラスかけたら堅気に見えねえ男だ。受刑者の方がまだ愛嬌あるくらいにな」

 確かにいかつい風体だが、さすがにここまで断定するのは若干乱暴な気がするが。

「医学部の敏腕教授に刑務所のトップ。錚々そうそうたるメンバーっすね」黒羽が口を挟む。

「さすがは、ナンバーワンキャバ嬢だ! しかし刑部は、自分のとこの無期懲役囚の嫁さんだってこと知ってんのか? 知っとったら、なかなかのどうだな。ますますきな臭いぜ」

「本当ですね!」

 完全に刑部のお目当ては『ユリカ』である前提で話が進んでしまっている。さすがに大丈夫かと不安になった。

「いや、あの、店に入るところを目撃したんじゃないんで!」


 夜七時からキャバクラ一時間、八時から居酒屋二時間。鮎京にとっては前半の一時間の方が後半の二時間よりもはるかに疲労させるものであったのは言うまでもない。おかげさまで、居酒屋でのビールは今までよりも加速度を持って鮎京を酔わせていた。高々、中ジョッキ三杯程度だが、鮎京の正常な思考回路を鈍らせるには充分だったかもしれない。午後九時半で、夜と言ってもまだ更けておらず早い時間だが、鮎京の感覚は波に揺られる藻のようにゆらゆらしていた。しかし第三者から見れば、足取りもしっかりしているし真っ直ぐ歩けている。会話だってできているから、さほど酔っているようには見えない、という程度である。

「先生、今日も、ありがとうございます! アユちゃん、またな!」

 黒羽は豊橋に帰るために、浜松駅へと向かっていった。


 鮎京は遠州鉄道の新浜松駅へと向かう。まだそこまで遅い時間ではないので、バスも電車もある。城野はバスを利用するので、ここで全員別れることになる。鮎京は酔ってはいるが、前みたいに城野と黒羽の厄介になることはない。さすがに二回連続でそんな醜態はさらしたくはなかった。

 鮎京の家は浜北はまきたと呼ばれるところにある。浜松市は人口約八十万人を擁する政令指定都市であり区が設けられているが、浜北区は市の北部ではない。市の北半分以上は巨大な天竜区が鎮座しており、浜北区は市全体で見れば中央やや南東に位置する。しかも別に北区というのもあり、それは市の西部。さらに西区は市の南西、東区と南区は市の南東に位置する奇妙な配置だ。市の中心部が著しく南部に偏って集中しているためそのような位置関係になっていると考えられる。浜北区は遠州鉄道が南北に縦断し、比較的市街地へのアクセスは容易と言える。鮎京の最寄り駅は遠州鉄道の浜北駅はまきたえきで、そこから官舎までは自転車を利用しているが歩けない距離でもない。

 電車には、日曜の夜ということもあり、鮎京よりも若い男女もたくさん見かけた。異動して三ヶ月に満たないため、友人も少なく職場以外に出歩くことがあまりない鮎京にとって、若い女性は見るだけでも刺激的──のはずだった。しかし、明らかに自覚できるほどに変化をもたらしていた。

 それまでは若い女性でも同年代くらいの女性でも、魅力的に思えた。それは常に男社会で日常の大半を過ごしている男性刑務所職員の言わば職業病かもしれない。しかし、若い女性を見てもそそられないのだ。

 魅力的に写らない理由は明白だった。

 『ユリカ』である。女性に免疫のない鮎京が、あのような麗人を目前にして心揺さぶられないわけがなかった。しかも接客とはいえ終始優しい。

 一連の事件にきな臭さが感じられても、『ユリカ』は清く見えた。きっと何らかの力で夫である青山が陥れられたに違いない。青山も『ユリカ』も被害者だ。そしてこの事件の黒幕は──。

 憶測が渦巻くが、微酔いも手伝って考えが上手くまとまらない。それよりも、網膜に焼き付いた『ユリカ』の残像が離れなかった。人妻だ。しかも自分の職場で、無期刑で服役している男を選んだ令閨れいけい様だ。さらに、噂によると女の子の母親でもあるのだ。そこまで知っているから、特別な感情が芽生えるはずがない。芽生えるはずなどないのだ、と自分に強く言い聞かせて、はっと我に返る。そこで気付いた。紛れもなく、鮎京英は激しく『ユリカ』嬢に恋をしていた。心では律していても、脳は欲しがっているこの有様は、さながらシャブ漬けで捕まったりょしゅうの如くであった。

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