10 乖離
「アユキョー君、俺がキミのような刑務官の下っ端で収入もたかが知れてる人間に、せびろうとしてるとでも思った?」
城野の目は意地悪く鮎京を蔑んでいた。
「だって、接待なんて言うもんですから……」鮎京は馬鹿にされていると分かっていたが、取りあえず懸案事項が一つ解決されて安心の方が勝っていた。
「国家公務員は接待や
刑務官と矯正医官は、そもそもの立ち位置が異なると思うので、上官/下官の関係というのは語弊があると思うが、それでも医官の方が刑務官より立場は上だという認識がある。とにかく、見た目からの印象とは違い、必要最低限の倫理観は備わっているようで
「ありがとうございます」ひとまず鮎京は礼を言った。
そのときであった。
いつしか聞いた大きく耳障りなブザー音が鳴り響く。構内異常発生を告げる音だ。誰かが非常ベルを押下したのだ。
慌てて医務棟を出ると、「10工場だ!」と誰かが叫んだ。10工場と言えば青山だ。また殴られてしまったのだろうか。そんな予感を感じながら駆け付けると、予想どおりそこには一人の受刑者が倒れていた。顔から出血しているようだ。殴った人間はまたしても松山だ。懲りない男である。しかし、一方で倒れている人間は明らかに青山ではない。なぜなら青山は倒れて俯いている受刑者の背に手を添えているのだ。では倒れている男は一体──。
「マルモリくん! 大丈夫かい? 医務課の先生が来たから見てもらったほうがいい」
刑務所には似つかわしくない優しい声かけを行ったのは青山だ。刑務所には不正交談といって、刑務官に無断で受刑者同士の会話を禁ずる規則があるが、それに違反することを
「青山!」
「すみません!」注意を受けた青山はすぐに襟を正したかのように立ち、刑務官に一礼して謝罪した。
倒れていた男は、鼻血を出していたようだ。
「おい、大丈夫か」男は意識もはっきりしており、鼻出血も止まりかけていたので、軽症だということは容易に察しがついたが、形式的に鮎京は声をかける。
ふと胸の名札に目をやると『463 丸森』と書かれている。この見慣れない顔と名前の男は、確か先週入ってきたばかりの新入りの受刑者だが、この男は問診にて、過去に
「青山、手を見せてみろ」
鮎京はそう言って、青山を手や顔などを見てみるが、血に触れていないようだ。
梅毒は完治する病だが、再感染もあり得なくはない。しかも感染力が高い。丸森に再感染の徴候はなさそうだが、念のため気をつけなければならない。
「青山、危ないから
一緒に駆け付けていた西条が、「念のため医務課で診てもらうか」と言って、鮎京に合図した。
医務棟の診察室に着くと、西条は城野を呼びに行った。鮎京は一度片付けかけていた診察機器を再度準備しながら、丸森という男に問いかける。
「殴られたんか?」
「はい」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃありませんよ」予想に反して丸森はそう言った。細い目をさらに細めて、いかにもこの生活に早くも懲りているかのように肩を落としていた。大丈夫じゃないというのは、怪我のことではなくて服役生活(主に人間関係で)に順応できないことについての感想だと察した。丸森は続けて話す。
「松山って男にやられたんですよ。
鮎京は黙って聞いていたが、丸森の発言はおおかた新入りの受刑者が洗礼として受ける先輩受刑者によるイジメ(当人に言わせれば指導)だ。悪しき風習だが、粗暴な者どうしの集団生活ゆえに残念ながらそう簡単にはなくなるものではない。もちろん刑務官のいないところでそれは行われるが、刑務所生活に懲りて再犯率を下げるという副次的効果も期待されるかもしれない(実際にはそうではないと思うが)として、分かっていたとしても刑務官は明白な暴力沙汰など度を超したものでない限りは看過して、いちいち罰しないのかもしれない。
「細かすぎるから一回では覚えられなくて怒られるし、さらには僕を怒るだけでは飽き足らず、今度は教え方が悪いって指導している人にも怒鳴るんですよ」
丸森はこれまで溜め込んで来た悩みを一気に打ち明けるように一方的に話す。厳しい刑務官は、「勝手に喋るな!」などと怒鳴って一切の発言権を許さないだろうが、鮎京はその点、情けがあるのか取りあえず聞いてみることにした。
「唯一救いなのは、指導している人はどういうわけか優しいんですけど、その人もイジメの対象になっているらしくて、常に僕かその人が怒られてるんです」
「今は辛いかもしれんが、とにかく耐えろ。そして刑務所の規律だけは守れ。そうすれば仮釈放だってある。懲役何年かは知らないが」
「十二年です。初犯ですが」
「罪状は?」
「ご、強姦罪っす」丸森は口ごもった。
「強姦罪で十二年?」長いな、と直感的に思った。もちろんさまざまなバリエーションがあり、それによって軽重が異なるだろうが、通常は懲役四~五年以上の刑が科されることが多いと聞いたことがある。ちなみに強姦罪は平成二十九年七月に、男性が被害者の場合を含む性別不問の強制性交等罪の規定が設けられたことに伴い、強姦罪は廃止された。なので現在では正確な呼び名ではない。
「はい。『ミックスベリー殺人事件』ってご存知ですか? 拘置所にいたときに知ったんですけど、
名前は聞いたことある。確か鮎京が武蔵野医療刑務所で実習する前に話題になっていたかと思う。普段テレビをあまり観ない鮎京だが、年に一回あるかないかの連続殺人であり、居合わせたメンバーのSNSグループ名からメディアがそのようなキャッチーなネーミングをしたことから、事件の知名度は高い。しかも警察ではなくて若い一般女性が犯人を突き止めたとしてもニュースになっていたかと記憶している。
「お前、その犯人か? いや、でも強姦罪だったな」
「殺人の主犯は情状酌量で無期懲役と聞いてます。僕は殺人のきっかけを作った事件を起こした人間です……。雑居房の松山って男に罪状を聞かれて、『ミックスベリー殺人事件』ってちょっと格好つけて答えたら、それからめちゃめちゃ仕打ちがひどくなりました。しかもこの称呼番号の語呂合わせ、皮肉だよな……」
残念ながら、この男は地雷を踏んでしまったようだ。性犯罪で捕まった者は俗に『ピンク』と称され、ヒエラルキーの最下層に置かれる。かと言って、ヤクザと偽って名乗って何らかの形で嘘が発覚した場合は、それ以上の受刑者からの制裁が待ち構えていると聞くが。
丸森は犯罪者だが、初犯であってヤクザのようにアンダーグラウンドで生きてきた人間ではないようだ。堅気でない受刑者よりも、まだ真っ当な刑務官の鮎京に心を許したように
話が逸れてきたので元に戻そう。
「ちなみに、お前のこと誰が教えてるんだ?」
「青山さんっす。631番の」
「青山か!」
うすうすそんな期待を寄せていたが、的中した。やはりそうだったか。
「あの人、神様っすね! あの人もいじめられてますけど、あの人いなかったら俺、ヤバかったかもしれないっす!」
やはり、ここでも青山の通常の受刑者とは違う逸話を聞くことが出来た。通常、受刑者は自分がターゲットにされないように、自分よりも下位の新入りの受刑者には厳しく接することによって、絶対的な上下関係をインプットする。そうすることによって、新しいターゲットを作り出し、特にそれまでいじめられていた受刑者は難を逃れることが出来る。ただし、新入りの物覚えが悪いと、指導者が悪いとされ自分が再びターゲットにされてしまうので、とにかく新入りには理不尽なほど冷たく当たり、徹底してルールを叩き込むのが、刑務所のしきたりなのだ。悲しいかな。
しかし、青山は、丸森の話しぶりからすると、優しく接してきたのだろう。青山は新たな標的を作ることによって身の安全を図るのではなく、自分自身が被害を被ることを度外視し後輩を労ることを選んだのだ。ますます、青山の罪の内容との乖離を感じざるを得ない。
そのとき診察室の扉が軋む音がした。城野が西条に連れられて入ってきた。
「もー面倒だな。俺、耳鼻科は専門じゃねぇんだよ」
ぶつぶつ言いながら入ってきた。先ほど診察を終えて着替えたばかりなのに、また白衣に着替え直す羽目になり不機嫌そうだ。それにしても時間がかかった感が否めない。鮎京が呼んだ方がもう少しすんなりと受けてくれそうな気がするのだが、そこは日頃から城野の診察についているので、多少なりとも信頼関係が築かれたのかもしれない。西条は雑務があると言って診察室を出て行った。
「先生に礼っ! 番号と名前っ!」
「よ、463番の
「先生、丸森はワ氏の既往ありです」
ワ氏とは業界用語で梅毒を指す。それに対しては、城野は何も言わず医療用手袋をはめた。
「えっと、鼻殴られたんだよね。
おそらく鼻出血よりも
「たぶん、九割五分、骨折はないと思うけど、CTがここにはないから確定診断は得られない。気になるんなら耳鼻科と眼科の先生に診てもらって。本当に折れてたら整復手術だから」
「えっ! 手術!?」丸森は驚いている。
「だから、たぶん大丈夫だと思う。特に眼の方はパンダみたいになってないし、
眼科や耳鼻咽喉科の先生もこの刑務所に来てもらっているが、歯科のように毎週来るわけではなくて二週間に一回程度だ。
「入院しないんですか?」
「入院したかったのか?」
「いや、だって入院したらいじめられなくても済むし……」
「でも入院した期間は刑期に含まれんぞ」
「ええ!?」
丸森は入院して安全が確保されるとともに楽をしたいと思ったようだが、思惑が外れて残念そうだ。しかしながら加害者である松山は保護室行きだろうから、しばらくは安寧が訪れるはずだ。
城野は次の耳鼻科と眼科医師の診察日を確認し、カルテに所見を書き込むと、所見から鎮痛剤も不要と判断したのだろうか、薬も処方せずに退室していった。
診察後の医師への挨拶は割愛することになったが、代わりに鮎京に頭を下げてきた。
「あ、でも、オヤジさん。話聞いてくれてありがとうございました」
「ああ、鼻触ったりするなよ」
本当は、もう少し青山の情報を聞き出したかったが、下手にこちらが情報を求めたことを知られて、上官に知られると厄介だ。しかも丸森は、気を許した人間にはいかにも口が軽そうな印象を受ける。処遇部門の刑務官にも探られるのはまずい。
ただ、何となくだが、丸森は青山について情報を多く握っているとは思えなかった。今の丸森にそれを聞き出す心の余裕はなさそうだし、第一、刑務官に聞かれても黙秘していることを、わざわざ丸森に教えるとは考えにくい。それでも、新入りの受刑者に見せる顔も、刑務官に見せるそれと同様、紳士的なものであったことが判明した。猫を被っている受刑者も多い。刑務官にはペコペコするが、目が届かないところでは威張り散らしている者がむしろ一般的なのだ。だからこそ、何が一体青山を凶行へと駆り立てたのか。鮎京の青山に対する疑問が、補強されたような形になってしまったことは、言うまでもなかった。
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