23 決意

 城野の求めに従い黒羽と麓に情報提供を乞う。これが鮎京に課せられたミッションだ。

 知りたいのは青山夫妻の家族関係だ。夫と妻、双方の親族である。

 臓器移植を絡めた、一人の人間の生命を左右する強力な利害関係を賭けた事件と言っても過言ではないと言う。やはり、調べるのは青山の家族関係。そこに、今回の動機となるような、表沙汰になってはならない金と女と家族愛と憎悪が入り組んでいるに違いない、と城野は言い放った。

 しかしながら、鮎京自身、城野が知っていて、さらに鮎京も知っているキーパーソンを特定できないでいた。実は、誰がその人物なのかは教えてもらえなかった。現時点でそれを鮎京に教えてしまうと、鮎京がボロを出してしまうかもしれないと言われてしまったからだ。

 基本的に職場の繋がりでしかない城野と鮎京の共通の知人という時点で候補はかなり限定される。刑務官か黒羽か『Lapis Lazuli』のホステスくらいだろう。

 城野は医師だが、警察でも警察医でもない。遺体の状態やその周辺を実況見分したりすることはできない。もちろん鑑識の報告を耳にすることもできない。あれほど聡明な城野と言えど非常に無力な立場だ。もちろん鮎京も同様だ。

 そこで、動機的な側面からアプローチしようとしている。城野は何をきっかけに、そのキーパーソンを特定したのか。ただ、それだけでは情報が足りないと言う。事件の関係者の人間関係をつまびらかにすることによって、それを補おうとするのだ。

 もちろん青山本人はそれを知っているかもしれない。しかし、身代わりになってまで服役するような人間が、隠匿された真実を語ってくれるとは到底思えない。

 そこで、黒羽、あわよくば麓から情報を聞き出そうとしているのだ。城野は黒羽たちの良心に賭けている。換言すれば、おそらく真実が白日の下に晒されるのを忌避しているであろう警察組織にそむいて、剔抉てっけつする勇気に賭けているのだ。


 また、城野自身も行動を起こしている。城野は天竜医科大学からの情報を探っている。二人目の被害者、川越允軌に関わる人間だ。これは医師である城野の力の見せ所かもしれない。


 しかし、いくら人間関係を洗い出し動機を明らかにしても、おそらく物的証拠は何も得られない。警察は捜査中の事件の内容を吐露することは御法度なのだ。

 ただ、直接ではないにしろ警察のパイプを持つ城野と鮎京が、黒羽を通じて動機的に確からしい仮説を立て、提示することは可能かもしれない。ひいては、警察が握っている状況的、物的な裏付けが取れれば、事態は進展するかもしれない。そんな希望的観測を抱いているのも事実だった。

『クロちゃんか。これから会わないか』鮎京は取り急ぎメールを打った。

 麓恭歌は、おそらく署にしばらく張り付いている。まずは、黒羽が握っているかもしれない情報を聞き出そう。もちろん何も情報を握っていないかもしれない。むしろその可能性は多分にある。それでも今はこの男に頼るしかなかった。 


 退所するとき、スマートフォンには黒羽からメールが入っていた。内容を確認する。しかし黒羽にしては珍しく消極的な回答だ。

『ごめん。今日はそんな気分じゃない』

 おかしいと思った。予定があって飲めないとか、仕事が入っていて飲めないならとかなら分かる。しかし、気分が乗らないとは。

 仕事などのストレスを抱えている可能性があるが、どちらかと言えば、飲むことによってストレスを発散させそうな男だ。

 ということは、純粋に鮎京と飲むことを拒んでいると考えるしかない。黒羽と険悪な仲になった覚えはないが。嫌な予感がする。たちまち電話をかけた。

 十回以上呼び出し音がなり諦めかけたところで、黒羽は電話に出た。まるで相手が根負けしたことが、伝わってくるかのようだった。

『あ、もしもし? すまんが今日はそんな気分じゃないんだ』

「どうしたんだ? クロちゃん」

『事件のことだろう? どうせ。本当に悪いが、もう俺、首突っ込むことは止めようと思って……』

「どうして?」

 そう聞きながらも、鮎京には黒羽の言おうとしていることを想像していた。

『恭歌の話だ。この事件、署の方でかなり不穏な空気が流れている』

「ん?」直感的に、鮎京の想像より事態は重いような気がした。そしてすぐその直感が正しいものに変わる。

『真犯人を名乗る人間からの怪文書が来ているらしい』

「怪文書?」

『ああ。内容としては、「早まったことしましたね。川越と市原を殺した犯人は私です。あなた方も気付いてしまってるでしょう。やっちまったって。川越殺しの犯人を探すのはどうぞやって下さい。でも私が捕まったら、市原の事件の犯人でもあるって自供します。私はその証拠も持っているのですから」といった内容らしい』

 鮎京は言葉を失う。

 署が自らの過ちを自ら気付き、自らで処理しようとしているのならまだ良かったかもしれない。

 しかし外部で既にそれを、確信を持って気付いている人間がいて、警察に挑発とも取れる怪文書を送っているのだ。怪文書の内容が正しければ、川越殺しの犯人が逮捕に至ることによって、市原殺しの誤認逮捕が明るみに出る。しかし、川越殺しの犯人は捕まえなければならない。そんなジレンマが署の中にあるのだ。

『そういうわけだ、じゃあな』と黒羽は言って電話を切ろうとする。

「あ、待て! クロちゃん。実は、城野先生はその犯人候補がもう分かってるようなんだ」

『何っ!?』

 鮎京はそう口走ってから、おお袈裟げさすぎる発言をしたことに気付いて慌てる。

「あ、犯人候補ってか、キーパーソンだ。語弊があったな」

『誰だ?』

「実はそれは俺も教えられてない」

『嘘付け!』黒羽が突然攻撃的な口調で言うので、狼狽した。

「ほ、本当に知らないんだ!」

『いいよ。とにかく俺からは事件について何も話せるようなことはない』

「そこを何とか!」

『鮎京。この一件があって恭歌がどうなっているか、知ってるか? 恭歌は個人的にこの事件を懐疑的に見ていた。特にお前が疑い始めてからな。それで個人的にこの事件を調べるようになった。それが署内で他の人間に気付かれ噂されるようになった。恭歌はそれなりに市原殺しの関係者の人間関係などを調べて情報を握っていた。ひょっとしたら物的証拠とまではいかないまでも、人間関係や動機からもっと確からしい仮説を組み立てていたかもしれん。そしてそれを上司に進言した。上司は青山を犯人と思って疑わないから一笑に付された。そこで今回の川越殺しと怪文書だ。それで恭歌は何かの情報を川越殺しの犯人と思われている人間に漏洩しただなんて、めちゃくちゃな言いがかりをされて、処分を検討されているそうだ』

「そんな! 今、彼女さんは今どうしてるんだ。自宅謹慎中か?」

『警察に泊まり込みだ。連日な。捜査名目で』

「じゃあ、捜査は継続してるのか?」

『んな、わけねぇよ。恭歌は署の刑事一課。そして殺人事件。泊まり込みで捜査中──っていう名目だ。実際には捜査はしてない。捜査本部からは外されているんだからな。つまり署が事件を丸く収めるまで、恭歌は署に軟禁状態だ』

「何だって!? そんなことがあっていいのか!?」

『悲しいかな、警察とはめんを気にする。失態を隠すためなら努力を惜しまない。嘘を嘘でマスクすることだってやりかねない』

「まじか……」

『お前も同じ公務員だから分かるだろう。税金で養われている人種が、国民の信用を失うことを人一倍気にするということを』

「そうかもしれんが……。でも、一人の人生がかかっているかもしれないんだぞ!」

 鮎京は、自分でも珍しいくらい憤慨していた。黒羽の言っていることは理解できる。理解できるのだが納得がいかないのだ。それはまだ自分が組織の末席にいる人間だからだろうか。

『なあ、鮎京』黒羽は鮎京を呼び捨てで呼ぶ。『お前さんは国家公務員だ。しかも通常の一般的な行政の公務員よりは一割ちょっと増し程度の額は担保されているらしいな。しかも順調に行けば昇給する。異動は多いかもしれないが、ちゃんとした家庭を持って養えるくらいにはなってるはずだ。民間の会社員と違って給料は公安職俸給表で定められているが、職場が倒産する心配はないと言って良い』

「何が言いたい?」鮎京は眉をひそめた。

『つまり、お前は、派手さはなくても、間違いのない安定した一本道のレールにまたがっているんだ』

「それがどうした?」

『もし鮎京が、そのレールから脱線して底なし沼に落ちる危険を顧みないのなら、協力してやっても良い。逆にそれくらいの覚悟のない人間には協力できない』

「何を上から目線に!」鮎京はとうとう我慢の限界が来て、電話の相手に怒鳴った。受刑者以外に声を荒げたことはほとんどない。

 しかし、黒羽は冷静に答えた。

『上から目線じゃない。こっちは恭歌の立場がかかっているんだ。恭歌もお前と同じで、この事件の真相は別のところにあるとずっと前から思っている。でも組織としての警察がその真相を引き出すことを拒んだ。真相を引き出せば、自分の組織の汚点をさらす。それを新たな嘘で重ねて隠蔽する。いちばんあってはならないことに手を染めようとしている。恭歌はそれをただそうとして、言わば弾圧された。もし恭歌に手を貸せば、下手したら鮎京も反組織的な勢力の一味としてレッテルを貼られる。当然そうなったら、刑務官としての立場も危うくなるだろう。逆に言うと中途半端な覚悟で臨んで、立場が悪くなったら掌を返すようなことがあれば、俺は許さない。そう言うことだ』

 黒羽の発言の内容は、その口調以上に重みがあり、思わず震慄しんりつした。

「お、俺は、覚悟している……」

『本当か? 俺はお前が思っているよりも深刻な事態だと思うぞ』

「それでも覚悟している。罪のない人間だと分かっていて、あの閉鎖空間で労役を強いることは俺にはできない。ちゃんと、罰せられるべき人間が刑に服さねばならない。逆に言うと、スケープゴートを作って、のうのうと生きている犯人がいたら俺は許せない。それに、ここまで協力してくれたお前や城野先生のこともあるし、何よりもお前の彼女にいつまでも逆賊の烙印らくいんを押されたままでいられない。そんなことがあってたまるか! そんなことをするために俺は刑務官になったわけじゃないんだ!」

 鮎京の刑務官としての職業倫理が、いやそもそもこの職を自らの使命と感じ始めたときの初志が、旧態依然たる組織の闇を乗り越えんとった瞬間だった。

『殊勝だな。俺なら絶対首を突っ込まないな』

「そう言いながら、実はもう突っ込んでるんじゃないか?」

『ふん、何せ恭歌の名誉がかかってるからな。正義に溢れる婦警も大変だぜ』

「なるほど。俺が彼女探すときには、肝に銘じておきますよ」

『ああ、くれぐれも気を付けろよ』

「正義に溢れる婦警さんだな」

『あと、正義感溢れる刑務官も危険だ』

「わかった」鮎京は軽く笑いながら答えた。

『明日の夜七時半でどうだ』

「何も話せることはないんじゃなかったのか?」

『気が変わった。誰かさんのせいでな』

「ありがとな」

『それまでに、こちらもこちらで分かっている情報を整理しておく。実は恭歌、警察官と言えど第三者の俺に、処分覚悟で情報をつぶさに教えてくれている。はじめからあいつ、危ない橋渡るつもりだったんだな』

「そっか。恩に着るよ」


 そう言って電話を切ると、辺りは暗くなり始めていた。結構長い時間電話していただろうか。

 勢いで言ってしまった感はある。いよいよパンドラの箱を開けようとしている。今ならまだ黒羽に電話して思いとどまることはできる。しかしそれもできなかった。向こう見ずな良心と刑務官としてのプライドがそれを邪魔する。

 どんな代償が待ち構えているのだろうか。人生を狂わすような大一番になるかもしれない。それでも、それが自分の信念に基づくものなら本望だ、などと言って、必死に自分で自分を言い聞かせていた。


 翌朝出勤して、処遇部門に異動した西条に会うや否や、青山に関するある情報を伝えてくれた。

「鮎京。お前、青山のことを気にしてるだろう?」

「ええ、まあ」

 刑務所の中で、城野以外の人間に青山に探りを入れていることを知られたくなかったが、西条は前の刑務所からの付き合いだから、善しとするか。

「あのな、青山の嫁さんが今日面会に来るらしい」

 青山の嫁が面会に来る。これははじめてのことだ。何か特別な意図があるのだろうか。

 鮎京は何とか面会に立ち会いたいと思った。

「それって俺は入れますか?」

 ダメもとだと分かっている。でもそんな無理な注文をしてしまうくらいの無鉄砲さが今の鮎京にはあった。

「ダメなんだ」予想どおりの答えが返ってくる。

「西条さんは入るんですか?」

「いや、誰も入らない」

「え?」

「つい数日前かな。制限区分が三種から二種に上がったらしい」

 鮎京は一瞬耳を疑った。

「に、二種ですか? いや、あまりよく分からないですけど、制限区分上がるの早くないっすか?」

 西条は何も答えないが、態度を見る限り同じ感想を抱いているように見える。

 青山がここに収監されてから四ヶ月くらいが経過しようとしているだろうか。

 制限区分とは、優遇区分と並んで刑務所が受刑者に下した評価で、優良な態度であれば刑務所内での行動の制限が緩和されるものである。

 制限区分は一種から四種まであり一種が最も優良である。通常は三種からスタートし、居室に鍵がかけられ、また面会はできるものの刑務官の立ち会いが必要となるが、二種からは居室の施錠がなくなり、面会に立ち会いはなくなる。昇格の時期は不定期だが、仮釈放の準備者や長きに渡って優良なものは昇進する。一種に上がるのは必然的に長期刑に限られるが、それでも至難の業であるようだ。

 ちなみに優遇区分は一類から五類まであって、面会や手紙の回数、購入物について定めるものであり、こちらは半年ごとの見直しが行われるものである。

 確かに青山は誰が見ても模範囚だ。それについては異論ない。素行は極めて良いのでいずれは昇格するだろうが、その時期が早すぎるのではないか、と思う。

 とにもかくにも二種に昇格したおかげで、面会に刑務官の立ち会いはできない。だからと言って面会の様子を記録するために監視カメラ等が設置されているわけでもないので、当人しか会話内容は知り得ないのだ。

 鮎京としてはがゆいが、だからと言って規約に反してまで青山のプライベートに足を踏み入れる権利はない。青山はさぞかし喜ぶだろう。通声穴付きのアクリル板越しの再会となるが、しばし夫婦の時間を楽しんで欲しい。

 夫婦と言ったが、娘は来るのだろうか。ふと頭によぎる。

「面会って、嫁さんだけですか?」

「嫁さんだけ? ああ、俺は嫁さん以外に来るとは聞いてないけどな」

 確かに、幼い子供とは言っても、受刑者でいる姿を見せることをいとう親だっているかもしれない。ただ、個人的には無期刑なのだからそこは受け入れて、娘が会いたがっているのなら会わせてやっても良いのでは、とも思うが、それはべんだろうか。


 刑務所の面会時間は施設によって多少の差はあるが、開始時間はどこも朝八時半、終了時間は夕方四時までとなっている。

 西条によると面会は午後一時半かららしい。おそらく短くて二時、長くても二時半くらいまでだろうか。その時間は歯科医師の月形の診療につかなくてはいけない。

 西条が処遇部門に移った今、医師の診察の準備から補助まですべて鮎京がこなしている状態だ。つまりは持ち場を離れられない。

 もっとも、立ち会いができないので持ち場を離れたところで何もできないのだが、それでも気になる。ただ、それまで面会のなかった青山にとってのはじめての来訪者だ。物理的に遠ざかっていたのならまだしも、青山の場合は決してそうではない。意を決して来たのは、それなりの理由があるのだろう。


 今日の午前中は城野の診察だ。

 こういう日は得てして、青山が診察希望の願箋を書いている──という都合の良いことはまったくなく、また青山が誰かに殴られたなんて話も飛び込んでこなかった。

 実は、ひょっとして前例のないスピードで制限区分の昇格を果たした青山を妬ましく思い、他の受刑者が嫌がらせをしたり、あるいはもっと短絡的に暴力で危害を加えたりするなど、少なからず起こるのではと思っていた。こういった、あまりに低俗なことが刑務所ではごく簡単に発生するのだ。しかし、そういった報せはなかった。平和で何よりだが、鮎京が青山に接触する機会はなかった。


 本日は、昼の休憩中に城野とゆっくり話すことはできない。午後の月形の診察のため、浜松駅まで迎えに行かねばならなかった。いつもは用度課にお願いしているのだが、今日は急な欠員のため人が出せないと言う。

 午前の診察を早めに終わってもらって、最低限の物は片付けて、大急ぎで用度課で車の鍵を借りすぐに浜松駅まで向かう。昼食は車に乗りながら食べる。

 医務課も西条がいなくなって手薄になり、休憩もろくに取れない状態になる。

 月形を午後一時には迎えに行かねばならない。浜松駅から遠州刑務所までは距離があり、車でも四十分程度かかる。

 刑務所に戻ったときには一時半を少し回っていた。月形は入口で待っていた他の刑務官に案内されて所内に入っていく。

 鮎京が時間を気にしていたのは理由があった。

 青山の面会は午後一時半からなのだ。青山夫人がどういった交通手段で来るか分からないが、ひょっとしたら会えるかもしれない、と思ったのだ。

 そしてその狙いは的中する。

 鮮やかなブルーが爽やかなボタンシャツに、ブラックジーンズを纏い、ヒールサンダルに鍔広つばひろ帽子を身につけたスタイリッシュな装い。そしていかにも気品ある歩き方をする妖艶な女性は、遠目に見ても刑務所の銀鼠の高塀とはミスマッチな存在だ。その出で立ちは非常に目立ち、一瞬でその女性が、『ユリカ』こと青山留利であることが分かる。その女性は青いBMWから出てきたと思われる。見慣れない車がそこにあったのだ。本当に、『ユリカ』は青が好きなのだなとつくづく思う。

 一瞬その女性を追いかけようと思ったが、すぐに思いとどまる。追いかけたところでどうしようもないし、『ユリカ』は鮎京が刑務官であることを知らない。また、青山について探りを入れていることを、上官から注意されているのだ。敢えてここで接触するメリットはほぼないと見える。そのまま『ユリカ』は面会室の方へ向かっていった。

 よく見ると、BMWからエンジン音がしている。怪訝に思い、『ユリカ』に悟られないように車に近付くと、案の定車内には人がいるようだ。夏なので、エンジンを付けて冷房をつけないとたちまち熱中症だ。そしてよく見ると女児に見える。そして顔が少し見えた。もしかして……、と思いながら見てみると、やはりその子が『青山ゆりか』という名札を付けていた少女だということが分かる。

 ここは車内でお留守番ということだろうか。面会室には連れて行かないのか。それとも青山由栄が会いたいと言えば連れて行くのだろうか。

 よく分からないが、きっと少女は、両親の意思とは無関係に父親である青山由栄に会いたがっていることだろう。内心ではこっそり車の鍵を開けて愛娘を面会室に案内したかったが、本当にするわけにはいくまい。

 そんなことを考えてハッと気付く。月形はとっくに着替えているだろう。こんなところで油を売っているわけにはいかない。大急ぎで車の鍵を返し、白衣を羽織った。しかも診察の準備もまだであった。

 結果的には、西条が診察の準備をしてくれていた。事情を察した岡崎が応援を頼んだのだろうか。西条に感謝すると、耳元で「あまり目立つ行動はしない方が良いぞ」と、意味深な言葉をかけられてしまった。

「何かあったんすか?」

ちゅうさんが所長に呼び出されて厳重注意だ」

「えっ?」

 府中は、ここ遠州刑務所の処遇部門の刑務官の中でもとりわけ受刑者に厳しい。短気で手が出ることもしばしば。いかつい風体もあいって、受刑者からは大いに怖れられている人物だ。

「青山をこないだ蹴り飛ばしたんだそうだ……」

 受刑者に対する懲罰と称した行き過ぎた処遇は、かつて事件になり社会問題化したこともあった。しかし、ここは受刑者の中でも凶悪犯罪者や累犯者も多く収容されているLB級。こと、刑部所長はどちらかと言えば受刑者に対して容赦しない性格だ。蹴り飛ばしたくらいで、いちいちお咎めをするような男ではない。

「ありがとうございます」と、礼を言いつつも不気味な感覚にとらわれていた。


 月形の診察、送迎後、こっそり聞いたところによると、結局青山の面会に娘は来なかったとか。何となく聞き分けの良さそうな少女に見えるが、さぞ父親に会えなくて淋しいことだろう。

『……パパに……、会いたいの……』

 あのときの少女の心の叫びが、鮎京の脳内に不意にリフレインされ、胸が痛んだ。


 青山にとって初の面会の日の夜。

 仕事を終わらせ、鮎京はいそいそと退所する。理由は他でもない。黒羽と相見あいまみえるためだ。

 いつもは、同じ事件を追う仲間ではあるが、それ以上に職場近辺では数少ない職場以外の友人として会うことを楽しみにしてきた。

 しかし、今日はそんな胸騒ぎはない。いや、一概に胸騒ぎがないと言っては嘘になるか。何か、戦慄に近い武者震いと表現されるような、おどろおどろしさを感じざるを得なかった。


 かと言って、引き下がるわけにはいかない。

 組織の中においては、非常に青臭いし青二才な考えかもしれない。しかしあやまりを糾すために刑務所ここに敢えて身を投じている鮎京は、そこに刑務官としての使命感を見出していた。

 それが、個人相手であっても組織相手であっても同じことだ。

 しかも、今回は麓の名誉がかかっているのだ。黒羽の情報によると、麓は反組織的な勢力の一味としてレッテルを貼られている。しかし、きっとそうではないはずだ。上司から部下への弾圧。パワーハラスメントを超え、言わば冤罪に近い行為が行われているかもしれない。青山が見立てどおり冤罪であったとすれば、冤罪を冤罪で上塗りする、二重のざいきゅうだ。

 真相を暴き出し、失意に暮れる麓を救い出さねばならない。それは恋人である黒羽であれば尚更のこと。ただ、白日の下に晒すとなると相当のリスクを背負う。何せ相手は警察と言う巨大な組織だ。離反するようなことがあれば、黒羽はもちろんのこと、加担した鮎京にも処分が下されるかもしれない。


 胸の内に漂うどす黒い雨雲のような沈鬱は消え去ることはできない。それでも、そんな弱音は意地でも払拭して、奮い立たさねばならなかった。きっと昨日の話しぶりからすると黒羽はしっかり覚悟を決めているように見える。中途半端な使命感で臨むことは黒羽と麓に対する侮辱行為に値する。


 待ち合わせはいつものように浜松駅だ。時間は夜七時。黒羽も飄々ひょうひょうとした様子で現れた。

「なあ、鮎京。日本の再審制度は俗に『開かずの扉』と言われてるようだな」

「ああ」

「さぁ、俺らだけで開けにいこうじゃないか。『開かずの扉』をよ。恭歌を助けるためにも。もう一度聞く。協力してくれるか?」

 黒羽は、野郎相手に気障きざなことを言ってのける。

「無論、ここに来た時点で俺も同じ穴のむじなだ」

 この瞬間、鮎京の胸中の雨雲は、『決意』という風によって払拭されたように感じられた。

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