06 病歴

 夜の十時を回った頃。賑やかな黒羽と麓と別れ、あたりはすっかり静まり返っていた。

 この時間にもなると、電車の本数は少ない。一時間に二本程度なので、しっかりそれを確認した上でお開きにした。幸い麓が署から呼び出されることはなかった。

 

 飲めない麓には悪いなと思いつつも、お言葉に甘えて鮎京はビールを飲んだ。若干の酔いこそ回っていたものの、思考力は充分残されていた。

 元来、酒に弱いわけではない。飲んでも顔は赤くならない。

 一方で女性経験が乏しいので、その方向に話が及ぶと顔が赤くなるので周囲には大いからかわれる。

 そんな自分の体質を恨めしく思いながらも、すぐに思考を元に戻す。


 麓から聞いた話であるが、やはり解せないポイントが多いように思える。

 不可解な点その一は、本人の記憶が不確かながらなぜか自首していること。その二は、何と言っても臓器を摘出していることだろう。

 本人の自白と情況証拠によって犯人を青山と特定しているようだが、犯行に付随する行動やそれに至る動機が不可解であり、あまり得心がいく説明がなされていない。

 もしこれが、解離性同一性障害(いわゆる多重人格障害)の存在によって、凶暴な交代人格が実は存在していたがために、本人(主人格)の意識の外で犯行が行われていた、と無理やり説明をつけることが出来るかもしれないが、青山は医学部を目指していたという情報からそれなりに良家の家庭で育てられており、いわゆる児童虐待という解離性同一性障害を発生させ得る因子には乏しいと推察される。もちろん、親の過度の期待が精神的虐待を負っていた可能性は否定できないが、青山のカルテにそのような情報はなく、またそれを窺わせる所見もない。

 裁判に当たって精神鑑定が行われたという情報もなさそうだ。解離性同一性障害であったとして交代人格が犯罪を犯したときは無罪放免になるのか。鮎京は判例にはそこまで詳しくない。交代人格に責任能力が認められたときには、やはり有罪判決となるのだろうか。

 そんなことを考えながら家に着いたときには夜十一時となっていた。

 青山に関する謎は依然山積しているが、頭は不思議なほど冴えていた。しかしながら明日も仕事だ。帰宅して晩酌をしようと思ったが、踏みとどまって明日に備えた。

 そうだ、明日は青山の手術歴について、城野に報告する約束だった。

 いくら、客観的に見て素行に問題のありそうな城野であっても、相手は医師。准看護師の鮎京の立場から、それはちゃんと遵守せねばならないという使命感に駆られていた。


 翌日、城野が出勤するやいなや、さっそく青山の手術歴について報告する。


 昨夕のこと。

 城野に言われたとおり鮎京は青山に尋ねたのだ。既往歴や併存疾患について聞き出そうと。

「わ、私、手術と言えば盲腸くらいです。薬はリウマチで飲んでるんです」

 若干、青山は声を震わせていた。その態度に若干の違和感を感じたが、素直に彼の言い分を信じることにした。


「城野先生。青山ですけど、手術歴は虫垂炎くらいだそうです。ネオーラルはリウマチで……」

「アユキョー君、本気で信じてる? それ」

 侮蔑に満ちた声で城野は問う。

「え?」

「だからさ、それおかしいと思わない?」城野の語気が少し強くなる。

「まぁ、リウマチは女性に多いですし」

「何言ってんの? 論点が違う。リウマチの第一選択薬は抗リウマチ薬。特に一般的なのはメトトレキサートだってことは常識だろ? だがそれを飲んでない。ネオーラル、つまりシクロスポリンを飲んでるという。しかもシクロスポリンは保険適応じゃねぇじゃんね?」

 鮎京はネオーラルがリウマチの保険適応外だということを知らなかった。でももしそれが確かなら、城野の言うとおりおかしい。不自然だ。

 続けて城野は鮎京に問う。「ちなみにいつから飲んでるか聞いた?」

「いいえ」

「それがダメなんだよ。若くして飲んでると聞いて、まず思い付くのはステロイド抵抗性ネフローゼ。でも奴がいま透析をやってるという話はない。なら、考えられるのはアレだ。俺が手術歴を気にしてるのはそれ。青山の言うアッペの傷は見たの?」

 アレと言われても、鮎京にはピンと来ない。

 なお、アッペとはAppendicitisの略で、医療従事者の間では虫垂炎を指すことくらいは鮎京も知っている。青山から話でそう聞いただけで、身体の創までは見て確認しなかった。

「いえ……」

「もし、俺の勘が正しいなら、別の疾患が隠れてる。でも本人は隠してる。何らかの理由でさ」

 隠している──。残念ながら鮎京はまだ青山について充分人間性を理解しておらず、隠す理由について思い当たる節はない。

 身体にコンプレックスを感じており、他人に見られるのを嫌悪しているのか。女性では比較的ありがちだろうが、青山は男だ。入浴を他の受刑者と別にしていたり、性的マイノリティーで独居房であったりするという話も特に耳にしていない。

 何だろうか。見当がつかない。

 城野は続ける。

「取りあえず、今日どっかで呼んでくれるんでしょ、青山を。月形センセーの指示でさ。まぁそんときはっきりするだろーけどね」


 担当の刑務官に連絡して、工場から青山を呼び出してもらうことにした。どうやら本日は誰にも殴られていないらしい。そんなことにいちいち安堵する。

 刑務官に連れられて青山は医務棟に来た。右下唇に内出血を来たし見事に腫れているのが痛々しい。

 今度はちゃんと、西条の指示を待ってから一礼し、「631番、青山由栄。よろしくお願いします」と言った。

 城野は口唇の傷自体はほぼ見たか見てないか分からない程度にあっさりと診察と消毒を済ませ、「ついでに身体も見せてよ」と指示した。

 青山は少しちゅうちょした様子だが、諦めたように服をまくった。

 これで、立派な彫り物があったらそれは驚愕だが、想像どおり何ひとつ刺青いれずみは見当たらなかった。鮎京は青山の身体をしっかり覗き込みたかったが、ほんの五秒ほど見て城野は「もういいよ」と言って服を直させた。

「血液検査のデータある?」と城野はぶっきらぼうに訊いてきた。受刑者処遇法の第三十八条に基づき、収容時に採血を行っている。「はい」と言って、そのデータをコンピュータ上に出す。

 城野は画面を見ながら「薬足りてる?」と訊いてきた。今朝、薬剤師の播磨に訊いたところ、あと数日でなくなりそうだということで、その旨を伝えると、「じゃあ、切らさないように同じように出しといて」と指示した。青山には特に説明をしなかったが、それについて青山は特に意に介した様子はない。

 診察終了後、再度一礼し「ありがとうございました」と言って医務室を出て行った。


 この一連の診察を目の当たりにしても鮎京は何ひとつ新たに得られる情報はなかった。

 城野はこの短時間で何かを読み取ったのか、それとも読み取れなかったのか。

 一応気を利かせるつもりで城野に尋ねる。「あの、先生。ネオーラルを処方されていた病院に照会かけます?」

「全然いらないよ。おかげではっきりしたよ。やっぱり奴は隠してんね」

「えっ?」

「移植をやってる」

「……」鮎京は一瞬何のことか分からず、言葉を発することが出来なかった。

「それも腎臓だけじゃない。きっと膵腎同時移植って派手なの受けてんね。こりゃ」

 まだ、勉強不足の鮎京は、それが一体具体的にどんな手術なのか、適応は何なのか判断できなかった。それでも言い知れぬ戦慄が鮎京を襲っている。

『臓器が摘出されていたの』

 昨夜の麓の発言を反芻はんすうせざるを得なかった。どんな関連性があるかは皆目見当がつかない。しかし、これが青山の猟奇的な行動と無関係であるとは到底思えなかった。

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