第一章 信頼に足る者が冠する証

 宵にうまれた泡が、高い空によばれるように深い海から浮きあがっていく。


 あまりにおおきく黒い海原のあまりにすくない暁のあいだの照り返す白い水面から途中経過のあざやかな碧へとはじけた泡がちからをうしないきえるように邂逅へとひかりあてる景色を現実に描かせる感情からみちびかれるおもいは、あまりにおおく、あまりにもちいさなかけらをひろいあつめきれなくて、はっしたとたん、つい、わたしをうそつきにかえていく。


 まえぶれもなくきこえるこえというか、うっすらといしきできたくらい、もしくはおおきすぎるのか、おととはことなりどこかがふるえてるような、きもちのような、描きだした小説のむずかしすぎてわすれきっていた、透き通った世界の第一章、処女と童貞のつまり、だからやさしくいえば、かきだしが姿をあらわにした。


 裂け目からわきだす泉のようにこれはよいというよかんがふくれあがり、すごくいいと、きもちをことばにしたいくらい、これほどいいのはもう、むりというくらい急流をくだる水のようにおりてくる。雲がないくらい晴れたから、いや、刺激のつよかったきのうをおもいだしていたから、いや、わからない、そんなことはどうでもよくない、でも、記録するきかいがあれば、いや、携帯電話という録音するきかいはある。だが、仕事中というきかいだし、校門という場所だし、録画されてるし、ひとりごとは、まずい。そのまえに勤務中という倫理の上でのおかしがたい壁が、しかし文となったおもいを暗い海に帰したらおなじおもいでもどってくることはない、書いてでも、声にしてでも、衝動がおさえられず勤務報告書をひらこうとしたところで、かろやかな鐘の旋律に授業のおわりをしった。


 幼子を守るために小学校に立っているという自覚に、我にかえった。ぼくはかぎられたときをいき、しごとをしている。誤解によどんだせかいの霧を晴らすために。


 赤子をあやすような顔をしている、みずからのきもちにきづいたら、目のまえの真顔がくずれた。


 こえがきこえそうな目の輝き、少女の黒目がちなおおきな瞳がさらにおおきくなる、真顔と破顔の割合いが際立つ感じやすさを見せつける均整の整った造形は顔だけではなく、たしかまだ四年生なはずだけど制服をきれば今年の一年生にすごいのきたと男子の話題をさらうのはまちがいない。それは容姿だけを一目見た感想、うつくしすぎる薔薇のようにするどい棘が、羨望のおもいが枯れておわるのも出会いから見えていく、実がならない理由が背を赤くそめる。


 「いたい」


 彼女にきづかない、ほかの子と夢中で話してたりするとそっと後ろに回りこみ、声さえださずに。


 振り返り、いたがる顔をして見せるとほんとにうれしいらしい、華奢なのにコンパスの長い手で腕をにぎりしめる。


 つまり、初登校の浮かれた口笛は初下校で校門を出るまえに悲鳴にかわっている。うれしい悲鳴になるか、つらい悲鳴になるかは叩かれた人の嗜好しだいだけど。


 「かえろう」


 わきから腕をいれ、強引に腕組みをするように引っ張る。


 こんな状態を監視カメラに録画されたらいいわけの立ちようもない、きづくと両手とも拘束されていたりする、肩のよこにいたずらっぽい顔がある、いつのまにか、一人、もう一人と少女がふえていく。空が広い、澄み切った碧い夏の午後。そんなきのうがきょうもあるのかとおもいのつづきを浮かべていた。目のまえを通り過ぎていく少女。ただ、帰ろうとしていた。ぼくが立っているのにきづきながら。


 「きょうはおとなしくかえってあげる。うれしいでしょ」


 笑顔で背を向ける。

 たずねたいことがあったから話をするつもりでいたのに、展開に不思議を感じつつ後ろ姿に声を。


 「森さん。あのさ、下の名前をおしえてくれない」


 語尾のおとを疑問のかたちにかえるまえには、いきおいよく振り返る、なに、なに、と、きもちが拡大され表情にかわる。いつ間近で見ても本物は。


 おもい描いた顔よりはっきりとした意志のつよい眼が顔に近づいてくると、どこか後ろめたいようなきもちが起こるのも事実だけど、いまは名前をしるほうが大切で、思いが勝ったから言葉をつづけようとした。


 「なんで名前をしりたいの。おしえてあげないよ」


 うれしそうにうるんだ声をひびかせ背後を取ろうとする。一歩後に下がれば校門脇の電灯に設置された監視カメラを通して校長が学校警備の実態にふれる。


 「なんで、後ろに回りたがるんだい」


 言葉を返さずにいたずらっぽく笑う。

 目の端に黄色い帽子が見えた、走った、都合よく低学年が運動場をかけてくる、見守る場所が横断歩道の横にうつる時間になった、角度的に監視カメラに姿はうつらない。そんなことをきにするでもなく彼女はいつも全開だが、ぼくも負けずに全開で逃げる、彼女も走る、走る、げんきの塊の少女は跳ねるように追いかけてくる、いつのまにかぼくと彼女は西門からつながるほそい通路を走る。どうにかして後ろに回ろうとする彼女と後ろをとらせまいとするぼくのうごきは渦を描いて、少女の顔が高揚して赤くそまるころには体力のおとるぼくの顔は青く血が引いていく、ぼくらのまわりは横断歩道をかけ抜けようとしてあつまった低学年の子供達でかこまれていく。


 「つかまえろ」


 どこからともなく声が、赤や黒や緑や茶色などの鞄を背負った子供達がおそいくる。


 「だめ、だめ、だめだって」


 伸びてくる、ちいさなてを振り払い、おくれてでてきた一年生のあどけない顔を見つめる。


 「ちゃんと右左を見てわたるんだよ。はい、てをあげて」


 いいながら横断歩道を一緒に渡って少女とのあいだをたもとうと努めていると、きつい声がひびいてきた。


 「あ、いた」


 一人が口にした。

 見なれた顔、いつもの四年生女子集団が横断歩道の前までだらだらと歩いてきている。


 「あんた、まだいたんだ」


 もう一人が口にした。


 「あんたがMなのはわかってんだよ、このM野郎、へんたい」


 とても刺々しい声で叫ぶこの子はいつもははじめに声をかけてくる活発というか攻撃的な少女。


 いや、それはかんちがいどちらかといえばぼくはLなんだ、いまはない太古のひびきでだけど。聞こえないようにひとりごとをいう。


 「あんた、ムシしたね」


 はじめに声をかけてきた少女がいった。


 「へんたいなんかほっておいて帰ろう」


 攻撃的な声が不満げにひびく。

  もう一人、側にいた少女がうなずいて、近づいてくる。


 「へんたい」

 「ばか」


 うれしそうに、四人の少女が横断歩道からすこしそれた道路の真ん中あたりをかけだす。


 「きょうは、はやいお帰りで。さようなら」

 「おまえにかまっているひまはうちらにはないの」

「あんたの相手はまた明日ね」


 二人の少女の低い落ち着いた声と高いやわらかな声が畑に面した集合住宅の壁に当たってかさなりひびく。その間も森さんは背後をねらってうれしそうに近づいている。この情況が小学校で行われている学校警備の仕事だとは制服をきて、制帽をかぶっていないとみとめられないだろう、はた目にはどうみても小学生の少女と遊んで、いや、じゃれている運動不足の大学生くらいにしか見えないだろうし、へんたいと叫ばれるたびに通報され、校庭前の一方通行の道路から点滅した赤いサイレンが向かってくるのはまちがいない。制服をきていてよかったとこころからおもう、たとえ少女たちに飽きることもなく毎日のようにかっこ悪いと口にされている制服でも。たしかにもうすこし深みのある青というか紺のほうがぼくも好みではある。いっそ警官とまちがうような緊張する藍が。


 きのうのことのようにおもいだして文章を飾り、できごとを小説にしていると、軽快な音階でよびだし音が鳴りひびく。きてしまった、素直な感じたことばがこころでおとにならずにきえる。立ちあがり白壁に備えつけられた受話器をあげ耳にあてる。


 「なにかことばを発してくれるかな、必要な手つづきだから」


 こえがする、機械を通して聞いたこえは緊張からふるえていく。


 「ちょっとまって。いま、あけるから」


 王国に入るには、とびらにかかった二つの鍵がいる。あなたは一つの鍵をつかい、建物に入るため玄関のとびらをあけた。いまのあなたにはみることもふれることもできないもう一つの鍵を手にするまで、あなたがほんとうに王国に入ることはない。けど、それは時がみたしてくれるから、いまはそれが鍵だときづけていない玄関のとびらをあけた鍵があれば十分。


 おどろいたかな、魔術師が住んでいる建物にしてはあまりきれいでないし、はっきりといえばたしかに白いんだけど、白くもみえない古い建物だから。ぼくの家は五階建ての二階、真下は業務用の賃貸物件になっていて小中学生向けの予備校になっている。


 建物の間取りを説明している間に家の玄関についたあなたは呼鈴を鳴らし、とびらをやさしく叩いた。


 「いま、あける」


 呼鈴はこわれているから押しても鳴らない。普段はだれもこの家に入ることはないから直す必要もない。


 「きれいにしてないけど、はいって」


 おもいとびらを押しひらくと、あなたは家に入ろうとして、硬直した。


 「せまいからおどろいたかな、たしか五畳しかない」


 どうしてかたまっているのか見当はついている。けど口にしない。想像できないじたいにどうしていいかわからず、それでも後について玄関から奥に入ってきた。


 「すわって」


 緊張した目線が床をなぞり、最後にたすけをもとめるように顔を見た。


 「すわるところがないと感じているかな、その辺の袋を適当にどかしてすわって」


 あなたはきたないものでもさわるように半透明の袋をつまみ、すみにかさねた袋の上に置いた。


 「いきなり切りだしてわるいけど、実はあまり、いや、かなり時がない。ぼくはたしかに魔術師で魔術をかけれる。けど、お金をもっていない。あらゆるものを変換するためにあみだした方法が金による等価交換、金があるものはあらゆるものを金で交換して手に入れることができる仕組み。だけど、この仕組みは不完全で欠陥をふくんでもいる、みとめたくないものには欠陥はきにならないし、欠陥さえも必要なことだとしかおもえない、つまり、ぼくには自由にできるときがほんとにわずかしかないから」


 立ったまま、あなたはうごかない。硬直がとけていない。


 「家のきたなさにおどろいてるかな」


 この家のきたなさは意味がかくれている。いまのあなたではきづきようもない。


 これから、とけない魔術の仕組みを紐解いて明かさないとならないわけで、覚悟はしてきてということは語ってなかったかい、しんじるがそれにあたる。


 「この家に足をふみ入れたらおどろく、たしかに。なれてしまったけどぼくは。大切な話にもどす、あなたに魔術のかけかたをつたえるために仕事を休んでいる、天に富を積んできたからまずしい、仕事を休んでいるといきていけない。休めるきげんは三日しかない、三日の間であなたにぼくの魔術のすべてをあきらかにしないとならない」


 ことばがきこえているのかきこえていないのか、こころここにあらずという感じの目で床をながめている。


 「そんなにきになるかな、家のきたなさが。なら、なぜ家がきたないかの解き明かしというか、いいわけからこの小説における景色の描き写しの、こころのことわりの描き写しのなぞときをしよう」

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