第六章 3

 目覚めたことにあなたは気づいてなかった。寝返りを打つようにして、耳をとじた、泣かれるのが嫌いだから。


「多田君だよね」

 廊下ですれ違いざま観察するように近づいてきた男はあなたの主治医であることを分からせる単語を並べ、大事な話があると冷たい顔で診察室の扉をあけた。直ぐにもどってくると告げ階段を駆け上がる。

 病室の扉をあけた。目が合った、瞬間頬が緩む。ほんとにうれしそうにあなたは微笑む。

「先生に呼ばれてるからすこし行ってくる」

 ことばを理解したあなたは表情を固まらせ、不安げな顔が微かに引き攣る。

「早く、もどってきて」

「わかった」

 微笑み、扉をとじた。



「遅くなった。ごめん」

 息を切らし、あけた。

 ベッドに姿がない、飛び出し、必死に階段を駆け上がった、はじめて見たあの時の、精神を分裂させた微笑が脳裏を覆い尽くす。

 夕闇の薄暗い部屋。部屋の電気をあなたはつけてない。窓際の姿見のまえに見たことのない白いドレスを着て座っている。

 帰ってきたのも気にとめず鏡に向かって色を失った唇に紅い口紅を引く、浅黒い顔が化粧で真っ白になっていた。

「ゆり」

 近づいて呼びかけた。

 黙ったままじっと見つめ、あなたは突然微笑んだ。

「あなただれ」

 思考がきえた。

「後にいるのは」

 反射的に声がでた。

「だれもいない」

 浅黒い指が鏡を差す。

「ほら、笑ってる」

 指差した先を見る、鏡に映る自分の顔が、唇がふるえている。

 鏡に映った微笑みに、振り返り呼びかけていた。

「ゆり」

 虚ろに見る白い顔が、笑う。

「ゆりなんてしらないわ。わたしはミカ」

 背筋に冷たいものが流れる。

 大声で笑い出し、母親を罵り、あなたは泣いた。

 分裂病を再発したあなたは母親のもとにもどり帰ってこなかった。会うこともないと思っていた。身勝手な母親から電話があった。精神病院であなたがぼくの名を呼んでいる。

 焦点の合わない目が見た。

 顔がニキビだらけにもどっている。摘まんで潰しては紋白蝶の卵に似た油の固まりを一つ一つピンセットで抜いた頬が見る影もなかった。

 ベッドに腰掛けたあなたは譫言のようにぼくの名を呼んだ。

 名を呼ぶだけで闇に沈んだこころは目のまえのぼくを見つけることができない、もうあなたは壊れていた。あの時の徳永のことばがこころの奥で甦る。

「お願い、最後だから」

 潤んだ目が囁く。黙ってうなずいた。

「ゆり、多田君が好きみたいなの、わたしが多田君と話しているのをいつも羨ましそうに見てる。ゆりと仲良くしてあげて」

 うなずいた。徳永が微笑んでいる。

「さよなら」

 徳永の目に涙があふれる。徳永が背を向けて扉をしめた。

「さよなら」

 悲しみを失ったこころが痛む。錆びついた扉をあけた。人の姿がある、屋上の縁に立っていた。なにも言わず近づく。

「先生に、なにを言われたの」

 すがりつくような目がことばを並べた。

「結婚するのかときかれた」

 ちいさくあなたが笑った。返事は決まっている、それが交わした契約。

「ここにくるなと言われた。もう治らないと」

「昔、退院した時に言われたの治らないって、病気は薬を飲みつづけるしかない、ここを出ても直ぐにもどってくることになるって」

 あなたの目に涙が浮かんだ。

「わたし、薬飲まなかった。知られたくなかったから、頭がおかしいと知られたくなかったから。二人で暮らしてたとき、幸せだった。けどいつも不安だった。いつかは幸せが壊れるとわかっていたから。わたしが病気だと知っても優しくしてくれたときうれしかった。病院に会いに来てくれているのがわかったときうれしかった。だけど、不安になった。いつも思ってた、今日はもう来ないんじゃないか、明日はもう来てくれないんじゃないかって。いつも来る時間になっても来ないからもう会えないんじゃないかと思った。苦しくて、おかしくなりそうだった、いなくなって不安が押し寄せた、幸せがまた壊れると思ったらここに来ていた」

 目にあふれていた涙が、流れ落ちた。面会の帰り際に姿を目で追う淋しげな顔がかさなる。

「泣いていてもなにもはじまらない」

「死にたい。わたし死にたいよ」

 涙をこぼしながら叫んだ。

「死にたいなら、飛び降りればいい。ゆりが飛んだらぼくも飛び降りるから」

 涙で濡れた顔が見つめる。

「生まれて直ぐにぼくは精神に障害を負った。小学生のとき、ビルから飛び降りて死のうとしたけど結局飛べなかった」

「おかしくない、壊れてない」

「治ったんだ。バットで尻を叩かれもとにもどった。けど、眠っていたもう一人のぼくが目覚めてしまった」

「もう一人のぼくって」

「飛び降りようとしたとき、見たんだ。建物の下でぼくを見て笑ってるぼくを。もう一人の自分を見ると死ぬと言われてる。今まで幾度となく死にかけた。ゆりと死んでも惜しくない」

「死なないで」

「ゆりを死なせたらぼくも生きてはいない」

 泣き濡れた目を見つめ、手を差し伸ばす。

 手を握りしめ、あなたは体にしがみついた。

「手のひらを広げて」

 ポケットからつかみ出し手のひらに落した。

「あ、十字架」

 うれしそうにあなたはいった。

「遅れたのは教会によってきたからなんだ」

 うれしそうな顔を見つめていった。

「明日からたまにしか会いに来れない」

 もう一つ十字架を取り出し、不安に襲われた目に見せる。

「光が二人を導いてくれる」

 金色の十字架が夕焼けの空に光る。

「おんなじ」

 子供のような声でうれしそうに見つめるあなたの首に十字架をかけた。手の中の十字架をあなたがぼくの首にかける。

「おんなじだ」

「苦しくなったら見つめて、闇にあるこころを光が照らす」

 あなたが不安を顔にする。

「病気は必ず治る」

「先生が」

 口を押さえことばをさえぎった。

「治す、ぼくが。ゆりはただ、ぼくをしんじて。どうしても会いたくなったら十字架に祈る、必ず会いに来る」

「ほんと」

「ぼくがうそをついたことがあるか」

 あなたはおおきく首を横に振った。

「治ったら教会に連れて行って」

 神父の顔が浮かんだ。

 あなたが不安げに見つめる。

「必ず、教会に連れて行く」

 強く抱きしめ、心でつぶやく。うそつきなんだ。ぼくはいまも壊れたままだ。


 あなたは一つの短編を読み終わると、先程の短編の隣の原稿用紙にカーソルを重ね二度叩いた。また一つ、断片として描かれた短編の小説が開き、あなたはその小説の世界に入っていった。


 音を立て電車が揺れる。


 託児所の玄関の窓から笑顔で見送る子どもの穢れない顔が、輝きを放つあどけない声がひとつひとつ浮んでは流れる景色に消える、電車は隣の駅まで来ていた。ゆりに結局話せないまま託児所を辞めた。緊張が甦り、記憶のなかの顔がわらう。


「人を殺したこと、ある」


 魔法に関する本をぼくは読んでいた。きかれたことに気がつき顔を上げると嬉しそうにつづける。


「わたしは人を殺した。殺す時サヨナラって言った。悪者みたいじゃない、夢だと直ぐに分ったけど心のままに殺したの」


 空気が皸割れていく、息がつまる。逃げたい、感情がわめく、理性を消し飛ばされそうになりながら、見つめる目が冷めていく。


「頭の痛みの原因が分った。数年前に治してもらった銀を被せた歯が神経を残したまま膿んでた。今日、歯が痛くなって診てもらって偶然分った。あの時痛くなったのは遊園地を歩き回って熱がこもったからだと先生に言われた」


 笑顔がつづける。


「夢のなかで手首を切った。幾度も、幾度も、ナイフを手首に当て切り裂いた。痛みが走り血が流れる、笑いながら垂れ落ちる血を見つめる。いつも目が覚めて ひとりだということに気づく、悲しかった。痛くて、痛くて、本当に死のうと思った。あの時、電話がなかったらきっと、耐えられなかった」


 通い慣れた道を歩く、耳に泣き声がこだましていた。

 アパートのそばにさしかかった時公園に生い茂った木々の隙間に満月が浮んでいた。

 呼ぶ声がした。走ってくる。足早に歩いた。


「お兄さんから電話があった」


 ちいさな声が震えた。

 作りかけた笑顔が凍えた。


 受話器から聞こえる声に金を借りたことはないと言うと、狂ったようにわめいた。


 あなたが泣き出した。


 正光が電話に出た。五万を借りたかときかれ、思い出した。高校の入学祝いと渡された金が五万だった。いらないと言うと怒り出し、無理やりポケットに詰め込まれた。正光さんに立て替えてもらうことにして受話器を置いた。


「あれがゆいとの兄さんなの、いまにも噛みつくような声で金、金、金って。自分が無理やり渡したお金を返せなんて」


 あなたはずっと泣いていた。


「どこにかけるの」


 答えないまま番号を押しつづけた。


「ふみえさんにかわって」


 正光がふみえを呼んでいる。冷静に、かたちだけでも穏やかに話す、不安を見せる顔を見て心に刻みつける。


「なに、じゃねだろうが、なんであいつがここに電話かけてくんじゃ、おめえが番号教えたんやろうが」


 緊張の抜け落ちた声が過去を呼びもどす、焼きつくような感情の霧が理性の輪郭を隠す。


「しかたないがね、ものすごいけんまくで健一が金返さんてうるさくするからよね、兄ちゃんは借金で首がまわらんなっておかしくなってるだけやが借金さえなかったら優しい子なんや」


「おめえがやつを甘やかしてあんなにしたんだろうが」


「なにをいってんのね、お母さんがなにをしたというの」


 声、こえ、深い霧に包まれたこえ。

 まぶたに溺れていた涙が蘇った。


「おまえは自分のエゴであいつをおれを産んだんだ。おまえがやつを殺せ、おまえも死ね」


 叫び、意識がきえた。


 幼い日のぼくが泣いている、血に濡れた足、草野喜美恵が狂犬病、狂犬病とわめいてる後で多田ふみえはあくびをしている。


「ふみえさん、ぼくが犬に噛まれたことをおぼえていますか、あなたはあくびをしています。あなたにとって女の子ではないぼくはどうでもいいようです。知っていますか、あなたが女の子を望んだ本当の理由は」


「ゆいと」


 あなたが名を呼んだ。


 眼差しに、電話を切った。


 こぼれる思いにうごかされ口をひらく。


「怒鳴り声と悲鳴が聞こえる二段ベッドの下で、布団を被ってどうしたらみんなが幸せになれるか必死に考えた」


 あなたはきもちをつないだ。


「わたしも考えたよ、なぜ両親は仲が悪いのかとか、祖母はどうして冷たくするのかとか、思い通りにしないわたしが憎かったみたい」


「テーブルの上にショートケーキが乗っていた。八回目のぼくの生まれた日だった。正光が酒臭い息をして帰ってきた。ふみえは余計なことを言って正光を怒らせた。いがみ合う声、ふみえが汚いことばで罵りつづけ、正光が酒の空きビンで殴った。起きあがったふみえが刃物を持ち出し、正光に切りつけた。血を流した二人が泣いた。ぼくは望まれて生まれてなかった。日常だった。ふみえは学校にさえ行かせればいいと思っていた。親など意味もない、物心ついた時から親はいないと思って生きた。だれからも理解されない、どうしてぼくは生まれてしまったんだろうって、いつも考えていた。町屋に冗談のように特異なちからの話をしたら、なぜかあいつはすぐにしんじてそれから会ったこともない女の話をするようになった。そしてあの日ゆりがいた」


「あの人、大学であなたの話ばかりした。だれかも知らないのに多田君は特別なちからを持ってるんだって真剣な顔でいつも言うからいつしか会って見たいと思うようになった。だからあの日、彼のアパートで待った」


「ゆりに会った時にはもう、ちからを失っていた」


 顔を見合い笑った。


「だれが君を咎められようか、唯、赦されぬ思いはいつわりだけの悲しみを導く、か」


「いまのなに」


「讃美歌に書いたことばだよ。すべて決っていたことなんだ」


 これまでの思いが結ばれ疑いつづけた真実を打ち明けた。


「ゆりに会う前に本当に特別なちからを持った人に会った。その人が言った。ぼくの心のなかにはもう一人ぼくがいると。ぼくは彼のために生まれた人格に過ぎない」


「え、なに、彼って、だれのことをいってるの」


 生まれてからの不可思議な出来事を覚えてるかぎり話した。記憶を辿りながらぼくは彼のことを氷解した。


 揺り起こされた。


 ぼやけた光がまぶしい、目があかない。


「散歩に行きたい、今日はまだ散歩してないよ」


 眼鏡をかけ、目覚まし時計を見た。溜め息を押し込め笑顔を見せる。


「わかった。早く準備して、外で待ってるから」


 ズボンに履き替え、上着を着た。扉をあける。廊下のちいさい階段を上がる、雨が降っていた。傘を取りに戻る。


 静寂の闇で赤い傘を広げ、半地下の窓を見つめた。


 薄緑の光が消えた。

 外灯の白い明かりで微かに光る小雨に、上機嫌の顔がかさなって見えた。

 公園の薄闇に影のように樹がそびえる。

 冷たい風に揺すられた枯れ枝から葉が舞い落ちた。


 声がした。

「どこをさんぽする」

「公園を歩こうか」

「うん」


 桜の樹の下を歩き外灯の明かりがとどかない真っ暗な階段を上がって広場に出た。帰ろうと言おうとして、顔を見て止めた。


「落ち葉の匂い。この匂い好きなんだぁ」

「もう少し歩こうか」


 手を握り、公園を出て緩やかな坂を上る、集合団地の端が見える所まで来ていた。広い通りを渡る前にもどろうと、顔を覗いた。


「秘密の場所教えてあげる、ケンカした時そこに隠れているの」


 握られた手に雨が落ちた。

 枯れた街路樹が通りの両脇に並ぶ、赤く点滅した信号を見ながら横断歩道の白いペイントを跨ぐ、幾度となく歩かされた過程をまた、たどる。

 ぼくの思いを引きずり、跳ねるように歩く、あなたはまたひとりのせかいに入っていた。


「もうすこしだよ、花が咲いてるの、雀がいっぱいいるの」


 楽しそうに話ながら歩く、腹部が痛い、相づちが空くと振り返った。ぼくのきもちに気づかずに、楽しそうに笑いかけ歩き出す。


 団地が並んでいる、灰色のフェンスに挟まれた同じかたちの建物を一つ二つと横目にしながら歩く、外灯に浮び上がった錆びきったフェンス、濡れたアスファルト、感じはじめた、緩やかに心が冷えていく、歪んで建つ校舎の窓が黒く、映った。

 手を離し、急に走り出す。

 外灯の明かりに傘を差したまま座りこんだ姿が浮ぶ。

 学校の横の道路にしゃがみ込んでいる、道路脇の小高い公園に上がっては、 出て来てまたしゃがむ。

 透明なビニールの傘が振り返り、手招きをする。

 近づくとアスファルトの上でミミズが蠢いていた。

 オレンジの明かりに浮び上がった数えきれないくらいのミミズを一匹一匹、手ですくっては公園の土の上にもどす。

 黙って見ていた。

 雨音が耳にこだまする、かげろうのように景色が揺れ、ことばが自然に出ていた。


「いつまでつづけるの」

「朝になったら車に潰されるから、助けないといけないの」

「きりがないよ、こんなにたくさんのミミズひろえるわけないだろ」

「わかった。車が通るまでやらせて、一台でも車が通ったら止めるから」


 返すことばが出てこなかった。


 冷たさと闇で時間の流れが見えなくなっていた。

 傘をたたく雨音に苛立ちが溶ける。


「もういいだろ。たくさんミミズをひろったよ」

「全部助けられないのは分ってるけど私の気が済むまで助けたいから」

「ミミズは自分で土から出たんだ。ミミズが助けて欲しいと言ったか、自然に干渉してはいけないんだ」

「子供の頃、生き物にたくさんひどいことをしたから償いをしたいの」

「子供の頃は誰だってやってる。しかたない事なんだ」

「私はミミズを助けるの、別にいなくてもいいから帰って、私の気が済むまで助けるから」

 悲痛な叫び。心が凍る。


 外灯が消えた。

 ビニール傘が濡れたコンクリートの階段に倒れている。

 汚れた手がミミズをひろっている。

 傘を差したまま、車がミミズを轢き殺すのを微笑んで見ている。 


 空を見上げた顔が、声を出して泣いた。

 水たまりが、きれいな波紋を広げた。


「ゆいと、どうしたの」


 心配げな声で、気がついた。

 振り向くと公園の前にいた。


「ごめん、おもいだしていたみたいだ」

「それ以上口にしないで、もうわかったから」

「ごめんな」

「謝ってくれてありがとう」


 笑顔には遠い顔が、一生懸命に微笑みを浮かべ、手を差し出してくれた。

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