第六章 2

「靴、底に穴があいてるだろ」

 ほどけそうな蝶を目にしながら話しかけると、強く握っていた手をあなたがはなした。

「だいじょうぶ。雨ふらないもん、ほら」

 表情を作りことばを発した、フレアーをひらひらさせながら空に腕を広げ、はちきれんばかりの笑みで見上げた。

「あれなに」

 好奇心が屈託のない短いおもいに旋律を起こした。ゆびさした遠くの空に、白い線が走っていく。

「飛行機雲。飛行機が作っている雲さ」

 ことばを並べ終わる頃には、黒眼がちな瞳が輝いていた。

「ひこうき。ひこうきか、のったことないな。でもいいや、ひこうきなれるから。ゆり、ひこうきなれるんだよ、ほら、こうすればひこうきだよ」

 幼さを表現した声色を発したかとおもう間に、ちからいっぱい両手を広げ、スカートをはためかせ緩やかになった坂をかけ下りる。ぼくは、遠く、青いだけのそらを見た。

「健一も、ひこうきになろうよ」

 遠くから聞こえる穏やかな声に視線を向けると、坂の途中で立ち止まり、あなたが見ていた。

「ぼく、二号機だから後で飛び立つよ」

 嫌悪感にゆがみそうな顔をぼくは懸命に、笑顔にした。

「うん」

 まっすぐな返事がきえ、沈黙が見つめる。遠くかすかに映る表情が変わる。

「よくがんばったね、愛してるよ」

 きれいな声が微笑み、飛び立った。虹のような微笑み、澄み切った気持ち。

「愛している。死にたい」

 声になり深い底から響く。

 赤い手帳に刻まれている文字が、ちいさくなる姿を見つめさせた。惹かれている。なくしたくない。感じたまたたく間、幻想が微笑んだ。

「決めたんだ」

 誓いを口から発した。色あせた黒いジーンズから十字架を掴み出し、陽射しに光った銀の十字架に祈り、ポケットに落とす。飛行機になり、かけ出した。

「ゆり」

 さけんだ。息を切りながらかけ上がってきたあなた。泣き出しそうな顔が両手を広げ、抱きついた。


「帰りは歩いて帰ろうよ」

 極めて柔かな顔を作ってあなたはいった。うなずき、階段をかけ上がると一番端の券売機に千円札を入れた。吐き出される小銭をポケットに突っ込むと、黙って切符を渡した。たしかに付き合い出してはじめた三度目のバイトを一ヶ月で辞めたばかりだった。夢を見せようとしたぼくを、あなたは一駅区間の片道運賃で現実に引きもどした。

 愛想のない駅員のどこにでもいるような顔が目の端に映る、改札を抜け、階段を降りる途中で再びあなたから手をつないできた。電車の音がした、視線を躱すように電車を見ると上りが近づいてくるのが見える。手を強く握ったまま、あなたは走り出した。


 藻に覆われた川底が白いフェンス越しに映る。

 錆びた自転車が水に浸かっていた。

 生活廃水で汚れた河川の脇を歩きながら、流れる灰のような雲をみていた。

 電車が横を通りすぎていく、アスファルトの上、ためらいの欠片も見せなかった足が止っていた。

 あなたがそらを見上げた。いまにも泣き出しそうなそら。うなだれたままうごかなくなった。

 ぼくは歩み寄った。うなだれたままあなたが手を差し出した。握った手に雨粒があたった。

「次は、休園日を調べてくるよ。ごめん」

 楽しげな絵の描かれた看板の下で、休園日と書かれた文字を見つめるあなたにいったことばを繰り返した。

「私の気がすむまで謝りつづけて」

 懇願するように訴える顔に、うなずいた。あなたの冷たい手、体温が奪われていた。

「今度の二人の記念日に来よう」

 笑顔を作って明るくいった。穏やかな顔に、少しだけなった。

 強くなった雨に二人はぬれていた。しりとりをしながら、握った手をおおきく振り、歩いた。

「リス」

「すずめ」

「やっぱりもっと、もっと早く行きたい」

 足が止った。顔が強張る、精一杯笑顔にもどし、あなたを見た。 楽しそうに振舞っていた顔から笑みがきえた。

 どちらからともなく、視線をそらした。

 ちからなく握られていた手をほどき、歩き出す。ぼくが、あなたの存在をけした。


 泣き声にいらだち、振り返った。

 遠くから、涙と鼻水でぐずぐずになった顔が嗚咽を上げ見つめている。十字架を掴み、ぼくは立ち尽くした。あなたがうつむき、通りすぎた。


「ゆり」

 よび声に足がとまった。

「惹かれている、うしないたくない」

「もうおそい、わたしがどんなきもちで十字架をわたしたか、あんたかんがえたことあるの、あんた、いつたいなに」

 降りしきる雨にさけびがとける。よぎったおもいが遠く、碧いそらをみていた。

「かなしいという感情がぼくにはない、うしなったんだ。君を傷つけても、かなしくないんだ」

 あなたの肩が揺れる。

「わたしが死んでも、健一は悲しくないんだ」

「あいしている。うしないたくない」

 たおれるように視線を落とし離れようとあなたが足を引きずった。洗い立ての白い靴が泥水を吸い込み汚くなっていた。離れようとする体を、抱きしめた。

「あんたの手は抱きしめるためじゃない、首をしめるためにあるんだ」

 絡みつく茨の棘が刺さる。

「あいしてる、ゆりだけはうしなえないんだ」

「ころせ、ころせよ、なぐれよ、首をしめろよ、やりたいんだろ、いつものようにやれよ。はやくころしてよ」

 さけびが、えぐる。這い上がる憎しみ、怒り、衝動が、幻覚がわらう。

「ほんとうにあいしている。うしないたくない」

 抱きしめた。

 声を上げ、泣いた。

 あなたは、腕をほどいて走り出した。

 振り返った、涙を見つめる顔が、雨にぬれる傷ついた眼鏡に映る。素直で、うそが大嫌いなあなたがはじめて、ほんとにむりに微笑んだ。

「ゆり」

 さけんでいた、飛行機が飛び立つように、翼のように手を広げ、かけ出していた。

 両手で抱きとめ、あなたがつぶやいた。

「飛び立ったね、尾翼の折れた飛行機」


 十字架を痛いほど握りしめ、またぼくは、誓った。



 目をひらくと、橙色の薄闇の中で時折マウスが押される音がした。あなたが小説を読んでいる。押し殺した啜り泣きに、目を強くとじて耐えた。


 手を振ると、表情をかえることなく歩み寄り、イスに腰掛けた。白い肌をした少女のような顔で見つめている。薄桃色の唇を眺め、くちがあくのを待った。

「多田君、いくつ」

「はたちです」

「ゆりさんは」

「君よりはいくつか上。君付けでいいかな」

 言葉を放るような話し方が整った顔をやわく見せる。

「構いませんよ」

 かるく笑顔でこたえ、切り出す機会を計っている給仕の顔を見て、些細な沈黙を合図にする。

「私、珈琲」

 注文を告げ、あなたが立ち上がる。

「化粧室どこですか」

 過敏過ぎるくらいに冷静な声でたずねられた給仕がゆったりとした空間とゆっくりとした時間を意匠の意図にしたと感じさせる広い広間の奥を指差す。

 薄い水のそれでいてどこか華やかさを意識したのだろうと感じさせる色の衣裳が、実用面などを考慮して造形を意匠した人と着る者のことを意識して図案や模様を考案した人の意図を外す動きで指差した方向に行く。

 自分の演じる役割を全く理解していないその他大勢役を地で生きる愛想のない給仕に注文を告げ、機械仕掛けの人形のように等間隔で揺れる脚を見送った。


 あなたが戻ってくるより珈琲ゼリーが運ばれたのがわずかにはやかった。

「食べて、先に。長くなるから話」

 生クリームのかわりに載せられたアイスに匙を差しこみ、黒い塊に塗りつけるように急いて食べる。

「運命は変えられると思うかな」

 細い指で軽く器の取っ手を押さえ珈琲に入れた角砂糖とクリームを重い匙で溶かし合わせながらあなたが問いかけてきた。

「かわらない」

「多田君にきいたの。変えられるかな」

 問いかけを繰り返し、見透かすような目で見つめられた。

 言葉は考えようとせずに思うことも感じることもなく出ていた。多田君にきいたという言葉の意味を考えようとしても思いや考えが形にならない。

 あなたは百合の花を模した白い器を唇に持っていくと一気に飲み干し皿ごと机の端に寄せた。

 膝の横に置いていた小さめの鞄を開け、トランプを取り出す。

「好きにきって、ならべて」

 ラピスラズリから色と質感を写し取ったようなトランプを渡された。

 なにか考えようとしても思いにならずにただ、命令文に従い動く機械のように行為に意味を求めることなくカードを並べ続け白い机は紺碧の海と化した。

 海面を太陽の照り返しで白く光らせるようにあなたが描かれた数を声に変えながらカードを表に返す、次々と言い当てる声には疑いようもなく確信の響きが重なった。

「出来るの君にも。これはなに」

 当たり前のようにあなたは口にし、語尾の音をわずかに上げた。

「7、ハート」

「これは」

「2、ダイヤ」

 声に寄せられたように意志とは関係なくおもいが出ていた。

「運命とは必然なの、私がいま、君の前にいるのも君がこの世界にあるのも必要があるから。君もそう思って生きてきた。力が消えたのもこれから起こる必然の序章に過ぎなかったの。私が君の働いている店で働いたのも、君があの店を選んだのも」

 言葉に刺激され、深い海の底から気泡が浮かび上がるように面接を決めた時の朝に心がなった。

 室温が肌に重く、なにげなく部屋の扉をあけた、渡り廊下に面した手洗いの窓硝子の格子に新聞が挟まっている。配達の人が間違って入れた頼んでいない新聞を部屋に持ち込み、広げた。折り込みの一枚に新規で開店する飲食店の従業員募集広告が、目にした瞬間に新しい勤務先に決め、電話をかけた。

「あの子の言葉」

 不意をつかれ、記憶が途切れ、夕闇の薄暗い部屋にいた。

 電気をつけてない、窓際の姿見の前に見たことのない白い服を着て座っていた、帰ってきたのも気に留めず鏡に向かって色を失った唇に紅い口紅を引く、浅黒いはずの顔が化粧で真っ白になっていた。

 黙ったままじっと見つめ、微笑んだ。

「あなただれ」

 思考がきれる。

「後にいるのは」

「だれもいない」

 反射的に声が出ていた。

 浅黒い指が鏡を差す。

「ほら、笑ってる」

 指差した先を見る、鏡に映る顔が、唇が震える、鏡に映った微笑み。

「いま、想い出した言葉、精神が分裂していたあの人には真実がみえていた」

 装っていた冷静を剥ぎ取られた。

 焦る、退化していた警戒心が総毛立つ、こころをよんでいる、他人のこころをみることが出来たことを知っている、みえる、 真実、なにをいってる、理解が追いつけない。

「みえてるよ君のこころ」

 言葉に確信がある、ぼくの失った確信が。なにかがついてる、ぼくに。

「本当の君」

 なんなんだ、君はなんなんだ。

「その問いは必然にないから答えられない」

 言葉に、足を支えていたなにかが、崩れ落ちていく、意識が浮いていく、震える手、足。三半規管が平行を失い感覚がなくなっていく、まとまらない思考、言葉に、言葉の形に答えを求める。

「どうすればいいんですか」

「幽体離脱が出来ればみえるけど、無理だと思う。本当の君がさせないから、解りづらいね本当の君のことは彼と呼ぶことにする」

「本当のぼくとは彼とはなんですか、幼い頃みた幻に関係あるんですか」

「太古の聖人が教えている。天使がこの世界に降りようとすれば人間にならなくてはならないと」

 天使

「言葉にはしないで。たとえ気づいてもこれからもけして言葉にしてはいけない」

 思考が言葉になる前に止められた。

「君のために必ず守って。信じられないのは理解出来る、でも魔法を学ばなければならない運命なの。求めれば必要ならば必ず本当のことがみえるようになる。真実は聖人の残した書物に記されている。どんなに言葉を飾ろうと誤魔化そうと真実となる道はひとつしかない、あるのは茨の道」

 茨しか歩いたことなんかない。

「真実の茨をしることになる。前には見渡すかぎり、薔薇が咲いていく、運命からは逃げられない。信じなくてもいい。私は伝えるだけだから。否定しても現実が魔法を学ばせるから、それさえも赦さないだろうけど彼は」


 あなたが立ち上がった。

「祈っているから」

 店を出ていった。

 祈りという言葉に足の震えは止った。

 祈ってなにが起こる、なにもかわらない。

 からだが重い、どこか疑ってるような騙されているような、感情と見識と理性が粉々に砕かれ、非現実的な言葉が激しく揺れ動くこころを捕まえ、現実の世界で立つことが出来ずに、溶けきり液化した氷菓の海から覗く黒い塊を見ていた。

 雑然と会話が聞こえるなかで子どもの声が気にかかった。

 顔を上げると入り口で母親と思える二十代後半くらいの女に、小学校にまだ行かないくらいの男の子がしきりに小声でなにかを言っている。しゃがんできいていた母親と目が合った。

「へんなこといわないで」

 おっとりとした声がした。子供を相手しながら見られていることを意識している。

「はいはい、わかりました」

「ほんとだって、はねがあるんだ」

 思考が止った。

 スーツを着た女が軽く会釈するのを目にしていた。

 声を響かせた男の子の澄んだ眼差しが刺さる。

 手を強く引かれたなにか言いたげな顔が、閉じられた色硝子の向こうに沈んでいく。


 白い水面に匙を刺し、かき混ぜた、重く黒いなにかが白い微かななにかと混ざり、溶けるようにかたちを失った。

 はね、現実がたしかにはっきりとこえにした。

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