第六章 羊は立ち

 しってるかな、いや、もう知ってるかなでいいかな、きづいてるとしんじる。しることは知ることからはじまった、それは式の解き明かしの頁を読んだのだからきづいたはず、知とは解字すると矢のことで知るとは矢のように直に口にすること。ではあらためてたずねるけど、しってるかな、微笑でしれたあの絵。まだぼくは実物は見たことない。けど美術館に飾ってあることはしってるから機会が出来たら行く、必ず。あの絵には謎が多くて原形となった人物はいるのか、いるとしたらだれなのか、背景は実際にある場所なのか、実際にあるとしたらどこなのか、絵に意味はあるのか、意味があるとしたら、その意味とはなにか、これらが噂と憶測で語られつづけられ、それでも未だに事実は解き明かされないまま絵は色あせ本来の色彩を失いながらもその笑みは、見る者になにかを語りつたえてくるらしい。あの名画と呼ばれる絵のことを絵を描いた人のことをぼくはすこしだけ調べたことがある。ほんとはかなり調べたつもりだけどほんとのことはほとんどわからないからすこしだけと口にしているのだけど、もしかしてもう一度、あなたに会うことがあれば、こうやってあの苦しくも輝いていた日々の記憶を、もう一度おもい出し、あの時の過ちに気づいたことをあなたが見せた微笑みのほんとのわけに辿り着いたことをことばでも仕種でもなくいまの姿でつたえられたらと願うんだ。もっとも名のしれた笑みを描いた画家はあの笑みを幾度となく、幾度も、幾度も描き直し、描き加え、はじめの姿はほとんどいまのあの絵には残されていないといわれている。ぼくが描いている小説ももう幾度書き直し、書き加えたか、原稿用紙で三百枚を予定していたものが千二百枚を超え、後は、数えることさえあきらめた。いつしか自分で描いているという思いもきえていき、だれかのおもいをかたちにしているようなそんな気さえしてきた頃、まったく違うかたちでかたちなす物語が現れ、ぼくが思い描いていた讃美歌は、彼のおもいをぼくが描いていき、いまもこうやって描き綴られている。切実なる思いを詰め込んだ短編を、どのようにつなぐのかは、実はぼくにさえ、ほんとにわからない。それはまるで考えることも思うこともなく打たれていく電気の信号が文字へと変えられ、文字が一つのまとまりとなり、文章としてかたちを持ち得たときその文字がなんらかの意味を持っている文章と成ったのだと自覚されるに過ぎない。文章を書き終わるともう一度自分で打ち込んだ文字の列をいや、もう一度どころか幾度も、幾度も読み直し、読み直して、彼がほんとにつたえたいことを文字に言葉におもいに変えることができているのかを確かめ、彼に認められたらその意味を最後に記していくことになる。もっともはじめにぼくが描いた小説と呼べるものは微睡。原題はめくれそうなそら。もう、もっともはじめの姿をしることは叶わない。けどいまがもっとも良いと思っている。どれだけ書き直しても書き加えても微睡に映る笑みは変わらない。色彩のない文学のせかいだから永遠に色あせることのない笑みをあなたが讃えている。これか、彼が絵画ではなく文学をみずからのおもいをつたえる手段として選んだ理由。いま、心につたえらたなにかはぼくの思い。だけど真実だとあなたに彼のおもいをつたえることは叶うだろうか、微笑の理由を。


 あたらしく書き足した文章と前に書いていた文章の整合性を見ながら小説として成り立つかを読み直していた。時が変わり、ことばが変わり、きもちが変わる。もっともはじめの短編をしらないと、これほど変えてもはじめからこのような小説として読むのだと思うと不思議なきもちが生まれる。


 まっさらな小説を読むようなものなのかも、生きるってことは。ふと、そんなことを感じたことも、文字にして残そうと携帯の硝子に触れた。ほんとうはこの小説を描くことを半ばあきらめていた。たくさんの時を描いてきたけど、短編をたくさん描いても短編をどうやったらひとつの小説としてまとめることができるのか解らずほとんど描けなくなった。一年前にある女の人と奇遇を得た。その女の人には不思議なちからがあった。未完成な不出来な短編をひとつの長編小説にまとめあげる手がかりをあたえた。協力というか、脅しというか、そんなありえないような出会いがなければこの物語は永遠に触れることはなかった。


 おそらくそれは事実。あなたがまだ見ぬ笑み、微笑の秘密にあなたはまだ触れていない。


 夢から覚めたあなたはことばにできないきもちに揺りうごかされ、橙色の薄明かりのなか、休眠状態のPCを起こし、淡い空を映す。彼方と書かれた書類入れをひらき、未読の番号を振られた書類に描かれた羽を叩く。


 書かれた文字を色に変え、音に変え、声に変え、気持ちを描き情景としながら白日夢のようなことなる仮想の現在におちていた。


 かすかに。

 痛、ひかり。


 やさしいぬくもりがさしこみ、まぶたをゆらす。

 ふれるほお、ゆびがぬれ。

 ないてい、た。


 にじむ情景をとざす、きらめきが深い、つめたいやみにこぼれ。

 おとが耳をたたく、輝きがもれ、た。


 陽射しをうつくしいと感じ、すける指先をみつめた。

 ひかりがいろをなくす、うつらない、ふいになきぬれた横顔がみえ、いや感じて、藍にきえた。不安とも不快ともとれるなにか、突き落とされるような、落ちつづけているような冷たい感覚。


 伸ばした手で掴もうと。


 おきあがっていた。

 にじんで映るしろ、あせた布団が窓から射すひかりを浴びていた。やわらかなひかりから目を背ける、曖昧な感情がよみがえっていく、眼鏡をさがそうと、立ちあがろうとしたとき、きこえた。


 不快に響く、聞きなじんだ記憶のおと。上書きされた感情がかたちをくみかえようとしているかのように、ひかりを感じなくなった瞳から、もとのかたちをうしなった情景が読み取られ、こぼれるしずく、ゆがむ風景、映しとられた光景、ぬれる瞳。こえが、だれか名をよんだ。さけびが、きれ。


 ほおを、風がなでた。


 あけ放たれている窓、冷たい空気で肺を満たし、こぼれる吐息がした、おしつける理不尽な欲求にたたかれ、おもく、沈んでいく感情が、歓喜をよびさます、鋭い茨に刺しつらぬかれ、ながれる血を地とするように熱い風が、すぎていく。


 どこだろう、この景色。

 どこででもみてきたようなくらいいろが眼の奥にかすかにながれ、あのとき、に置きわすれてきた、悲しみに似たおもいを。


 とざした。なにかをみていた、やわらかな感触が、ぬくもりが、顔にふれている。

 毛布をかぶっていた、物心ついたころしみついた癖は二十三になったいまでも発作のようにおきる。毛布をぬけた陽射しが目にひかり、まぶたをつよく、とじた。

 冷たいやみから、かすかにこえがした、響く。

 湧きあがるあくび、かみ潰し、いくどか深い息を吐いた。汗ばむ手で毛布をまくり、おきあがった。


 カーテンがゆれる、昨日を、おわりをさかのぼる、おもいを今日に描いても、微笑んで目をとじたあなたは窓に腰掛けていた。目をそらし、深い息をもう一度、吐いた、布団を照らす陽射しをみつめる。


 おもい吐息が、した。すぐそばにあなたはいる、でも、うまれたときから乱視の眼には感情が。


 手を伸ばせばふれられそうな距離が遠く、にじむ空、淡いあおをみつめた。


 神などしんじていない、けれど十字を切った。硝子窓をすべてあけ、枠に腰掛けていた。窓に腰掛けて空をみつめるあなたの姿をいくどか目にしてきた、それはきまって、だからまた、向けられた背に笑みを、描く。


「そこにいたんだ」

 すがたが揺れ、振り返った。


「目やについてる」

 こえが、して、息をのんだ。


「目やに、ついてるよ」

 不機嫌をおおうやさしい響き、ぼくは、陽射しにぬれた指をまぶたにこすりつける。


「まだ、ついてる」

 作ったようなもどかし気な声色に、指で押さえているらしい顔がかさなった。見下ろすようにかがんだ薄桃色のワンピースが空ににじみとけ睡蓮の一枚のようにみえる。繊細な花模様の服、お気に入りで同じ服をきてあいにきた、思い出が景色にかさなって、みつめる顔にモネの画集を見ていたときの嬉しそうな情景が映った。


「印象派の絵にしかみえてないんだ」

 情景に映る笑みをみつめるように笑いかけた。


「乱視だったね、記憶になかった」


 言い捨て、あなたは立ち上がった。頑に固まった感情がすぐに目に映った。いつも通りだった、布団に膝をつき、肩を掴んで覗き込む。たずねてきた。


「ここなら、どう見える」


 声、表情に感情の輪郭を刻んだ。目が赤く腫れている、ことばに出来ない、押し付けられ、あつまるおもいを組み立てるように考えにかえる、辿り着いた嗜好の塊を冷たいやみに落とす。

 咄嗟に文字が口をついた。

「モナリザにしかみえない」

 あなたは微笑をもらし、言葉を綴った。

「目をつむって」

 ほの紅い唇のうごきを目にし、言われるままに目をとじる、ぬれた熱が触れ、ゆっくりと目をあける。真顔が、ことばを発した。

「たべちゃった」

 表情をかえ、ちいさく笑った。

「ゆり」

 幼い声色が耳にとどいたまたたく間、指を握り、よんでいた。冷たい指。手を離し、やさしげな仕種でぼくの髪をなでる。張りつめた瞳が次のことばを待っている、あなたはいつも謝らせる。心から謝らせる。ただそのためにあのときと同じように、眠っているぼくにいらだち、起こすためにことばをかけた。はっきりとわかった、同じことを繰り返した、あなたは。

 謝る、しかない。ことばを作りこえにするしかない。

「夢をみていて聞こえなかったんだ。なんていったの」

 なにかがうごいた、おとが、囁きが聞こえたような気がした、喉がうごく、ことばを飲み込んだまたたく間、あなたの感情が燃えるのをみた、ぼくを他人を見るようなあの目で見た。腫れた赤い瞳がにじむ、立ち上がった。

 ことばを、あやまった。なぜこんなことをいったのかわからない。

 静けさのなか、ドアのすきまから聞こえる洗濯機のまわる音だけが響いた。


「めくれそうなそらだよ」


 後悔がいらだちに変わりはじめたとき、やさしい声がした。あなたはきもちを持ち直した。


「めくれそうなそらか、すごくいいね」

 あふれた感動が、ことばに変わった。伸び上がったように弾んだきもちの音は、行方の知れない沈黙にきえた。


 視線を落とし沈む息をかみ潰す。にじんだようにしかみえない背をみつめ、いつまでつづくかもわからない自問自答を繰り返す、つかれている、繰り返される。でも、すてられない。出会ったあのときから傷ついたこころは血をながしていた。つかれている、繰り返す、しかし、憎しみの張りついた穢れない眼から、最後には、いつもそう、いつも、おもいを離せない。


 意志を固め、顔をあげた。

 壁際の黒いCDボックスの上に置いた眼鏡が目にとまり、白色電球に照らされた昨日の涙がまぶたの裏にみえた。約束したことばを口にできないまま、ぼくは眼鏡を掴み起ち上がった。


 遠く、そらをみていた。

「ほんとにめくれそうだから」

 また、独り言のようにいった。


 ぼくは眼鏡をかけ、近づいた。傷ついたレンズに映るめくれそうなそらに、九才だったあのときの澄み切った碧いそらがかさなった。いつもそうだ、いつも、千切れそうなおもいに引きずられ、過去をみつめていた目をあなたに向けた。腫れた赤い目が見すえている、眼差しから逃げた。目をそらした青に、そらに薔薇が咲き乱れていた。幻想がみえていた。いつからかぼくは、幻想に落ちるようになっていた。


「薔薇が似合うそらだね。真赤な薔薇、咲き乱れる薔薇に蝶がとまってさ」


 幻想のなか、湧き上がったことばを口にした。沈黙に耐えられず、視線を向けると、うつむいていた。


「ゆり」


 よびかけると、顔をおおった胸にかかる髪をかきあげ、見上げた。


「バラに蝶はつかない」


 本性を隠さない声に、こころがおおわれ鈍くときが軋む。


「赤い、バラ、好きだよね、どうして、赤いバラが好きなの、て、きいたら、なんていったか、おぼえてる」


 顔がゆがんでいく、ゆがんだ悲しみを途切れ途切れことばにし、あなたがかすかに笑った。


「棘が痛いから」


 笑顔の記憶をおもい、ことばを口にした。目の前の現実、赤くにじんだ目が緩む。


「どうして」


 追い打ちをかけるような顔であなたが微笑んでいる。


「赤い薔薇を見ると、しめつけられるんだ」

 ことばにしめつけられたこころが凍りつき軋む。

 ほおの凍傷のような痕が目にとまった。冷めた瞳がぼくの目のうごきを追った。


「にきび痕。死ぬほど勉強した傷痕だよ、私が母さんを守るんだとおもったから、あのころは」


 いろをうしなった、かさついた唇が発した悲しみのにじんだ声が、記憶にあったことばを漏らし、ほおがうつむいた。


「ごめんな」


 ことばをつくろい冷めていく聞こえない音。機嫌を直すためにぼくはことばをつかう。あなたはうつむいたまますこしだけ首を振った。


「ごめんよ」


 機嫌を直すためにぼくはことばをかさねていく。あなたがかすかにうなずいた。


「百合の花が好きだよ、ゆりと混ざって生まれ変わったんだよ」


 あなたは百合が好き。ぼくは、薔薇が。握りしめる度に棘に刺され血をこぼしているのに嫌いになることができない。


 うつむいていた顔をあなたが上げたから赤いほおを、ぼくは掌で包む。ぬれた目が見つめた。

「さんぽにつれてけ、さんぽ。おこってるんだぞ」

 かさつき、あれた唇が笑った。あなたの機嫌を直すことしか考えられなかった。人の怒った顔が嫌いだ。あなたが怒った顔はとくに。だから平気でうそがつける。

「五月二十一日だったね。二人がはじめて出会った日」

 うるんだ目が、笑った。抱きつきそうな眼差しで見つめる。

「やっと思い出せた」

 うそをかさね、おおげさに笑った。

「ほんとぉ、ほんとに五月、二十一日、だと思ってるの」

 白い肌、ほおがふくらんだ。あなたのこころが晴れていく。

「ちがうよ」

 硬い声を出し、あなたは眉をよせた。表情だけで感情を描いてぼくは困惑して見せる。眼差しがとけた。

「ごめん、うそついたの」

 そういうとあなたは眼でぼくのこころをさぐるように見つめる、ぼくはもう一度笑って見せた。あなたはちいさな口をほころばせ、子どもにもどってほんとに笑った。

「にゃ、にゃー」

 子猫になって、てまねきをしてあなたはしゃいだ。

「お姫さまのお城に参りましょう」

 おおげさに微笑み、芝居をつづけると、じゃれついた子猫はうなずいた。

「昼食会の後で、遊園地にお連れいたしましょう」

 ぼくは調子を整え、ワルツを踊るように手を差し出した。

「まだ、朝ご飯食べてない。もう十一時なんだからね」


 素顔の声、棘のある声が、耳をたたく。


「それに遊園地に行くんだったら、もっと、早く行かないと、だいたい昨日のうちに謝っとけばこんなに遅くから行かなくても良かったのに」


 昨日も謝った。手をやさしく握って眠りにつけたことをあなたはわすれていた。不満をさらけだした嫌な顔が終わったはずのおもいを積み上げる。ぼくは嫌なおもいに包まれていた。こころの奥に込み上がる笑い、唇を噛んだ。奥底で渦を巻く幻想が現実にあふれ出ようとしていた。あなたが見ている。現実のぼくのなかであくびがあふれる。幻想の笑い声が音として響き、歓喜が背筋を這い上がった。

 現実を幻想の渦がおおい、意識が混濁していく。白い光のなかにほおを青黒くしたあなたが立っている。握りしめた拳にこびりつく赤い血をぼくは見た。

 あなたがわらった。

 あなたのしろくほそい首をぼくが握りしめる。歪んだ白い顔が、あなたがわらう。


「自分しか見てない」


 いびつな幻想に、泣きながら叫ばれたことばが響き、盗み見た手帳に刻まれた傷跡が、しずくになってこぼれた。


 現実にもどった意識に冷たい目が映る。

 静かにあなたが見つめている。


「ごめん、おそくなったけど、今日、遊園地に行きたいんだ」


 奥歯を噛みしめ、微笑んだ。


「二人で、今日を楽しもう」


 笑顔を見る凍りついた目、視界がいろを落とし澱むように輪郭がけされていく、押し潰されるように頭が痛む。笑い声があいた深い穴から響く、幻想が現実を、おもいをかきかえ、かさねる。

 描いていた微笑みがちからをうしないそうになったとき、あなたの声が現実にかさねられた幻覚に響いた。

「わかった、早く早く。本当にもうー、時間がもったいない」

 あなたは、擦れて色あせた青畳を飛び越えるようにして玄関へかけた。

 洗い立ての白いズックの靴紐を結び起ち上がる、薄く掠れた幻想のあなたの前にあなたが立つている、いまにも走り出しそうな顔と目が合った。頭に残っていた押し潰されているような痛みがきえ、掠れた青黒い顔が見えなくなった。

 降ろしたての白いトレーナを脱ぎすて、畳からひろい上げると股の破れた黒いジーンズを腰まで上げた。わだかまりのとけたやさしい顔が見つめている。たおれた黒いスニーカーの横に青いプラスチックの破片が見える。衣類ケースの破片、深く広がった冷たいやみに泣き顔が浮かぶ。


 あなたが現実からぼくを見つめている、笑顔に背を向け、カーテンレールに掛かった銀のハンガーからシャツを剥がし、腕を通した。なにかが踝に、あたった。薄く黄ばんだ白い布団の脇に目覚まし時計が転がっていた。光を反射する割れたカバー、時がとまっている。

 窓をしめ、カーテンを引いた。白いレースのカーテンを抜けた陽射しがあせた畳に落ちる、ジーンズに手を突っ込み、十字架を握った。

 声がした。ぼくを急かせる、ドアへかける、スニーカーに爪先を入れ、差し出された手を掴み、ドアをとじた。手はまだ冷たかった。


「静かにしめないと」


 すぐにあなたから小言が飛び出す。


「ごめん、ゆっくりしめたんだけどオンボロアパートだからね、今度から気をつけるよ」

 目を見ながら、気をつけて笑った。

「おんぼろなんていったらだめです、アパートに謝りなさい」

 真剣な顔であなたは小言をつづけ、謝罪を求める。ぼくは謝るしかない。


「ごめん」

「こころがこもってない。すべてに感謝できなければ生きている意味なんて、ないんだよ」

「ごめん」

 謝罪のことばを繰り返したあと、冷たい手を離し、焦茶色のベニヤ板を貼付けたドアに鍵を掛けた。スニーカーに踵をたたきこんでいるとき、あなたが強く、力一杯にドアノブを回した。いま、目の前で鍵を掛けたのを見ていたのに鍵を掛けたか確認する、鈍色のドアノブが揺れる音に、顔が強張った。

 ビートルズらしい曲が隣部屋から漏れていた。ドアの横に置かれた白い洗濯機が目に入った、埃で汚れた二槽式洗濯機、とまっていた。

 顔を上げるとその様子を観察するようにあなたは見ていた。気をつけてぼくは笑った。


「お姫さま、遊園地に出かけましょう」

 狭い踊り場で差し出した手を、冷たい指に強く握られ、錆びついた階段を走り下りた。


 手を痛いほど強く握られたまま、真直ぐな急勾配の道路を降りていた。車がすれ違えないほどの道幅しかない道路の両脇に積み木のように家が並ぶ。積み木のすきまに水色のクレヨンで塗り潰したような空、見上げると汚れた白壁が目の端に映った。ぼくが住んでいるアパート。隣人の寝息が聞こえるぐらい薄い壁で造られた安いだけが取り柄のアパートは来年には取り壊しが決まっている。錆びたトタン屋根の上には晴れやかな色が広がっていた。

 舗装し直されたばかりの真新しい藍色のアスファルトを洗い立ての白い靴が揺れる。

 ぼくは歩幅を狭め、窮屈なちいさい歩幅に合わせ歩いていた。ちいさないらだちがこころを揺らす、ほおに冷たいものを感じた、雨粒がほおをぬらしている、空から大粒の雨が降ってきた。ぬれたようなアスファルトの路面に雨音が響いた。幻聴だった。時間の感覚をうしない、雨音はきえた。


 音をうしない、幻想に、過去のおもいを写した連続写真に飲み込まれた。


 毛布に潜りこんでいた、トタンの屋根が藍色の闇に雨音を響かせる。カーテンのない部屋、チカチカする切れかけの白色電球が、夕香の声を映していた。冷たい受話器からする冷めた返事、途切れがちな会話に単車が運ばれてくる日時があった。数ヶ月ぶりに見た単車、港の端に置かれていた。嫌な感じがした。雨が降り出した。鍵を挿された埃を被った単車、ぬれていった。


 見知らぬ道を走った。刺す雨、反対車線にはみ出る、ハンドルが振れる、フルフェースのメットをたたく雨が視界を遮る、凍えた手で、ぬれた坂をかけ上がった。


 目覚めると陽射しが顔を焼いていた。

 バイク屋の店先、真新しいツナギを着たバイク屋の店主が、ハンドルが曲ってると事も無げに言った。


 狭い坂道をならんで歩く学生の群れを躱す。

「だらだら歩きやがって轢くぞ」

 メットの中、叫んでいた。木漏れ日のトンネルを抜け、空へとつづく道を上り切ると鬱蒼とした森を切りたおして建てたセメントの塊が見えた。大学にはじめて迎えに行った。戸惑うあなたを後ろに乗せたまま、真直ぐな急勾配の坂を上がった。アパートの横の路上に単車をとめ、振り返った。

 遠い目で、あなたか単車を見つめていた。

「二人乗りはもうしない。バイクがかわいそう」

 はじめて見た感情、ことばをうしなった。大人びた表情がそらを見上げ、静かにいった。

「きれいなそら、排気ガスで汚したんだね、そらを」

 惹かれていく、苦しい。はじめて会った時から気づいていた。あなたは、ぼくに苦しみをあたえる。


「白いシャツに黒いジーパン似合ってるかっこいいよ」


 きげんのいい声が、出会った頃の大人びた表情をかきけした。幼く変貌したあなたが顔じゅうに笑みを浮かべ、握りしめた手をおおきく振ってスカートを揺らしている。


「健一は肌が白いからどんなかっこうでも似合うし、顔もかっこいいしね」


 陽射しに照りつけられた笑顔にぼくは照れたように作り笑顔を返す。


 必要以上に背筋を伸ばして歩くあなたの姿が、会う度に、悲しみを繰り返す度に幼くなっていく。

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