第五章 2

「少し、用を足してくるから読んでいて」


 後の棚から青い本を引き抜くとぼくは差し出した。文庫ほどのおおきさの分厚い旧約聖書を受け取るとあなたがめくりはじめる。


「創世記のはじめのところが大切だからそこを読むこと」


 大股で白い塵袋を跨ぎながら洗面所の扉に手をかけた。



  洗面所から出てくるとあなたはぼくがもどったのにきづかない。指でたどるようにして、小さな文字を目で追いかけている。


「彼は新約でいう。わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではないという聖書のことばはどういう意味か行って勉強して来なさい」


 声にきづいてあなたは顔をあげる。顔を見ながらぼくはことばをつづける。


「しかし、旧約にはわたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではないということばはないんだ。もしかしたらあって見つけられないだけなのかもしれないけど、このことばをぼくは旧約で見たことがない。現実に彼が存在したのかさえ確かなことはわからないのだけど、かりに彼が実在したとして彼が学びなさいというのは旧約のこと。これははっきりと言える。なぜなら彼が実在したとしても彼が磔られてからしか新約は書くことが出来ないから。人は自らの都合に悪いものには触れようとしない。自らの都合に悪いことはないからぼくには真実を隠す壁がない」


 もしも見落としてないなら、なぜ彼という名で愛を象徴する者を呼ぶのか、理由はわかったはず。微笑むとあなたも微笑んだ。きづいているだろうか、求めている魔術がもっともかたい道であることを。目を覚ますことの本当の意味をいまはまだ、あなたはきづいてない。


「そうだ、魔術の授業の前にことばの授業をしないとわからないことが残されたままになってしまうとそこから曇ってまた雷が鳴り出すといけない」


 すこし恥ずかしそうにあなたはうつむいた。画面に過ぎ去ったときに書いた魔法講義の写しを映し出しながらぼくはことばをつないだ。


「これまでに幾度となく自身の編み出した魔術の授業を電網でした。そのときに幾人かを弟子にしてその人達を通して魔術をつたえる練習をした。これがそのときに出来た情報の蓄積」


 口にしながら過ぎ去ったときの書類を複写したものをスライドしていく。


「ここらへんにあるはずなんだ」


  文字を目で追いかけながらあなたはことばに耳を傾けている。


「もし、まったく知識がなかったらいまあなたが見ているせかいはいまのこころと同じようにこころに映ると思うかい」


 あなたは首を横に振った。


「そうだよね、ぼくもそう思うんだ。なぜこんなに過ぎ去ったときのしかも、ほんとに人類の創世の頃のことを真剣にかんがえたり、おもったり、かんじたりするか理由がわかるかい」


 あなたは疑問符を浮かべながら懸命に考えたが答えには辿り着けずにいた。


「そうだよね、わからないよね、その理由はぼくをいま、うごかしている血にはその頃の記録も情報として残されているとかんがえているから。つまりその蓄積された情報を遺伝子というのだと。もちろん人が人として生まれる前のこともおそらくはその遺伝子をつくり出した設計図には描かれていることはまちがいない」


 なにを語っているのかわからないなりに、こころが騒いでいるのをあなたは感じている。


「どうして太古の人は神をもとめたのだろうとぼくは幼い頃からかんがえた。ぼくの魔術の研究は小学校の高学年の頃には、はじまっていたから探求してきた思いはかなり深いものだといえるかな」


 下に流れる書類の文字を目で追いかけながらあなたは声に耳を澄ませている。


「なかなか見つからないな、探しているのはことばがどうやって生まれてきたのかという仕組みをかんがえたものなんだけど、ほんとまとめるちからって大切だとこんなときに思う、どこになにがあるのかわからないと困るんだ」


 たしかにという顔をしてあなたは画面を見つめる。


「見つけた、これだ」


 画面に映し出された書類を矢印で示すと身を乗り出すようにあなたは近づいてきた。


「では、書いてある文章を読んでみるから」


 言うとあなたは息を大きくつき、声にする文字を思いを込めて目に焼き付けようと待ち構えている。

「言葉とはなにか。人と地球は同じ原理で創られている。言葉とは神の思いを人に伝えるために、神が創ったもの。人が創ったと感じるのは、人の思考の枠組みでしか思考出来ないから。言葉の意味とは伝導にある」


 ここまで理解できているのだろうかと表情を見ると文章のつづきをすでに自分で声に出さずに読んでいる。追いかけるようにぼくもつづきを読む。


「なにを伝導するのか、降りてきた神の思いを自分の思いとして、その思いを選び、言葉にすることで自分という思いに伝導する。つまりここで自分の思いという思考がなければ、神の思いをそのまま言葉にすることが出来るようになることになる、理論上では。これが直観ではないかとぼくは考えている」


 過去に自分で書いた文章を読みながら他人が書いた文章を読んでいるようなきもちになっていた。


「思考の元が言葉であり、思いが言葉となることで考えることを導く。言葉とは感情の力の変化したもの。言葉の仕組みを自然の仕組みにたとえてみる。自然とは、空とは、神が思いを現したもの。言葉とは、空から降ってくる雨のようなもの。神の思いのなかから空であるこころがある思いを自分で選び、自分の思いとすることで、空に浮かぶ雲という神の思いのなかで選んだ思いが一点に集まり、重くなることで雨として降ってくる」


 読みながらよく考えたものだという思いが自然に湧いてくるのを自覚した。


「雨として降ってきた言葉は自分の水面で波紋を描き、知覚となり、感情となり、思考となる。思考を形に現したものが氷として文字となる。言葉とは気体である空気、酸素である空。思考である液体、水である雨。言葉である固体、氷である文字としてイメージすることが出来る。つまり、理論上ではここで自分の思いという思考がなければ、神の思いをそのまま言葉にすることが出来るようになることになる。自分の思いがない状態が、直観ではないかとぼくは考えている」


 読み終わってそうなのか、というきもちともう少し整理してわかりやすくした方がいいのでは、というきもちが混ざり合いことばを紡いでいく。


「という感じなんだけど長いし、やはり過去に書いたものはいま読むとまだ未熟だと感じるのは自らの理解力が高くなったおかげなんだろうけどイメージということばをそのまま使うのは頂けない、ここは心象ということばに変えないと」


 どうしてという感情をあなたは顔に描いた。


「イメージということばと文字には森羅万象のかたちのちからがすでに失われている。ぼくが用いている言語であるこの国のことばのもとになった漢字は象形から生まれた文字だからかたちに意味がふくまれている。そうだな、たとえば、川という字がある。これは川を目にした人がその川のかたちから川というものはこのかたちで表すと決めたものだけど、もしもかりにあなたが川という字を決めることが出来るとしてこの川という字よりも川を表している簡潔な字が作れると思うかい」


 考えることもなくあなたは首を横に振る。


「そうだよね、おそらくというか絶対と言えるくらいにだれにもこれを超える川という字はつくれないと思うんだ、つまりそれくらいにこの川という字は川というものを表すちからがあるということ。ではこの国のひらがなのかわはどうかな、かわという音は川を示しているのかどうかはわからない。なぜならかわと書いてそのひらがなを漢字に変換するとかわというひらがなは生き物の皮を表す漢字にもなるから不確実なことばなんだ、ひらがなもカタカナも。だからこの国のことばには漢字がふくまれるのだと思うんだよぼくは」


 言いながら新規の書類を立ち上げ、ひらがなで文字を書き綴った。


「ひらがなだらけのもじはよみづらいしいみがふめいになる」


 書き出した文字を見て、ほんとにそうだと言わんばかりにあなたはおおきくうなずいた。あなたはかんがえ込んでいる。それがなにについて考え込んでいるのかをぼくはかんがえる。出した結論は彼についてということになった。


「彼が現実には存在しなかったとしてもぼくは構わないんだ。大切なのはその教えがただしいのかどうかであるから。彼にしても後世の人々が神に祭り上げ、ほんとに生きていた人だとしても実際の人間像はわかるはずもない。人が人として生きる理想としての教えをつたえた人という枠組みで聖人と呼ばれている人をぼくは見つめている。どちらにしてもそこらへんのことは避けては通れないからもうすこしあと、あなたの理を解く力がいま以上に高くなったときにするからいまはことばについての話をつづける」


 「わかりました」


 あなたはことばにした。自らのこころのなかで彼がうごき出しているのを感じながらぼくはことばを紡いでいた。


「ことばとして残された記録上はもっとも古い文字は象形文字となっている。これは西洋東洋を問わないから人は知識がない時代は感覚を優先させて生きていたのだとわかる。つまり見たまま、聞こえたまま、臭ったまま、感じたまま、生きていた。そこが奥底のせかいに通じるせかいであると感じるのもぼくの感性がそう告げてくるから。人はいつきづいたのか、自分達が歩いている地面がほんとは丸いということを。知識として学校で学ばなくてもそのことを自分自身の感じるちからでぼくはきづくことができただろうか」


 彼がぼくのかわりに答えた。


「答えは否でしかない。知識つまり情報がない時代を生きた人達は、無い情報のなかで必死に懸命にかんがえ、おもい、かんじた。その結果がこのせかいに神を生み出すことになった。もしも神がいないとなると魔術は遣えないことになる。これは魔術師にしてみると大変な問題」


 こころというとじられた空間を自由にうごき回る彼がいるのだから現実に神はいるのだろうとぼくは彼のことばを聞きながらおかしくなっていた。


「ということで神はある。ということにして進める。現実に過ぎ去ったときからそうやっていまの時は築かれてきたのだから過ぎ去ったときにあったことをなかったことにしては進むことは出来ない、未だ来ないときには」


 確かに。とぼくは思う。


「で、過ぎ去ったときのことばにもどると、すべてということばになる。それはつまりすべてとは神で、宇宙。といっているわけで、もっといえば神とは自然といっているわけで、その自然にはもちろん自分もふくまれている」


 なるほど彼もふくまれているわけだ、その宇宙のなかに。


「つまりなにも分けることのない状態をすべてということばにして表しているのがぼくのいうすべてということになる。ということはすべてである神がなにを思っているのかをしるためには自分がなにものをも分けることなくそのすべてを自分であると実際にかんじないと神がなにをかんじ、おもっているのかはわからないという結論に。実にこれはかぎりなく難い。神のこころを人が理解することはかぎりなく無理に近いということが結論として言えることになるが、その結論をどうにかして覆そうとしたとんでもない人達がいたことになっている、その人達がつまりは聖人とよばれる人達。実は魔術とは聖人とよばれる人達と同じような、似た心境になることによって神に通じる道をこころのなかにひらく技術ということになる。だからかぎりなく難い技術」

 ぼくの、いや彼の説き明かしを耳にしながらあなたは遠くを見つめている。彼はそんなあなたにことばをかける。


「神にうそ、いつわりは通じない。だから、ぼくはうそやいつわりをつかないようにしている」


 確かに彼はうそをつかないがその存在がこのせかいに辿り着くのは彼が通ることのできる人のこころのなかだけで彼が訪れるという体験がない人にしたらうそのような存在であることもあなたにはあとで、ぼくからつたえる、必ずに。思ったときには彼はこころの領域からきえていた。後に残された問題の解決はどうやらぼくにさせるつもりらしい。どうやらことばの仕組みは魔術の仕組みのなかで説き明かすしかないようだ。とこころでことばにしていたらあなたから提案があった。その提案に賛成なので、これまでにして消灯する。よい夢を。言おうと見ると、体を丸めて寝息を立てていた。


 ゆり、あなたに彼の教えの真実がきこえているだろうか、彼は言った。


「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」


 なぜ、何という文字を頑なまでにひらがなで書いてきたのかその意味にきづくなら、あなたの重荷もすこしは軽くなる。彼はこうも言った。


「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」


 天の使いは夢で語るが、語られたことばをしんじる者しかことばのほんとにきづくことができない。


 たとえようもなく夢が、悪夢にしか感じられないとしても。

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