第六章 4
あなたは小説を読み終わると、断片の世界から戻って薄闇に浮かぶPCの画面を見つめていた。薄紫色の原稿用紙のテキストが並んでいるのを溜息を噛み殺しながら見つめた、頰が濡れていた、掻き乱された感情が、本能が、繋がる断片たちを恐れていた、読みたくない、知りたくないそう思うのに、あなたはまた小説の世界を開いた。
薄暗い通路。
切れかけの蛍光灯が点滅しながら扉を照らしていた。
扉をあける。
湿った黴臭い空気が暗やみから流れた。
扉をしめ、暗闇に壁を探り、照明を照らす。
ひとつしかない窓がカーテンにとざされている。
壁の角を這うように生えた黴が白い壁に太く黒い線を描いている、敷かれたままの湿った布団の上を歩く。
布団がうごく、めくり上がり、起きあがった。
苦痛に歪んだ目が見上げる。
見上げている顔が、わらう。
「人間なんて串刺しにして焼き殺せばいい」
嬉々とした顔でつづける。
「みんな、みんな、殺せばいい。人間を殺して、人間を殺して」
陶酔した瞳が囁く。
「ねぇ、人間のこと好き」
「嫌いだ」
心の底からことばが這い上がった。
正気を無くしたあなたが、歪んだ顔が微笑む。
夢からさめた。
照明の落とされた部屋、身体を起こす。
ぼやけた背中、光を見ている。
流れ込んだ冷たい空気が肌に触れる。
窓があいている。
ぼやけている顔が笑顔に思える。
輝いた顔が振り返った。
「きれいでしょ」
目を覚ましたことに気づき、あなたは微笑んだ。
「ピンボケした逆光写真みたいにしか見えないよ」
「あ、そうか」
あなたは慎重に眼鏡をぼくの顔に掛けた。
グリーンの衝立に遮られた光は薄い緑色で、アパートの前にある公園の木々の木漏れ日がベランダに溢れているようなきもちにさせるほどに柔らかい。
「寒いよ」
笑って身体を震わせた。
「この部屋は半分地下に潜ってるから日が射す時間が短いの、我慢して」
手を合わせ、あなたは優しい目で笑った。
「遊園地がちいさいよ」
頂上近くまで上がった観覧席の窓から子どもになった顔が下をのぞき込みはしゃいだ。
観覧席がゆっくりと降りていく。
あなたの視線が空中に止った。
振り返ると反対側の観覧席に子どもが見える。白い帽子を被った女の子が黄色い観覧席の窓から外を見ている。乗る寸前まで黄色がいいと言い張った顔が上がっていく観覧席を見つめている。つまらなそうな顔で立っている係員が見えてきた。
「このまま時間が止ればいいのに」
しぼんだ顔が溜め息を押し込めたとき、音を立て、扉がひらいた。
「ちょっと休もうか」
ベンチを見た。腰を下ろす。観覧車をあなたは見ていた。
「あれに乗ってたんだよ。疲れたの」
振り向いた。張りのあった声が嫌悪をつたえるために硬く響く地声にもどる。
「疲れてないよ」
不満げな顔に笑顔を見せる。
「楽しい時間はいつもすぐ過ぎていくね」
優しい響き、嫌悪感を浮かべた心が落ち着いた。
「そうだね」
「このまま、時間が止ればいいのに」
子どもになり切れない顔が、思い出しているように同じ言葉をくり返す。淋しげな声が電話のベルに変る。白色電球に照らされた部屋。突然鳴り響いた。歯痒そうにあなたは受話器に声を張り上げた。
「わたしがあなたの子供だからわたしに構ってるだけなんでしょう。あなたはなに一つわたしを解ろうとしない、なんどいったら分かるの、服は趣味が違うから送らないでって手紙にも書いたよね、洗剤だって天然原料しか使わないの、海が汚れるから、お米と一緒に送ってくるとお米に洗剤の臭いがうつるの、なんども、なんどもいってるよねどうして誕生日の前の日にこんな気持ちにされないといけないの、もうほっといて、銀行員なんて興味無いしお見合いなんてしない」
受話器から母親の荒げた声が聞こえる。
「あなたの思うようには生きていけない。わたしは、わたしがただしいと思うように生きる。今日かぎりわたしのことはわすれて下さい」
断ち切るように受話器を置いた。
「ごめんね、強く置くつもりはなかったの」
電話機に謝り、泣き崩れた。
「どうしたの」
声がした。
ベンチの横を走るジェツトコースターから喚声が上がる。
「ごめん。考え事してた」
思いつめた瞳が見つめる。
「ずっと一緒にいてね、わたしのこと解ってくれるの健一さんだけだから」
ことばにできずにうなずいて微笑む。
「ぼくらだけの名前をつけないか、勝手に決められた名前ではない、二人で決める二人だけの名前。これからは二人だけの名前で呼び合おう」
「おもしろい。名前考えよう」
「ぼくはもう決っている。幼いときに自分だけの名前としてゆいとという名前をつけた。心のなかでは自分をずっとゆいとと呼んでいる」
不思議そうな顔をした。
「わたしの知らないことがまだあるんだ。ゆいと。そうか、ゆいとか、わたしの名前はゆいとがつけて」
浮かび上がったことばをなぞった。
「ゆり」
「ゆり。か、どうして」
「浮かんだことばが心に響いたから」
「ゆり。か、いいよ。ゆりにしょう」
輝く声が、遠く消える 。
「ゆり。ゆり、どうした」
「痛い、痛い痛い、痛い、たすけて、たすけてゆいと、はやくたすけて、」
暗闇にコードを引っぱる、眼鏡をかけ見下ろした。布団を握りしめた手が震えている。
「どこが痛いの」
「頭、頭、頭が痛い、割れるように痛い、」
おかしい、明らかに尋常無い事態、頭、頭、頭が痛い、痛み止め、薬、洋服ダンス、薬箱を、プラスチックを取り、痛み止め、ひっくり返し、薬探してるから直ぐに飲ませるから、尋常で、涙声が、錠剤を握り、台所に、蛇口を捻る、震える手に渡し、飲みたがらない水道水、すがってコップに手を伸ばす 蛍光灯が切れたまま放置された半地下の廊下。僅かな光さえない闇をあける。すすり泣きが聞こえる。水を被ったように心が冷える。玄関の電気をつけた。靴を脱ぎ、傷ついたフローリングの床を歩く、汚れた食器が溜まったシンクにいびつなかたちの手鍋が入っていた。食器が割れている。割れた破片をゴミ箱に放り、部屋の電気をつける。布団にうずくまり泣いている。静かに、出来るだけ静かにテーブルの脚をひらきPCを起動する。小説のつづきに取りかかった。溢れ出すことばを消えないうちに書き留めようと慣れないキーボードを必死で打つ、息をつこうとして顔を上げると見つめている顔があった。
「痛いの分かってるのにかけることばはないの」
溜め息が出そうになったのをこらえ、溢れていくことばをなくさないように、キーボードを打ちつづける。
「聞いてるの」
もうすこしだから、思いながら手をうごかしつづける。顔を上げようとした瞬間、画面が落ちた。
「なにしてんだ」
押し潰そうとした怒りが破れた。
「返事しないから消してあげたの」
憎らしい顔が微笑む。
「いま書いたのがすべて消えた。もう二度と同じことばは降りてこないんだぞ」
「知るか、返事しなかったあんたが悪いんでしょ」
「小説書いてる時に返事なんて出来るか、そんなこと考えなくても分かるだろうが」
冷めた顔が鼻で笑った。
「お前昨日なんて言ったか憶えてないんか、痛そうにしてるから声をかけたら、気安く声なんかかけるなって言ったろうがだから黙ってたんだ」
「一回言われたらずっとそうなんか、痛くて気が立ってるんだから仕方ないだろうが、泣いてるのを見たら声ぐらいかけるだろうが、昨日は泣いてたか、優しさがある人なら泣いてる女それも一緒に生きていこうと決めた女を無視して小説なんか書けんよ、あんたは優しさがないから人の気持ちが分からんのよ」
「ことばにもしないのに分かるか」
「分かろうとせんからやろ」
怒りと悲しみが圧縮しようとした時、本棚に立てられた魔法の本の背表紙が目に留まった。本に書かれた賢人のことばを心に刻む。試行錯誤を積み上げてかたちにした慈悲に似た感情をことばにする。
「ぼくが悪かった。赦して下さい」
口にする度、心がきしむことばを赦されるまでなんどもなんどもくり返した。姿が、窓ガラスに映る。緑色の受話器から声を聞いていた。
「あなたがこの部屋を出てから痛みが治まっていたのに帰ってくるんだ、全治一ヶ月か、逃げ出してまではじめた新聞屋もたった四ヶ月で辞めるんだ」
虚ろに聞こえることば。アスファルトに倒れた衝撃が全身を打った。ガラスに包帯を巻かれ肩より吊り下げられた腕が映っている。引きずるようにしかうごかせない足、壊れたバイク、救急車のサイレン、怒鳴りつける苦情の声、電話のベル、目に映る液晶の数字、点滅、限度数の切れたテレフォンカードが返却口から出た。蛍光灯の切れた光のとどかない廊下。ドアをあける、真っ暗な部屋。電気のスイッチを捻る。光が瞬いた。埃を被った薄暗い照明。カーテンでとざされた窓。壁を黒い線が走っている、布団がうごく、ゆっくりと起きあがる、見上げた歪んだ顔が、わらった。
引き裂くような音がした。
眼鏡をかけ見つめる。
壁紙を剥いでいる、剥いだ黒ずんだ壁紙をゴミ袋に詰める。
壁紙を剥がされた壁は薄黄色く、所々ベニヤ板が出ている。
瞳の奥が痙攣している、あくびをするように、記憶とも幻想ともつかないモノを見るようになっていた。
「気分がいいの。頭が痛くない」
あなたが笑った。
「今なら歌える。出来たの、聞いてくれる私が作った歌」
やわらかな響きにうなずいた。洗面台に足早にあなたが向かう。水の音がする、出て来た。真剣な顔で目の前に立つ。足をとじ、背骨を正して天を仰ぐ、静かに目をとじた。
ぼくは正座をして心を澄ませる。
闇に鼓動が響く、メロディーが外から聞こえた。
ブレーキが軋む。男の声がする、清掃車が軽やかなメロディーを奏でながら唸りを上げゴミを巻き上げる、濃密な声を浴び唸りが消えた。
煌めく光。闇を彷徨っていた魂が純潔の翼を燃やしている。
限り無い光へと導く歌を紡いでいく、まぶたが熱く脈打つ、燃える翼が闇の深遠を照らし、輝き揺れる金色の水面を映した。
ぼくは幻想にいた。
見渡す限りに薔薇が咲いている、羽をばたつかせ足を引きずる、赤い薔薇を血まみれの手がかきわけ、煌めく光がきえた。
まぶたをあけた。
「どうして泣いてるの」
にじむ目が見つめる。
「自然に涙があふれた」
「どうだったかな」
「魂に響いた。一粒の喜びのために怒りに憎しみに捕われていた姿が見えた。見えないなにかを見るために確かななにかを探して歩いて来たことを思い出したよ聞いたことないけど讃美歌だと思う」
「歌手になろうと決めた時、神様の前で歌っても恥ずかしくない歌を作ると誓ったから」
嬉しそうに微笑んだ。
「痛い」
手を伸ばそうとした瞬く間、頭を押さえた。
蛇口に走る、病院の薬と水を差出した。
「ありがとう。でも、薬はもう飲んでいるから」
消え入りそうな声が胸を刺した。
一つの断片を読み終わると、あなたは直ぐに隣のテキストを二度叩いた。あなたの心にはピースの欠けたパズルのように、所々に黒く穴の空いた物語のの情景が映り、映画のように小説の世界が流れていた。あなたはまた、物語の登場人物となってその世界で動き出した。
電話が鳴った、受話器を上げる。夕香は別れを切り出せずに、ことばをつないだ。
ぼくは望んでいることばを告げる。
「隣にいるのが好きになった人だろ」
「ほんとなんだ、未来が見えるって。私がいる場所も結果もあの時にはわかっていたんだ」
「赤い電話ボックスで泣き崩れる姿を見たから別れようと言ったんだ、この先のあなたの姿を見たくなかったから」
長い沈黙の後、泣き声がした。
その場所で、泣かせた。
あんなに一緒にいたのに夕香の顔が思い出せない。
うろたえる男の声が。
「さよなら」
受話器を置く、黒い受話器に涙が落ち過ぎ去った時が夜にとざされ、柔らかな黒に包まれにじむ。
「おいお前、なにしてる」
声が、子供の声。
「お前だよ」
振り返る、少女が公園の木の柵に座っている。目を惹く可憐な顔を向けて。
公園を見渡した。目の前にいる少女以外に人の姿はない。
「青いシャッ、お前なにやってんださっきからきいてるだろうさっさと答えろ」
可憐な顔を見つめる。小学校の高学年ぐらい、潤んだちいさな唇を強くうごかすのをはっきり見ても目の前にいる少女が発したと認識するまでに時間がかかった。
「危ないからこっちにきたらだめだよ」
目の前の道に下水管を通す深い穴が空いている。通行人が穴に落ちないようにするためにぼくは穴の横に立っている。人通りのない時間に一瞬、 夕香と決別した時間、過ぎ去った時の思いを漂っていたぼくは混乱し正確な応えを応えれない。
利発そうな眼差しで瞬き、思いついたように少女が柵から飛び降り、向かってきた。
「だめだって、危ないから穴に落ちたら死んじゃうよ、ぼくは人が落ちないように見張ってるんだから」
「お前名前なんていうんだ」
子供特有の心の芯を捉えるいつわりのない声が真っ直ぐ響く。
「おしえない」
可憐な顔がきつい表情に変わる。
「おしえろよ」
「おしえない」
軽く意地になった。
しばらく睨んでいた、が、少女はあきらめ、帰って行った。
作業現場の監督責任者に呼ばれ氷菓子を買ってもどると小学校の低学年が学校から帰ってくる時間になっていた。
食べ終わるともっとも神経を使う時間がきた。
横の公園に半ズボンやミニスカートの子供たちがあつまってきた。
誘導灯を手にして、カバーの外された直径1メートルをゆうに超える暗闇のまえで深い息を吐いて立つ。
「もも早くこいよ、こっちだ、こっち」
声がした。思ったら少女の姿が、一気に血の気が引く、一輪車に乗った少女が友達らしき少女を引き連れてどんどん近づいてくる。
「来たらだめだ」
声を張り上げ、威嚇すると一メートルほど手前で出来の良い水彩画の自画像みたいな微笑が崩れる。
「おしえる気になったか」
黙っていた。
「毎日一輪車でくるぞ」
「健一だよ。多田健一」
「きこえねーよ。男だろーはっきり言え」
「多田健一」
怒った顔をしたのに気にもとめずにうれしそうに勝利を決めたように生まれたてのきもちをことばにする。
「けんいち、遊びにきてやる。毎日、一輪車でな」
端正な顔を憎らしいくらいに輝かせ、振り返る。
「もも帰るぞ」
ももと呼ばれた少女はしばらくはなにか言いたげにぼくの顔を見つめていたが、もう一度呼ばれると一輪車に跨がり、遠くに見える姿を追いかけた。
少女が去り、つかの間唖然とした時間が流れた。
「警備さんはこれから大変だねー」
暗闇に反響する幾人かの笑い声が聞こえる。穴を覗く、青白い光が所々で光る。摂氏四十度を越える真夏に機械を溶接して、数メートルの横穴を掘るのに比べたらそんなに大変でもないと心に思い、名も知らぬ少女の意地らし気な強い眼差しを思い描いた。
「多田君いつもの買ってきて」
現場監督責任者がお金を渡してくる。氷菓子を買ってもどると、いつものようにももが木の柵に座っている。話しかけてくるわけでもなく、話しかけても笑顔が返ってくることもない。が、隣に座っても逃げることもない。まるで監視しているようにただ見ている。
「ももちゃん。もう一人の子、あれからこないけど知らないかな」
ももは表情を変えることなく首を横に振る。
「あの子、なんて名前なのかな」
笑顔を強調しても同じ返事しか返ってこないのは分かっていたが身に付いた癖は子供が相手でも発揮しようとする。
「ゆり。ゆりだ、けんいち」
突然、おおきな声がしたと思ったら、赤いスカートが柵の上に飛び乗った。
「穴ふさがってるな」
突然の登場に驚き、素顔の声で対応していた。
「塞がってはいないけど鉄の枠がしてあるから、まぁ安全だ」
「けんいち、バイクできてるよな。あれお前のだろ」
滑り台の奥にとめてある単車を指差した。
「あぁ、ぼくのだ」
「終ったらあれのせろ」
「だめだ」
「なんでだよ」
「あれはひとりしか乗れないバイクなんだ。それにもしあのバイクがふたりで乗れるとしてもメットがない」
「ウソつくな」
「うそはついてない」
はっきりと言った。
「おれはあれにのってるんだ。兄ちゃんがのせてくれた。メットなんかかぶってない」
「あれは後に乗せてはいけない決りがある。決りを破れば罰せられる。ぼくは君の兄さんと違って怪我をさせたら君の両親に責任を取らされる」
「親なんていないんだ。兄ちゃんも死んだ」
初めて耳にするゆりの少女らしい声は悲しみの色に霞んで消えた。
「のせろ」
「だめだ」
強くいった。
「なんでだよ」
「怪我をするといけない。もしかすると死ぬかもしれない」
「ケガなんかしない。まってるからな。のせろよいいな」
強く言い放ち背を向けたと思ったら、突然走り出し単車に跨がってうつぶせた。
空が夕焼け色に変り、公園を覆う緑が黒く輪郭を描くだけの情景になっても降りようとはしなかった。
「帰るから」
きつくいった。
「やくそくしたろ」
ハンドルを握りしめ、身体にちからを込める。身体を抱え上げ無理やり下ろした。
「のせろ」
無視したまま跨がる。
「のせろ」
バイクを蹴った。カバーにちいさな足跡がついた。
「蹴ったって乗せられないものは乗せられないんだ」
ゆりは唇を噛みしめる。
目が潤んで涙が溜まった顔で見つめる。
「ゆり、メット被れ」
フルフェースを放り投げた。
メットを被った得意げな顔が後に跨がった。
タンクトップ越しにちいさな膨らみがあたる。鍵を回した。
「公園のなかだけだぞ」
「いいから早くうごかせよ」
エンジンを唸らせ黒く輪郭となった樹木の間を縫うように走らせた、ゆりの悲しさが楽しさに変わり尽くすまで。
「ゆり、帰るから降りろ」
素直にしたがった。
「ゆり、またな」
「うん、またのせてくれる」
「気が向いたらな」
不思議な顔をした。
すこし走らせたが、公園の見える場所で止って振り返った。
まだ見ていた。藍の背景に手を振るうごきがかさなる、背を向け、小砂利の敷かれた緩やかな坂道を走り降りた。
前日の天気がうそのように激しい雨。作業が途中で中止になり、帰ろうとしていたとき、傘を差したももが公園のなかに入ってきた。
はじめて聞いたももの声を強さを増した雨音が現実から引き離した。
ももは淋し気な顔を傘で隠すように消えた。
四日後、現場での作業が最終日を迎えた。ももは相変わらずぼくを見にきたが、ももの隣に可憐な顔をした少女はいない。バイクを公園から出そうとしたとき、ももが柵に座って見ていた。
「さよなら」
ヘルメットのなかでつぶやき、公園を出た。
夕焼けに染まった公園の森に最後に見た顔が浮かんだ。飛ぶ必要を失った鳥が翼を退化させ飛べなくなるように見えていた心が見えなくなった。赤子のように心を探ることを必要とした。霧のなかを手で探るように他人のきもちを探った。あのとき、翼を失ってなければもうすこしは、最後だと知っていたらもうすこしやさしくできたかもしれない。
ゆりは転校したらしい、理由は親の仕事の都合と聞かされたらしいことをももが教えてくれた。
ゆりは親はいないとぼくにいった。子供は親を選べない。ゆりの幸福を願い、祈るように目をとじた。
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