第六章 5

 ぼくはあなたに背を向け、ただ静かに息を殺し、あなたとぼくが同じ時を共に生きた世界の終わり、過去の断片の記憶、想いとしての短編小説の終焉を待っていた。あなたはいつしか異なる時と異なる場所で異なる歳、異なる性格の幾多もの自分を追体験しては慟哭を噛み締め、涙を零した。


 赤信号で車が止り、外をなにげなく眺める。ヘッドライトの明かりに歩いていた中年の男の顔が浮かび、男は道路につばを吐いた。


「汚ねえ」

 感情が外にこぼれた。


「どうしたの」

「親父がつば吐いた」

「やめて欲しいねそんなこと」

 ことばに反応したあなたはちらりと見て、前の車に視線をもどした。ドブのような闇にテールランプが赤く光った。


「こんな塵だらけの道にもなにも感じないんだ、きっと」


 濁った闇に稲を刈り取られた田圃がつづく。


「どうしたの」

 長い沈黙にあなたは不安をもらした。

「眼鏡は簡単に外せるから必要がなければ外すけど、コンタクトは簡単には外せない。面倒臭いから眼鏡をするんだと思ってた。いまほんとのことに気づいた、見たくない物を見ないために眼鏡を外してたんだ」

 不可解だという顔がうなずく。あなたは当然のように疑問を口にした。

「どうして今日は眼鏡にしなかったの」

「どうしてだったかな、おぼえてない」

 微笑み返した後、横顔にさわった。

「ごめんな、疲れてるのに深夜明けを呼び出して。きてくれて、ありがとう」

「どうしたの、そんな言葉、多田君に似合わないよ」

 動揺していた、頬にあてた指を唇にずらす。

「夜勤明けなのに化粧までして。綺麗な色の口紅だね、似合ってるよ」

「仕事が休みだとすることないし多田君といると楽しいから夕香には悪いと思うけど呼ばれるときちゃうんだよね」

 あせって巻くし上げるように言葉をつなぐ横顔を見つめる。

「ゆりといるの楽しいから、顔が浮かぶんだ。頭良いからね、石見さんと違ってぼくのことを理解できる。だから、好きなのかな」

 見つめる顔が赤らむ。

「見てご覧よ、あれ」

 隣の車線を指さし、振り返らせる。信号が変り、止まった紺色の車から花束が見えている。

「きれい。多田君はどんな花が好きなの」

「どんな花でも」

 疲れた表情ひとつ見せない澄んだ眼差しを見つめ返し微笑んだ。

「花束か。きっと好きな人に贈るんだ」

 ハンドルを握ったままあなたは花束を見つめ、独り言をつぶやいた。

「花束欲しいのかい」

 淡いピンクの花束を見つめる顔に、優しく微笑みかける。

「いらない」

 振り向いた顔がうれしそうに緩む。

 あなたの顔を見つめながら心のなかでつぶやいた。本当に花が好きなら、花束をもらっても喜べない。


 流れる夜が闇をすこしずつ失いながら街並みへと変っていく。薄れた藍の空に静かな波の音が聞こえていた。

「海にいきたい」

 ぼくの欲求を拒むことをしたことのないあなたの返事は決まっている。

「いいよ。明日休みだし、どこに行く」

 わかっていてあなたも確認のためにことばを選ぶ。

「ゆりが好きな海」

「星を見た砂浜にするね」

 考えた様子も見せず、ウインカーを出すとあなたはハンドルをおおきく右に回した。

「お腹空いた」

 昼にドーナツを二つ食べたきり、腹になにも入れてない。

「なに食べる」

 低い声が弾んだ。冷静沈着な性格を表すようにあなたの声はしっとりと濡れている。

「ハンバーガー」

「ハンバーガーが食べたいって思ってた」

 うれしそうにあなたは声をはしゃぎ上げた。

「多田君が作ったハンバーガーが、すごく食べたかった」

 ルームミラーに淋しそうな表情が映る。

「もう一年くらいたつかな。はじめての楽しいと思った仕事。一生懸命やった。過ぎ去った数ヶ月、あの時間は夢のよう。行って見ようか、すこし遠くなるけど」

 顔を覗き込むように見ると、うれしそうな顔がちいさくうなずいた。二十七歳には見えない仕種のひとつひとつが愛らしい。



 見上げた看板には作ったことのない名前が並んでいた。

 アルバイトの顔を見てもだれも知っている人がいない。作ったことがあるハンバーガーを数個頼み、車で待った。

 安い笑顔と一緒に袋を受け取る。ことばすくなに、車は海に向かって漆黒の雑木林を縫うように駆け抜けて行く。


 車内を明るくして温もりのなくなった袋をあけた。

「パッカーがうまくない」

 バイトの質が落ちると味も落ちる。当時の店長のことばを安い笑顔とかさねて思い出す。

「まだまだ練習が足りないね」

 笑ってチーズバーガーを受け取ると、あなたは袋をあけかぶりついた。

「バニシェおいしい」

 カップをあなたのほおにつける。

「冷たい」

「ストシェ飲ませて」

 口紅のついたストローに口をつける。

「バニラもおいしいよ」

 シェークを持たせ、食べかけのバーガーを受け取る。

 躊躇している顔を見ながらミートソースのはみ出たバーガーにかぶりついた。



 光を消し、窓をすこしあける。

 澄んだ星明かりで顔を見合わせた。

「波の音が心地良い」

 潤んだあなたの声が心地いい。

「星の光も心地いい」

 潤んだ声につづけて、伸びやかな声で言うと、星を眺めながらシェークに唇をつけた。


「そろそろ帰ろうか」

 あなたの声がする。

 星を眺めながら考えごとをしていた。

 聞こえた余韻を残したことばに体を起こし、液晶の数字を見た。

「もうすこしこのままでいよう」

 よく見えない顔に微笑みかけるとうなずいた影がもう一度座席を深く倒した。



「着いたよ」

 車をアパートの前に停めた。いかがわしいネオンがまたたくホテル街の裏道、点在する街路灯の明かりが淋しげな横顔を照らしている。

「ゆりの部屋に行くよ」

 生真面目な瞳が見つめ返した。

「知ってるだろ、夕香は今日は深夜勤だから、今日はここに居ても独りなんだ」

 優しげに見つめつづける。

 なにも言わずあなたはサイドブレーキを下ろしアクセルを踏んだ。ケバケバしいネオンの光に照らされたブルーの軽自動車がいつしか色を失い静寂に溶けていった。


「いつきてもきれいだね」

「なんか飲むでしょう」

 優しく言うと、おおきな声を出した。

 なんど訪れてもはじめだけは緊張している。気づいてない振りしてきき返した。

「お酒まだ残ってるの」

「見てくるから、座ってて」

 ソファーに腰かけ上着を脱いだ。

「十字架するんだ、はじめて見た。飾り気のない十字架だね」

 不思議がりながらあなたはグラスとワインをテーブルに置いた。

「本物だよ」

「本物って」

 不思議そうに言うとぼくからすこし離れ、ソファーに腰掛けた。

「教会で買った十字架なんだ」

 近づいて、金色の十字架を目の前に持ち上げた。

「もしかしてクリスチャンなのかな」

 液体を注ぎながらあなたは首を傾げた。緊張が薄れている。透明なガラスのテーブルの上でグラスが赤く色づいていく。

「違うかな」

 ワインの注がれたグラスのひとつを手渡す。

「乾杯しよう、誕生日おめでとう」

 微笑んでグラスを合わせた。一瞬止まった後、ことばを温かく膨らませた。

「ありがとう」

 唇をつけるとグラスを空にした。

「うれしい。ほんとにうれしい」

 もれる匂いに感情があふれる。

「そんなに喜んでもらえてぼくもうれしいよ」

「でもなんで、誕生日だとしってるの」

「おぼえてないけどゆりにきいたんだと思う」

 赤くした顔から甘い吐息が漏れる。あなたから緊張が消えていく。

「話をして」

 媚びるような視線に、思い出す、色づいたグラスにシャンデリアが輝いた。

「ゆりと知り合う前に、ぼくがどこに勤めてたのか知ってるかい」

「ルリジョウ。一度だけ夕香に連れて行かれたことがある。夕香がまだ昔の彼と付き合っていた頃」

「きっとぼくが入る前だね。さっき行ったバーガーショップを辞めてカフェバーで働き出したんだけど、店の親父に客と話がしたいならここに行けと瑠璃城の広告を見せられたんだ。物欲しげな女が話しかけてくるから仕方なく話をしていたのに、辞めさせられた。なんとなく気になって瑠璃城に面接に行った。働き出してしばらくして前を通ったらカフェバー潰れてた」

 目を見つめて笑う。

「シャンデリアが映った鏡を見る度に安物のスーツが滑稽に思えていた頃、先輩に声をかけられた。席に行くと綺麗な人が微笑んでいた。硝子製の瑠璃色のテーブルに苺のケーキが置いてあった。それを見てはじめてその日が自分の誕生日だとわかった。不思議な気持ちだった。見ず知らずの人に自分の生まれた日を祝ってもらうなんてなかったし、そのときまで生まれたことを喜んだことも、喜ばれたこともなかったから、すぐにはうれしいのだと気づかなかった。けど、ローソクを吹き消した瞬間、涙が出た。そのときはじめて誕生日を祝ってもらうことがうれしいことだと思った。ゆりの誕生日を一緒に過ごしたかったんだ」

「ありがとう。話して、もっとして、知らないことを教えて」

 見つめる唇が緩んでいた。緩んだ顔を見つめながら、首から十字架を外しテーブルの上に置いた。

「これを買ったときに修道女に洗礼を勧められた。どうするか考えていたら神父が目の前に現われ、君には洗礼できないと一言だけ言うと神父は去った。修道女は困った顔をしてすぐに謝った。悪い気がした。だから本当のことを教えた。神などしんじていないと。修道女は複雑な顔をした。優しい人だった。その後に一度だけ教会に行ったことがある、もう行けないけど」

「どうして行けないの」

「教会に行くと頭が痛くなるから」

 不思議そうにしていた顔が不可解だという顔になった。

「どうして教会に行ったの」

「クリスチャンだとかっこいいだろ」

 見つめ合い、笑った。その後に真剣な顔を作った。

「ほんとは憧れていた。十字架に架かって死んだ人を尊敬している。人を理解したのに人を愛せた。ぼくは人を愛せない」

「夕香は、愛してないの」

「大切な人だと思ってる」

「結婚するの」

「だれともずっとはいられない。わかってしまうんだ」

「なぜ、夕香はあなたをほんとに愛してる、それなのにどうして、なぜなの」

「ぼくが好きなのに夕香のことを本気で心配する。そんなゆりが、好きだよ」

 あなたは怒った顔をした。

「どうして言い切るの。いつも言い切るけどどうしてそんなことが言えるの」

「夕香がなぜぼくを好きになったかわかるかい」

 少し考え、首を振った。

「はじめて会ったとき、望んだことをした。傷ついていた夕香の手を優しく擦った。ぼくは愛を与えられなかった。ぼくは愛がわからない。大切だと思える人に望むことを与えることしかできない」

 潤んだ瞳を見つめる。優しく肩を抱き押し倒した。口づける。

「愛しているのに」

 涙をあなたは流した。

 ベッドに横たえ、明かりを消した。

 深く唇をかさね、抱きしめる。

 強く抱きついた身体がふるえる。

 消え擦れた記憶の残像が暗に映る。

「わたし、きえたくない」

 消え入るような声が病室に染みついた。

 鉄柵の嵌まった窓から射す弱い光が色褪せたグレーのダッフルコートを照らす。

 優しくささやいた。

「消えない、サキのなかで生きつづける」

「わたしのこと、わすれないで」

 瞳を見つめうなずく。

 潤んだ瞳をとじた。

 おやすみ、ミカ。唇に思いをつたえた。

 とじられた瞳から涙がこぼれる。

 瞳がひらかれた。

「ミカがありがとうっていった」

 サキにはミカの声がほんとはとどいていた。ただ聞こえない、気づいていないフリをしてやり過ごしてきた、心が裂けるまで。

「おかえりサキ」

 泣きじゃくるサキを抱きしめた。

 劣化した記憶の残像が現実とかさなり幻想を呼び覚ます。

 光が射していた。

 白いレースのカーテンを抜けたヘッドライトが壁際のドレッサーに譫言のような嬌声を上げる赤らむ肌を浮かび上がらせている。

 自分の顔が銀板に映った。

 嬌声をあなたがくり返す。

「あいしてる、あいしてる」

 光に浮かび上がった自分の顔が微笑んでいる。

「愛してるよ」

 冷たい微笑が囁くのを見た。



「電話したんだ」

 受話器を置いた直後、後から声がした。

「ごめん起こしたかな」

 眠そうな顔が毛布で胸を隠して起きあがった。

「直ぐくるって」

「そうなんだ、送って行ったのに」

 淋しげな眼差しがことばを探していた。

 前に立ち、淋しげな眼差しを受け止める。

「受け取って欲しい。ゆりのために教会に行ったんだ」

 十字架を握らせ、細い身体を抱いた。

「はじめて会ったとき、無愛想な人だと思ったことを覚えているかい。ゆりが好きになる人は父親の投影だ。愛されることなく死んだ父親にあなたは愛されたがってしまうんだ。あなたには冷たい人は似合わない、優しい、ほんとに大切にしてくれる人が似合う」

「なにを言ってるの、どうして、だれにも話したことない」

「あなたは傷ついていた。過去を引きずり、前に進めなくなっていた」

 見つめた瞳が潤んでいく。

「だれにも話したことないの」

「ぼくは、心が見えるんだ」

「夕香は知ってるの」

「話すのはゆりだけだ」

「どうして」

「お別れだから。ゆりとあうことはもうない」

 頬を涙が流れる。

「ぼくはやさしくない。やさしいのはこれからあなたが出会う人だ。あなたが愛する人は決まっているんだ」

「どうして、どうしてそんなこと言うの」

「見えたんだ。ぼくはすこしおかしいんだ」

 流れ落ちる涙を指先で拭い、口づけた。

「きれいだよ。ゆりが好きだ」

 あなたは、涙をこらえるように両手で顔を被った。

「さようなら」

 背を向け、ドアをしめた。

 泣き声がする。

「涙は嫌いなんだ」

 ちいさく呟いた。



 黙って扉をあけ、助手席に座った。

 夕香は機嫌を計りかね、沈黙したまま車は走り出した。

「夕香、いくつになった」

「え、二十七だよ、どうしたの突然」

「ほんとは結婚したいだろ。おれは結婚しないし子供も作らない」

「一緒にいられれば他にいらないから、別れるなんて言わないで、夕香なんでも言うこと聞く、隣にいてくれるだけでいい、仕事だってなんだって夕香がするから」

「辞めて風俗嬢しろ」

 夕香は作った笑顔を固まらせた。

「聞こえたのか」

「はい」

「風俗いくか、別れるか決断して」

 泣き出した。泣きながら言った。

「風俗いきます」

「それでいいんだ」

「別れたくないから」

「わかった。部屋に以前書いた退職届があるよね、病院に出しに行こう」

「はい、わかりました」

「夕香はばかだな、風俗嬢にしようとする男とは別れろよ。そんなだから借金背負わされてホステスまでする羽目になった」

「だって好きだから。別れたくないから」

「もう泣くな。もういいから」

「病院辞めなくていいの」

 うなずいた。子供のように泣きじゃくる夕香。

「東京に行くんだ。夕香とはもういられない」

「どうして、どうして東京に行くの、行く、夕香も東京に行く」

「病院はどうする」

「一年。一年だけ待って、一年したら必ず行くから」

「夕香、人は離れると心も離れる。夕香には好きな人ができる、別れるのがいいんだ」

「嫌だ、別れたくない、そんなのうそだよ、愛してるから、ずっと愛してるから、どんなことしても一緒にいるから」

「泣くな」

 泣く姿に怒りがこみ上がった。

「ごめんなさい。泣かれるの嫌いなんだよね、ごめんなさい」

 夕香は泣きながら謝った。

「わかったよ。言う通りにするからもう泣かなくていいよ」

 夕香は手の甲で涙を拭いながら言った。

「ありがとう」

 うなずいて、席を倒し目をとじた。

 心でつぶやく。赤い電話ボックスから夕香が電話をかけて来るんだ、ぼくは夕香の望みを叶えるために、夕香を腐らせた男が隣にいるのに電話を切った。

「ごめんな、夕香」

 目をとじたままつぶやいた。

「ありがとう」

 石見夕香は、笑った。ほんとにうれしそうに、笑った。


 あなたはどれくらいの時をぼくの想い人として過ごして来たのだろうか、恋として描かれた短編を読み終わったあなたは残る一つのテキストを二度叩いて異なる立場の自分に会いに行った。


 どこまでも美しい空、草原の丘に白い家がある。

 暖かな陽射しがかぎりなくつづく草原に降り注いでいく。

 天井の高い、白壁の家の庭には赤い薔薇が咲き乱れ、色鮮やかな蝶たちが花の上を飛び交っている。

 薔薇の奥に黒髪の少女が座っている。

 あなたは窓から少女を見つめていた。

 あなたの後ろに青年が立っている、優しい微笑みに抱きしめられ、少女の可憐な後ろ姿を見つめていたあなたは振り返り青年の優しい顔を見つめる。

 カン高い目覚まし時計の機械音が美しい空に真実を響かせ、消えゆく夢から鳴り止まない不快な雑音を押し込んだ。

 まぶたをあける、硝子の箱が浮いている、現実が溶けこむ、眠っている体をゆっくりと起こし、部屋中を見まわした。

 薄寒く淡い、四畳半の闇。

 セルロイドの蒼い瞳が冷たい視線で見下している。

 整理箪笥や洋服箪笥に乗せられ漆喰の壁を覆うように並べられた目の覚めるような赤や心躍るような黄色のドレスで着飾った西洋人形。

 正光が質屋をまわりかき集めた人形達は愛らしさを振りまき過ぎて疲れ果てた顔をしている。

 顔を背け俯いた。

 朱塗りの姫鏡が見える、花嫁道具として貴美恵から贈られた鏡台、一つしか点かなくなったライトを点けるとみすぼらしい顔が鏡に映った、魔法はとけていた。硬直した思いに過ぎて行った時間が凍り、幼い日から繰り返し聞かされた貴美恵の言葉が胸から零れた。


「おまえはなにも自分で出来ないんだから母さんの言うことを聞いていればいいんだよ」


 凍え切った指が熱にさわった。


 ひかりに浮かびあがった顔が静かな寝息をたてていた。

 顔に毛布をかける。


「わかっていたらうまなかったのに」


 指が金色の把手にふれる、引き出しから目が離せない、ふるえる指が引き、奥にふせてあった一枚の想い出を手繰り寄せた。

 色褪せた想い出、十九歳だった、手を握り合い肩を合わせ、二人、零れる笑顔を浮かべている。

 思いの止まった時間、二人だけで結婚を誓い合った。

「あなたが好きなの助けて、わたしは悪くないの貴美恵がわたし達を引き裂いたのわたしは悪くないの、わたしは悪くないのに」

 あなたは涙声をふるわせた。

 あの時で止まった絶頂に幸福な時間の中、怒ることのなかった青年が優しく笑う、閉め切られた雨戸の隙間から漏れてきた重く響くエンジン音で事実にもどる、黄色い車体に動物の絵を描いたバスが家の前に停まる時間だった。

 

 一つしか入っていない蛍光灯のコードを引っ張り、目をしかめながら正広を引き起こし、そそくさと用意を整えて抱きかかえ笑顔を作って外に出、園児の楽しそうにはしゃぐ声がするバスに笑顔で押し込んだ。


 足早に離れていく象やキリンたちに社交辞令に手を振った。

 黒い煙を吐き出し去っていくバスの向こうに汚水を流されたような空が広がっていた。


 部屋の裏手にある道具置き場のトタン屋根に大粒の雨がぶつかっていた。

 辺り構わず鳴りつける雨音があなたを鬱にした。

 間違いだった、小雨が降りしきるなかであげた結婚式、白無垢を着た姿を見て母はうれしそうに泣いた。


 涙が止まらなかった。


 幼い日おぶわれてみた夕焼け、リヤカーを引きながら段ボールを拾い集める姿が焼きついている。母に逆らうことなどできない。

 結婚させられた、子どもを殺された、身ごもった、なぐられ、耐えて、うんだ、女の子ではなかった。すべてはまちがい、気づいていた、気づいていたのに気づかないふりをした、あの人は、正光は人を愛せない。わたしは、逃げられない。

「だれもいらない。だれもほしくない」

 つぶやいた、取り囲んだ人形が笑う。

 布団にもぐる、雨音が消える。


 硝子窓に彼の零れる笑顔が映る、扉をあけ庭に出た。

 庭には赤い薔薇が咲き乱れ、色鮮やかな蝶たちが花の上を飛び交っている。

 薔薇の奥に黒髪の少女が座っている。


「ゆり」


 あなたは青年に名を呼ばれ、振り返り、駆け出す。

 また、美しい空に落ちていった。

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