第一章 3

 と語られても具体的な説き明かしにあたる内容が見あたらないから、りかいしづらいだろうけど、逆説的にかんがえるとはじまりが魔術でそこから細かく分れることで魔術はことなる名前をつけられ、過ぎ去った遠いときに魔術とか、魔法とか、呪術とかいわれていたなにかは、いま、このときにはそれが過ぎ去ったときには魔術とかそんな名でよばれていたとはかんじない、おもえない、かんがえもしないなにか、魔術とはことなる名をつけられ、あたりまえのものとしてこのときにあるなら、ときが過ぎ去ったいまは魔術とよばれていたものだとはだれもきづくことさえない。過ぎ去ったときのあいだに起こったできごとがとかれないということは、そこにたくわえられ、積みあげられたはずの現実をとりだせないということ。


 「わかったかな」


 顔を見つめると、まだ耳なれないことばの洪水におぼれないようにすることで一杯一杯でりかいの領域のとびらをあけれずにいるらしく、おもしろいという感情にはかなり遠い。


 「ゆりは占をしっているとおもう。占にタロットとよばれているものがある。タロットにはカードの性質をしめす番号と名前が振られていてその番号や名前を手がかりに占うけど、タロットカードの番号が1と振られたカードにつけられた名がなにかしってるかい」


 しってたね、タロットは有名になった、たしかに1の名は魔術師。占とは後の時に、こまかくわかれた名のひとつで、わかれる前は魔術とよばれていたことをしってたかい、人はなにかのきっかけをえてかんがえたり、おもったり、かんじたりすれば、つまりそのなにかにふれることさえあれば、きづくことができるかもしれないものをふれることがないためにきづかないままでいたずらにときをすごしていくことも、おおくある。


 「もうひとつ問いかける、数について学んだとおもうけど1という数よりも前にある数をしってるかい」


 そのとおり。


 「では、タロットカードの番号0につけられた名前をしってるかい」


 そのとおり、愚者。それは過ぎ去ったときもいまのときもまったくおなじだとおもうかい。


 「愚者と名づけられたカードの数はタロットという占が生まれたときから0だったとおもうかい」


 あなたはかんがえている。かんがえさせておいていった。


 「過ぎ去ったということは、過ぎ去ったときにつながるできごとが必ずある。過ぎ去ったときのできごとはすでに決まったこととしていま、ここにある。だから、過ぎ去ったときをかんがえて答を見つけようとするよりも、過ぎ去ったときにあったことをしることが大切で、たしかな答を見つける道だとはおもわないかい、ゆり」


 あなたは、おおきくうなずいた。


 「過ぎ去ったときのあいだにあったできごととして事実を語れば愚者のカードに番号はなかった」


 タロットという、いまでは占のためのカードとおもわれているカードは、遊戯のために生まれたもので、あるひとが遊戯のカードで占をしたのがタロット占のはじまり。


 「もうひとつ問いかける。占をしんじるかい、ゆり」


 真剣な顔になり、しんじると答えた。ぼくは微笑んでいった。


 「ぼくは占師でもある。けど、占についてしっていることをはっきり告げると、占にはなにも根拠がない」


 あなたのこころのときはとまった。


 「解き明かしを、つづける」


 こころを叩いたことばに、あなたのこころのときがゆるやかにうごきだす。


 なにごとでも理由を探すことがいまだしらないとびらをひらくときの鍵となる。こころのとびらをひらく鍵があるが、人はそれをしりながら、しらない振りをして落ちている鍵をひろおうとしない。なぜなら、それをみたくない。


 なぜ、みたくないのか、理由はとてもかんたん。それは、自身を自分だと自覚する前に見てた景色にそれをひろう人をみてないから。かんたんにいえば、人は行動や思考の指針であるなにかを自分ではなく他のだれかからおぼえる。たとえばゆりなら、あなたがゆりになる前にもっともはじめに出会ったのはだれかということ。だれと出会い、あなたはきづいたら自分というみずからをおぼえたのかということをこれまで生きた時間を振り返り、かんがえ、おもってみると、そのかんがえ、おもう前にかんじるという、かんじ、おぼえたせかいがあることにきづく。人は生まれてすぐことばを話せるわけではなく、ことばとはおぼえることでつかえるようになっていく性質のもの。だから、あなたには過ぎ去ったときのあいだに現実として、ことばをおぼえていないときがあった。これはあなた自身がみとめざるえない事実としてわきまえておかなければならないことだが、その大切なことを大抵のものはわきまえず、みとめることもない。だから出発点をうしない、到着点もわからず迷う。


 あまり語りが遠くなるとこころにとどいたこともおぼえるまえにわすれてしまうとおもうから。


 あなたはきづいた。どうして慣例として魔法名をつかって魔術をかけるのか。どうして師匠が魔法名をおくり、弟子がその名により魔術としてのちからを降ろさないとならないのか、これは追体験をするため。あなたは、しをしるまえに、あやまることをしる、過ぎ去ったときを生きているあなたとしてではなく、ゆりとして。どうしてこういう過程がいるかというと、あなたがみてきたもの、きいてきたものがただしいものではないから。あなたはこれから、まちがいのおきないせかいである隠れた知る恵みの天球を歩く。そのせかいが一なる領域。


 「ゆり、あなたは自分のこころがなにでできているか、しってるかい」


 すこしだけ、かんがえるということをして、あなたはかんがえることをあきらめた。


 こころは物としてはありえない。物ではないこころをうごかしている原理を探しもとめ仕組みを見つけることが、遥か遠く過ぎ去りしときのあいだを生きた人たちの願いであり望みであり、いま、このときにまでつうじるすべてにとって必要な希望。過ぎ去りしときのあいだで見つけられたこころをうごかすことに必要な、不可欠な原理をしめしえたものは数。魔力という、ともにつうじるちからのおおきさを得るために、数による計算という技術が必要となる、答をまちがわないためには。


 「ゆり、わかったかい」


 ふいにたずねられ、あなたは自然にうなずかされた。


 1という数はそれが1をあらわせないということはない。言語は、変化する。変化するものを基盤にして物事をかんがえると、それがどのように変化するのかさえわからないなら、もう、お手上げ。数は物としてありえない。それは物としてありえないものをあらわすことが可能であるということをしめしている物としてありえない、しかも共通の原理を持つもの。これほどこころという、それそのものをあらわすかたちとちからがないものをうごかすのにあうものはない。難解ならわかりようがない。だから簡単にかえる。それが数ならできる。つまるところ過ぎ去ったときのあいだからつたえられた魔術とか魔法とか名づけられた方法と技術は、こころの仕組みを解き明かすことを目的とした、こころの教科書みたいなものだとおもえば、その知識と方法と技術はいまにつたわる名としてかんがえると心理学がふさわしく、実際に心理学の一部は原形を魔術の一端である錬金術をもとにこころの仕組みを紐解いたという事実がある。


 人はみずからのこころのおもむくままによくし、のぞみ、そのおもいをかなえようとしてもだえ、かなしみ、くるしむ。


 そこまでしてみずからこころがよくし、のぞむものはなにかといえば、みたされているという実感であり、その感覚を人はひかりとして感じ、ひかりはいろとして感じる。色は美につながり、人はうつくしいものを追いもとめ、わずかなときのあいだの生命を星のように輝かす。


 ゆり、おぼえておくこと。


 魔術は、感覚を理屈で解いてみずからのこころの壁に氷解を起こす技術。


 「わかったかい」


 自然とうなずかされたことに、あなたは、きづいた。


 知識を組み上げることで認識に変え、隠れた知恵から知恵を、知恵から理解を導くためにぼくは、まだあなたには聞こえない音を感じに変える。


 こころとはもっともちいさい音の数で組み上げるかたちにすると意となる。それはつまり音のこころだから言語を音で共に通じる領域まで分け解くと、数が言語の役目を果たせる領域にたどりつく。


 いまはうしなわれた太古の放浪した民のことばには数をあらわすことばがなかった。それはことばがそのまま数をあらわしていたことをしめす。ことばが数をあらわせるなら、数がことばをあらわせたとしても不思議はない。


 「ゆりは、そう感じないかい」


 あなたはうなずいた。


 「ゆり、感じたなら、感じたものを音にして。音にきもちとしての音階をあたえたものがこえだから」


 あなたは、こころに感じました。とちいさくこえにして、目をふせた。


 あなたの体のうごきは、あなたのこころのうごきをおもてにあらわしたもの。ぼくの興味と関心は人がなにからこころというかたちとちからを得るのかということ。それはつまるところ行き着く、宇宙つまりここの仕組みに。


 「ゆり、これからさきのためにおぼえるという領域のまえの領域ではたらくちからをうごかす方法をつたえていく、わかったかい」


 あなたはきもちよい音をひびかせ、すこしだけしるめぐみを感じていることをつたえてきた。


 おぼえるという領域のまえの領域ではたらくちからをうごかす方法とは記号。記号は、ふいにとっさにおもったり、かんがえたりできる空間と時間をうしなっても、道をふみはずさないためのひかりの線となる命綱、感じるための泉の糸となる感情、つまり、いとしいをうしなわないための禁断の呪文。いと、と聞かされてすぐに、いとしいということばのいとがこころに降りるくらいになれば魔術をかけることはそれほどむずかしくない。


 糸と思惟それは糸をおもうということ。では人はどんなときに糸をおもうのか、こたえはとてもかんたん、寒いとき。糸を布という必ず要する理想として浮かべるために糸ではなく糸をおり、完成された物として想像する。どうして布を想像できるのか、それは布というものが過ぎ去ったときのあいだに実際に創造されているから。つまり現物を見たり、ふれたりしたおぼえがあるからそのおぼえている記録からかたどる対象を選んで描いていく、こころというひかりが当たった時だけ幕に線を描き、感覚の輪郭をきもちとして実体につたえる機能は。機能とは器官があってはじめてなりたつ。これは物としておもい、かんがえるとわかりやすい。これから魔術師としておもい、かんがえる方法をさずけていく。


 はじめに、魔術とは常識と対なる方向から必ず要する真実をみちびく技と術ということはおぼえておくこと。


 「ひとことでいえば魔術とは逆算の技と術。本来の計算式であれば問があり、式があり、答がある。魔術の計算式では答があり、式があり、問がある。大切なのは順番。ときを刻む数はけしてある数をとばしたりしない。はじめからおわりに向い数は等しい速さで進んでいく。魔術は等しい速さで進んできた数を逆に見ていくことで、結果から原因をもとめていく技術であり、技法。なにごとも順序が大事。順序をちがえると、弦楽器がはじく弦の順序をかえるだけで音を変え、曲を変えるように、まったくことなる曲というオオゴトな結果になりかねない。まずは、決められた弦からはじめないとならない」


 が、そのまえに確認しておかないとならないことがある。


 「ところでゆりは、領域という言葉の意味がわかっているかい、領域とはどういう意味でどういう内容かな」


 簡単にいうと場という意味と内容として受け取ったのか、領域という言葉を。領域とはあるちからとか、作用とか、規定などが及ぶ範囲のことで、範囲とはある一定の限られた広がりのことで、場とはなにかが行われる所で、所とはなにかが行われるところとか、なにかがあるところなんだけど、と問いかけに戻るといつまでも次に行けないから、いいたいことだけ告げる。


 「ゆり、これが理解の回廊だからおぼえること。わかったかい」

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