第八章 7

 自信を表現するには、たよりない表情であなたは見つめる。


「ものにも、ことにもならびがある。なら、ならびをしることがいる。いるということばはあるにつながる。あるからいる。いるという、ある具体的な言葉から抽出された抽象的なことばは具体化して言語にもどすと要るという言語になる。いるというおとにあわせてそのおとが象る内容を音にして表すといるは要るになり、いるという音はほかにも入るという内容に変わる。いるは入るという象りの音からおとにもどすことで、はいるという抽象的なことばになる。いるものがはいるものなら入るの対にあることは出るで出るはおとにもどすと、でるになる。出るものは出てくるもので出てくるなら出て来るから出来るなら、出来るためには対として出るの対で入る。来るの対で行く。なら入るから行くで、いるは要るで要るとは具体的な言語に変えると必要となり必要だから行くなら出て来るものは出来ることになる。単純にいうとこれが魔術の理屈だけどわかったかな」


 あなたはなんとなくという顔をして、不満には満たないかすかな笑みを浮かべた。


「もう気づいたはず、過去の事実を開示するには解字することが必要不可欠だと感じた、だから解字から意味のつながりを探った。共という字が両手でものを持つという意味があることをしり、時とは日と手足だとしり、性がうまれつき持っている心の働きの特徴で、解字だと生は、芽が地上に生え出るさま。性は心と音符の生で、うまれつきのすみきった心のこと。ということがわかり人がもっとも心が澄んだ状態というのが無心で、心が無い状態で、無いは、亡いで、心が亡いと忘れるで、忙しいと忘れるというのに気づき、気に留めるというのが心を集めることだとわかり、中心に集まるからそれは落ちるということで、それは重力で、引力で、重ねて引くのは弓矢で、弓矢は復元する力を弾力にして矢を放つということで、知とは矢で、じつは知に近い字は医で、知恵が医なら理解は正気で病んだ正気が病気で、病んだ気を集めると病気が起こるのではとかんがえた」


 顔を見つめながら語っているが、あなたの表情から理解の片鱗が見て取れる。だから続けた。


「病んだ気とはどんな気だろうとかんがえると、湿度の高い気で、どこが湿度が高くなるかといえば光が当たらない陰で、陰を生むのは壁で、心に壁を作る癖が僻みで、僻とは素直さがない状態のことで、という流れが比較することで生まれるのではとかんがえると、どうして比べるのかという心理が上下を感じるからという答に結びつく。共とは左右の手で、時を解くには足がいるから、趣旨に興味を抱けば起こりも怒りも同じ感情から生まれるのだと気づけた。それは相反する気持ちで明らかとなるのは見える方で、聴こえる方で、それは音よりも声でより感情として輪郭を描きやすいのは、危険を感知した時で、それが好きと嫌いならどちらなのかは肌で感じるだろう。嫌いなら近づかない。好きよりも大好きのほうがより近くにいたくなる。心も体も重ねてもそこには悦びしか生まれない。歓喜が快感を生み、それは絶頂に達して白く消える。なにもかんがえられない時に人は頭の中が真っ白になったという、その状態は無心」


 あなたは無心で聞こえない音を象り再生し、こころに形として刻んでいた。


「人は意識しなくても有利と不利、損と得をかんがえてしまう。なぜなら意識しない状態である無意識とは普段の意識の自動化に過ぎない。普段に自分の利益しかかんがえない人は無意識にも自分の利益のことしかかんがえる力はない。自分に不利益を与える相手を人は快く思えない。なのに自分は相手に不利益を与えることを愚かだと感じない。なぜなら相手のことをかんがえない、思わない、感じない。つまり相手のことを思えないから。そんな状態は数にたとえると零となる。でも現実には相手は相対としてある。それが陰陽の理。自分が光なら相手は闇だと気づかないと優越感に浸り、相手の劣等感を呼び覚ますことになる。覚えるのは見たものを学ぶということだから、まずは見せる必要がある。普段学べないものを見せるには普段ではありえない状況がいる。それが死と再生の儀式というもので、あなたは短編小説の世界でそれを感じ、受けて本能の怖さをかいま見た。情は心から生じるむきだしの反応の働き。でも、感情はいつしか力を失い残るのは理性での思考。感情は感じるもの。だけどあとで思ったり考えたりするのは残された言葉。だから心からの言葉ならそこにはいつまでも念が、いまのこころが残る。いまはいづれ過去になり過ぎ去る。未来を良くしたいならどうすればいいかをかんがえたり、思ったりしないと。かんがえるにはかんがえるための材料がいる。その材料の素材を集めるには時が必要になる。心には習性がある。習うは学ぶに近く、教えるに遠い。教えると学ぶを方向にすればどちらが上でどちらが下かは感覚が正しいならわかる。わかったよね、感覚が自然から生まれていることが」


 あなたは、しずかに顔を上下に動かした。


「ゆり、人の本質とは他と異なることにある。であれば他の人は自分と異なるわけだから自然に還元すればいい。そうすれば周りの人は環境に変わる。自らが環境の中でどのようにするかだけが自身の問題となる。これは考え方として数に変換するなら01と01を01と10に変え、形に変えるならそれは小と大に、少と多に変える方法。人間の思考は大体において一方向にしか向いていない。だからそれをうまく利用すれば自らにとって不利な方向からの力を閉じることが出来る。ぼくはこれを閂と呼んでいる。これは感を抜くための術で本能からの干渉を閉じるためにどうすればいいかとかんがえた末に編み出した方法。自らの偏る感覚を矯正していくにはより優れた世界の中に潜在、顕在しているいろいろな力の用い方をしっておく必用がある。つまりは優れた人達から多くを学ぶことで均等な視線と視覚を持つことを可能とする。であれば死角はなくなり、自らに発生した都合の悪い問題を全く別の角度から眺めることで感情と現実を分離させ、その中に必要を与える思考を求めることで解決することが出来るようになる。知識を記憶とだけ感じているようではそこに含まれる情報は資料としか見ることは出来ない。情報は活かしてこそ心を青くし、報いる力となる。出来ないのは知識に必要を生まないから。要と出来ない情報の本質は資料としての認識しか与えられることはない。ゆり、しってるかな、彼のこの言葉。私を誤解しない者は幸いである」


 あなたの表情がしらないと告げていた。


 この言葉は真理を表している。もしゆりが今、現実に幸いであるならあなたの顔は悦びに満ちあふれている。仮に苦渋を刻んでいるとしたら、その表情を描かせた原因はどこにあるか。結果から類推すれば誤解していることに起因する。どこで誤解したか、曲解したか、気づいても、はじめから曲げて解いたとは認めたくないだろう、戻れないのだからそこには。でも、もし本当にこれから進む国を王国に戻したいならこれまでの扉から、光り射し込む窓に変えないとならない、そのためには初めに開いた扉まで戻らないと。でも、初めの扉はただ振り返るだけでいつでも真後ろに閉じられずに開いている。出来るだけ早く気づいたほうがいい、いつかは戻らないとならなくなる時が訪れる、そこを仰ぎ、手を合わせて祈るために、現れる実は苦くなる。開け放たれた扉から吹き込む風は冷く、悲しい青だから。

「あることを自らで決めることでこの上の可能性を見失うとぼくは感じる。近きを求め過ぎて、遠きを嫌うことが今の心を檻に閉じ込め、与えられる力の幅を狭くしていることに気づけないなら、未だ来ない解きに気づけずに過ちのまま一章を終わる、揮発性のある自性に気づけずに」


 一度読んだだけであなたは気づいた、悲しい青という詩的な表現が現実の言葉として、非情と響くことに。

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