第八章 8

「数の不可思議にふれ、なんのために数がいるかかんがえた。思考の基本は必要と不要。この原理をぼくは、必要と不要の原理と呼んでいる。正直、ぼくは頭が良くない。だから専門用語が苦手で、言葉をわかるのにときがいる。数を学ぶのも大の苦手で、大嫌いだったから数学がわかることも捨てていた。なぜ数を学び直したか、それはほんとのことをしるには数と言葉の本質をわかるしかなかったから。数をわかるために、なぜ数を認識することがいるかという疑いの問いかけを解くことからした。結論は数は仮定。仮定である数をさらに仮定すると言葉は環境により変化するが数式は変化しないし、言葉は正確には共通にできないのに、数式は正確に共通にできるということを仮定し、数こそ世界の仕組みの謎を解く鍵だと断定した。ぼくのわかる範囲でわかったことは言葉は本能により、数は理性によっていることで、人は好き、嫌いで判断しがちな生き物だが、好き、嫌いという思考は本能より。必要、不要は理性よりだとおもえるから好き嫌いではなく、必要か不要かを断定の基準にする。すべての数が0から9までの数字であらわせることと、人の手の指が両手合わせて10本なのは偶然ではないはずで、学んだことに上の如く、下も然りという教えがある。上の如くとは宇宙のことで、下も然りとは人のこと。これは万物照応と呼ばれるものから導きだした教え。万物とはあらゆるもの。あらゆるものとは宇宙にあるすべて。照応とは二つのものが互いに関連して対応することと辞書にあった。これは宇宙と人は同じ原理でできているという教え。この教えも仮定。だが、この仮定からはじめないと人がたどれるかぎりの境界のほんとのことはわかれないとぼくはかんじている」


 あなたはきもちを口にして語ることができずにいた。


「すでにあるこの世界を理解するには既に木になっている今の心である概念を理解しないとならない。では概念とはなにかな」


 あなたはかろうじて象徴という言葉を疑問のかたちにして響かせた。


「概念とは象徴かい。では象徴とはなに」


 象徴とは微かに象ったもの。とあなたが答えたので、ぼくはさらに重ねて問いかけた。


「微かにかたどったものはなにかな」


 きもちと口にしてあなたは目をふせた。


「象徴とはあるものを、その物とは別のものを代わりに表象することによって、あるものを間接的に表現し、しらしめる方法というのが定義で、象徴の別名が表象で表象とは知覚した印象を記憶にたもち、再びこころのうちに表れた作用をいうが、元来はなにかに代わって他のことを指すといういみで、そのいみに通じるものが象徴で、微かに象ったものを表に象ることで微かに象られた印象である抽象的ななにかを具体的にかたちとして象ることで、表に象ることができる。つまり、ひらがなから漢字の変換とは象徴としてあらわれた印象を表象に変えて内に含まれた意味や内容という抽象的な事を具体的な場として表象することにある」


 瞳孔を広げることで、あなたは理解出来た、つまり知恵から入ったなにかが理解から出て来たことをつたえてきた。


「あなたのきもちを具体的に表に象ると気持ちになることはしっているね、印象の象る印とはしるしのことだとしっているかな、しるしとは他の形に象ると徴となることも。きもちの目印になるものはなにかな」


 め、と音にしてあなたは視線を落とした。ぼくはその音をカタカナに変え、もう一度きづかないことにきづかせたことに、気づかせた。


「あなたになくてぼくにあるものがある、それがなにかわかるかな」


 知識。とあなたは答えた。


「知識か。知識だとしたら、ぼくは知識を集めたけどあなたは知識を集めなかった、そのちがいはなにから生まれたのかわかるかな」


 わからない。と答え、あなたは途方に暮れたような顔をした。


「概念とはすでにきになったもの。それはいまのこころ。であればいまは木になっている。けど、むかしはどうかな。むかしとは過去。木になったものが過去なにであったかわかるかな、それが種からはじまることにまちがいはない。ぼくがなにを語っているかわかるかな、種から根が出て芽が出るから萌える、それはこの星が燃えて生きているから。ぼくにあってあなたになかったものは熱意、ぼくは今が嫌いだ、だから未来はもっと好きになりたい、その熱意がぼくを知恵から知識に向かわせた原因だよ」


 表情は変わらなかった。あなたはきもちとしてかんじた温度から表情を変えることはしたくなかった。ぼくは繰り返しおなじことを語るしかなかった。


「聖書にはしるされている。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 主なる神はその人に命じて言われた、あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない」


 あなたは表情に行為を表した。さらに聖書の一節をぼくはつたえた。


「主なる神は言われた、見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕せられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」


 表情は氷のように現れ、あなたの冷たく固いなにかを象っていた。


「もう、こころにないとおもうから繰り返す。聖書はたとえ話だということは聖書にしるされている事実。ぼくは、感覚を間隔にして感情を方向で表す術を見つけた。すると善悪とは上下にすることで上が善で下が悪にかんじられる。これは人により共通の認識としてはたらく。善悪を前後にすると前は善で後は悪にかんじられる。ということは見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなったというのは人は上下をしるものになったということになる。主なる神とはかみだから上となるから神は上で人は神に似せてつくられたのだから上ではなく下ということ。上である神はわれわれのひとりと語るのだから複数をあらわしている。善悪をしらないということはつまり上下と前後をしらないということ。その状態であれば自然と真ん中しかないということになる。つまり真ん中とは今で、こころとは象れないなら輪郭がないから自然と生まれたものは中心にあることになる。なぜならそこからしか広がらないから。というのがぼくがひらがなから小説をしるして、こころをといた理由。理解できたかな。旧約にこんな言葉が記されている。目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます」


 こころに氷原を象ったかのように、あなたは冷たい風に晒されたように微かに身を震わせた。

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