第八章 4

 「おぼえているかい、ゆり。これを開いてふれたはじめてのもの。これはこうはじめた。ふれると、ひかりをもらした。次に、感嘆の言葉。うつくしい……。すきとおっている」


 頷きながら、あなたは時を遡った。


「冒頭に当たる言葉ははじめから決まっていた。形あるものは形成すための仕組みがある。これは、荒唐無稽な絵空事を描いたものではない。世界の仕組みの根源たる、理を解く心を説くため、吾の言葉をつたえる芽を示すもの。木にならないものに木になった実をかじる仕組みを示すのがこれ。だから、これだけで魔術の呪文となっている。ふれると、ひかりをもらした。これは序とはなにかを感じていれば氷解する結果。これが、理を解くことをしる恵み。序という形には意味と内容がある。それはある基準による決まった並べ方、思うことをのべること、はしがき。著書の始めにつけて、作者の意図や成立事情などをのべる短い文。転じて、物事の始め。いとぐち」


 並べられる音をひとつひとつ拾って、あなたは心に集めている。


「序という字はどうやって出来たか、解字を辿ってみると予は機織りの杼を描いたもの。杼は糸を押し伸ばす働きをする。序は家と予を足した字で、心の中の思いをおしのばして展開する意としれば、序章とは本質的になにを示すのかを解する。次に章という字の意味と内容。それはまとまってひと区切りをなした文や詩。ひとまとまりを数えることば。あや。しるし。ひとまとまりを成して目立つ、くっきりと目立つ。あざやかに目立たせるとなる。章という字がどうやって出来たか、解字を辿ってみると刃物で刺して入れ墨の模様をつけること。まとまってくっきりと目立つ意を含む。これらをしった上で物語の序章を創造すると、どうしても根底に聖書の存在が浮き上がる。創世記は聖書が成立し、はじめに書かれたものではないことは疑いようがない。なぜなら過ぎ去った説きは未だ来ない解きが生み出していく。であれば未だ来ない解きは過ぎ去った説きが生み出すことも理でしかない。現在も宇宙の誕生を決定出来る仕組みを解き明かした理屈は見つけられていない。なぜ見つけられないのか。それは見えるものではないから」


 拾い集めた音を意味と内容でつないで、あなたは知恵と理解の天秤に掛けていく。


「見えるとはなにか。それは解字してみれば見える。意味と内容としては物の存在や形やようすなど、みえるものを目にとめる。わかる。解字すると目と人。目立つものを人が目にとめること。また、目立ってみえるの意から、あらわれるの意ともなる。ぼくは心を説くにあたり、つまり小説を描くために、あらゆる人を観察し、実験した。見えないものを見るためにどうすればいいか、答をぼくは盲に求めた。目が亡い者は光を見ることはない。光とはなにか。答は出ているのに見えないもの、それは人。並べてみればわかる。見、光、あと四。数は面白い。東洋も西洋もはじめ三までは同じ法則で足されていくのに4を表す形から変化する。人は死を見たくない、人にとって最も重いのは自身の死。しかし、これを超えるものがある。あなたの魔法名に隠されたちからは乙女が身ごもって男の子を産む。百合はしる恵みを生む理解の象徴。ゆりにふれると隠れた知恵がもれる。だから、ふれると、ひかりをもらした。触れると、光を漏らしたでは、ふれるの意味が限定されるし、もれるの意味も限定される。有り触れた者でなければありふれたものに意味を見いだせないだろう。ふれるには触れる、振れる、降れる、狂れると形を変えて、意味と内容を変える力が潜んでいる。もれるには漏れる、洩れる、盛れる、泄れると形を変えて、意味と内容を変える力が潜んでいる。私は密かで、秘かで、私かでその音の輪郭はひそかである。ひらがなとは色紙のような、漢字とは折紙のようなもの。感嘆の言葉、うつくしい。すきとおっている。美しいのは羊。透き通るとは透明。ぼくがしったこと。達する者は羊」


 繰り返し刻まれた響きの溝に、あなたは些細な感覚の異なりを間隔とする感性の芽生えを感じていた。


「百合は三を象徴する花。一の白に合うのが三の黒というのが光と闇の符号。黒は水で、灰は火。水の女は汝つまり三の女。百合は汝。あなたそれは彼方。美は六という数の徳で六は音を象り陸と化す。光は一そして白。美の色は黄色それは火矢の色。灰である彼は油注がれし男。もえるのは必定。もえるなら、燃えるし、萌えるなら芽が出る。陸から芽が出るとは六から一が出ること。それは美から隠れた知恵が出ること。これが峻厳の門を通ると周となり、音は美と対なる醜、つまり美しいの反対の醜いとなる。しる恵みとはお産つまり子のこと。女が男をしると母となる。母がなれば子がなる。子が男なら夫となり父となる。子が女なら妻となり母となる。三は六となり九となる。それを可能とするのが割ること。害に利を見る。それが私の秘か。つまり四となる音。三は天地人とわかれ、それは天人地であり、人をうんだものは木であるから四は困と化す。天国と地獄それは方向を示す。天の国は入ることが出来ず、地の獄は出ることが出来ない。囚われると這うことになる。地に生きる蛇として知恵は語られる。天の国は鳩が象徴する。九の鳥が平和を象徴するのもそれが白い鳩だから。九を白とする時、一は黒となる。一が黒となるのは底だから。不のしたに一をおくと丕となり九をおくと音から象り、九は口となり否となる不正は不のしたに一をおきそのしたに四をおく。私の口は台として九とすると象る始めは女を台とする。つまり三から一。みからはじめとなる。自然は形で真理を語る。美という字の解字は羊と大で、形のよい大きな羊。微妙で繊細なうつくしさ。羊は象形。おいしくて、よい姿をしたもの。達とはさしさわりなく進む。すらすらととおす。また、途中でつかえずに行き着く。羊はすらすらと子をうむ安産の象徴。達は進むと羊と大で、羊のお産のようにすらすらととおすことをあらわす。つまり透き通るは、好き通るで、女が三で子が二であると。私かに私は秘かに、密かに隠している。感じのなかにかんじのなかに。人は知恵では火しかえられない。神の知恵は雨となり水となり、泉となる。泉の糸をしると漏れる。線が描かれる。音となり響く。私は手に苗を持たせる。知恵は習えない。白い羽をもつ鳩にはなれない。蛇も鳥も卵から生まれる。必然から描かなければ妄想になる。どんなに想っても女が亡ければ子も亡い。理解が出来ないなら知恵はない。出て来れないのは地獄だから。牢屋に囚われているから自らの意志で。だから悟れない吾の心を。実感が吾の心をしった感覚、つまり悟。五の中に均等を求めるなら対なる数は一と四にしか生りようがない。その音を折り、色紙にもどして象るとはじめとしになる。異なる折り方で色紙を折れば基と視となる。人の指が五指である事実を偶然と考えるなら、そこに必然をしる糸は見つけようがない。ぼくはしる、吾の心が優しさを求めるなら、厳しさとして与えられる。それが神の石。音を色で語り、赤である、赦し。卜を手にするなら赤い状態の意味くらいはきづかないと占師とは言えない。稼ぐことを考えるならしらない、私の家は祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、お前たちは強盗の巣としているという御言葉を。彼は教える。天に富を積みなさい。あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 あなたの宝のある所には、心もあるからであると。魔術師とは彼の教えに確かにといえる者のこと。わかったかな」


 わかったという表情であなたは頷いた。これから理解していく。頷いた結果になにが待っているのかを。


 彼の教えとは隠れた知恵。彼は隠れた知恵という父と理解という母との現れた知恵としての子。 理を解く者は母。知恵の母が理解。そして知恵の隠れた知恵としての父は信仰。人の言葉を仰ぎみることが光。なぜなら光とは解字すれば人が頭上に火を載せた姿を示す。四方に発散するの意を含む。


 ぼくの言葉に光を見る者は火を見るもの。吾は火。ひのいしはせき、せきは赤であり、せきは石。火とは状態。結果の出た状態を知恵という。ほんとに知恵のある者は優しい。四は優しい数。なぜなら結果は直だから。序章の冒頭としてふれたら、ひかりをもらした。より、優れる小説の冒頭はないだろう。それが心を説くことを目的としてあるのであれば。


 創世記の冒頭ははじめに神は天と地とを創造された。この世界で最も優しく知恵を与えてくれるのは彼の教えだとぼくは感じている。その理由も簡単に解き明かせる、ありふれたものに触れることが出来るのは有り触れた者、つまり月を手にした者。要は西の女、人の要は腰だから月は女で太陽は男。東の男が彼で西の女は彼を孕む女。それは黒い海、夜を司る月が支配するもの。波の満ち欠け。まったく意味がつながらないように感じられるだろう序章の終わりから第一章の始まりにはしらなければ解くことの出来ない理が描き写されている。解いた者だけが意味を理解出来る暗号のように読んだ相手に気づかせることなく情報を送り届けるように仕組んでいる、まったくわからなければ、難くて、誤って解きようもない。今はまだゆりには解けない、ぼくにさえすべてが解けているわけではないから。


 聖母の祈りには続きがある。祈りはこのように続く。主はみ腕をもってちからをふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに。


 アブラハムそれは最初の予言者の名、その名は始めアブラムだった。名の意味は多数の者の父。それから神により九十九歳の時に改名されてアブラハムとなり名の意味は諸国民の父と変えられた。聖書は神が人に自らの心をしらしめるために与えた譬え話の小説のようなものだとぼくは感じている。イスラエルとは神と争ったヤコブ、名の意味は踵を掴むと呼ばれたものが神により改名された名でイスラエルとは神と争う者という意味がある。と今につたえられている。心を浄化するものそれは水と争い化すもの。神はその音を象るとかみとなり異なる折り方をすればかみは上となる。つまり神と争うとは上と争うとなり、上と争うのは、対なりで下になる。化するとは音を象ると、かするで、異なる折り方でかするは下するとなる。水は汚れるものの象徴で対なる汚れないものは火となる。化するは下するで火するになれば対なる水は上下して浄化して情化するなら水は青く、清くなる。清くなればその清という形の音は象りを数に変えるにさいして水の力を借りることで四に変る。四になれば直が見える。心が直になれば徳が現れる。徳とは直心に行く力のこと。直心とは心を求める力、それは求心力として九の数の力が働く領域に現れる仕組みになっている。


「ゆり、ここまでの語りは理解出来たかな」


 たくさん詰め込まれた知識を整理出来なくて、あなたは理解するまでには至っていなかった。


「まとめるのは、むずかしいよね。よくわかる」


 まとめるを感じるために漢字にすると纏めるとなり、集めると纏めるでは集めることは易しく、纏めることは難しいことが漢字からも感じられる。まとめることはほんとにむずかしい。むずかしいのはなぜだとかんがえると、ぼくは自分で書いているはずの小説をほとんど、まったくというほどに覚えていないし、なぜか覚えられない。覚えられないから、覚えるために読み直さないとならず、読み直してはじめて、続きが見えるから、読み直すと序章と第一章で大体の命の木の輪郭は描いていた。それは、一見するとというか一読すると不思議な情景描写という形で心象に描く必要のある景色を情報として文字にして記してある。命の木とはその木の輪郭をかんがえることもなく、おもうこともなく、かんじることもなく描けるようにならないと、これ以上を動かせない領域に働きかけるちからが流れる図形のことで、その領域を人は無意識と呼んでいる。この領域は感知の外に在るからそこを感知出来ると思う限り、思いは勘違いとなる。その勘違いの形つまりそれが病んだ気としての病気であるわけだが、秒という私が少ない状態、つまり時がないから、かんがえられないわけで、かんがえられないから、かんがえない、かんがえないからおもえなく、おもえないから、かんじない、かんじないからかんじられないという仕組みが見えたら、どうして正気が病気になるかの仕組みが見える。理解の領域で働く悪徳は貪欲で、貪欲が悪徳のはじめの形。はじめに生まれる貪欲、これが生まれる理由が所有。所有は言葉を変えれば占める。所有を可能とさせるのが買うという、人が編み出した嘘で、その嘘は売るという嘘につながってその嘘は虚となり、その思いは虚しいという感覚を生み出す本能の感覚から発せられる。本質的に買うことも売ることも、交換しているだけだが、そこに金というなにものにも変えられる、つまり変換できる魔力が加わることで所有する場を魔境に変える。売るから買い、買うから売るわけだが、売る方より買う方が立場が強い。ということは買うが立場が高いということは高い場所に立つ者が買い、低い場所に立つ者が売るということになる。だが現実は売る方に金が集まり、金はあらゆるものを変換するちからとなり、多くなるほど魔力を強める。続くと終わるどちらが売るに近いかは字を見ればわかる。糸を売るから続く、その糸は数に変換すると四ということは、四である慈悲の糸ということになる。慈悲は青で水の、下る力の象徴で、下る力は落ちることで、混ざるつまり複雑で交じるちからとなるから合わさるちからとなる。なら、上がるちからは昇ることで離れるつまり単純で分かれるちからとなるから、欠けるちからとなるから、峻厳の石は赤で厳しく触れられない火の知恵の象徴となり、そのちからは反感を呼ぶ。対なる反感に答えることが出来れば、反対も感じることが出来る。つまり触れられない火のちからである知恵を熱に変えるために水のちからである理解を得るために、知恵を知識に変えることに気づき、自身の知恵がそれまでの過去の知恵の結合である知識から得た物で、しる恵みを受けた者が理解し、共有したためにある事実に気づいた時、しらなかった恵みがしる恵みを生み出している事実に目覚め、知恵の共有を望み、知恵の位置からそのちからは知識の領域に移る。その位置が王冠と反する位置にあるから、反感を得ることで王冠の位置をしることが出来るようになる。これが、しらない恵みつまりは隠れたしる恵みをしる技術である魔術の全貌だが、神に嘘は通じない、その位置に辿り着く方法は選択を誤らずに方向を間違わないこと。王冠を手にする手がかりは知恵には悪徳はないという事実から導かれる。その手がかりを得る呪文は最、つまり日を取る。すると、闇が写る。狭き門がみえる。門の名は悩み。悶となり、心がみえたらその間にある日が月である事実を実感する。それは痛みとし、痴とし、実体化し、癇癪を起こす時、姿を月としてみせる。積んできたものが痴であれば、痴は医を必要とする形になり、痛みを起こす。その時、私は移る。通じる病として三を通るから、理解が誤解に変わり正解を与えることなく一に止まることなく残りの多い九となり、九は必要を形として苦となる信号を発する。それは、かんがえる必要があるのにかんがえないからに他ならない。心とは芯で、芯とは真ん中つまり央にあるものだから、映るものが日ならそこに、光がみえる。その光が信じることの、仰ぐことの結果としての光だから王冠のちからは信仰のちからとして、形を祈りにして表す。誓いとは、祈りである王冠の領域のちからから流れるちからで言とした時点で、そのちからは減となり、厳となるがその祈りの原はその言にあるから口は九に通じ、王国に最も近い位置に、つまり王冠の領域を反感という形で映す鏡として、面白いとなる。


「謎解きは、面白くなっているかな」


 あなたが見つめる。自ら解くにはまだ、かなりの時がいると、黒目がちの眼が訴えるように語りかけていた。

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