第八章 12

 「共通する、計算による理解という見解を導ける数の仕組みほど、天の仕組みの原理として都合のよいものはないと感じる。しかし、計算とはあらゆる生命に共通する原理ではない。大抵の動物は四を超える数を認識できない。人以外の多くの動物は四を超えると多いという認識になるらしい。ということは、本能は計算出来ない。最も多くの領域で物事を考えるなら植物の領域まで考えなければならなくなる。だが、植物が計算出来るとは思えない。であるなら計算しているのは理性ということになる。ということは多少という対に合わせるなら理性は少なく、本能は多いということに。なら、愚かさと賢さはどちらが多く、どちらが少ないか、考えるまでもない。そうは考えられないかな」


 あなたは考えることもなく、うなづいていた。


「はじめの前にあるものが、わかるかな。はじめの前にあるのは最も初め。これが否定と呼ばれる。これは人には認識できない。なぜなら人がしる必要がないから。否定は否定され、肯定に変わる。肯定として出て来たのがすべての存在を凝縮された力。これが点にあたるもの。点は上昇する力と下降する力が集まって出て来た形を持つ。そのために、認識出来る。認識出来るのは認識する必要が誰でもいつかはくるから。この渦を巻く力を人が本当に実感として知覚するには感謝、すなわち上昇する力と恐怖、すなわち下降する力がいる。二つの力が自分を犠牲にする心すなわち凝縮する力により集まることで循環する。これが渦を巻く力すなわち存在の仕組み。点とは人にとっては心であり、人が正しい力を得た時に認識出来る最も初めのもの。仕組みをしるには直観を通らなければならない。だが、直観は理性を通らなければ認識されず、理性は本能を通ることで力を得る。本能は欲望すなわち拡散する力から力を集める。宇宙は拡散と凝縮を繰り返すことで、ある。わかったかな、では最も終わりにあるのがなにかもわかったかな」


 わからない。と答えたから、分かれないとぼくはつたえた。


「それがなにでも、もっともはじめに自分を否定することからはじめないなら、ほんとのことはわからない。なぜかわかるかな」


 わからないと、あなたは表情でつたえた。


「なにがわからないのかな、否定という言葉が、言葉の意味と内容がわからないのかな、それとも自分を否定することの意味と内容がわからないのかな、どっちかな、それとも両方かな」


 あなたの表情は、自分を否定することの嫌悪、不快さを表に現している。


「本能から先に辿り着くためには本能を理解し、操作し制御しないとならない。そのためには理解の力を必要とする。理解の扉を開くもの、それが象られた字が非であり、非とはその意味と内容をやさしく描き直すとただしくないという意味と内容になる。ということは悲という感情はただしくない心ということになり、ただしくないから悲しいということになる。否定とはそうではない、違うと打ち消すこと。つまりただしくないから違うと打ち消されることが否定、つまり自分を否定するということは自分はただしくないと自分で自分を打ち消すことになるから、それが嫌だというなら自分は自分をただしいと感じている。わかるかな、これが本能と呼ぶ、力の正体」


 殻を見せつけられたあなたは重く硬い衣の色を見つめていた。


「どうしてそんなに、自分がただしいと言いたいかな。それは自分を自分で特別にしているから。あなたは自我がとても大きい。言葉では正確な思いはわからない。国が違えば、言葉が違えば、感覚は変わる。ひとつの国でも変わるし、厳密にいえば、感覚とはひとりひとり違う。あなたはただひとつ、自分の感覚でものを語っているに過ぎない。言葉とは形。たとえると雪。雪とは蒸気が雲になり、雨になり、雪になり、氷になり、水になり、また蒸気になり雲になる。あなたは言葉を氷として見ている。ぼくは蒸気としてみている。雲はどうやってできるかしってるかな。塩の結晶や大気中の細かな塵に水蒸気がついてできる。これなにかに似てる、それは人の心。人にはほこりがある、ほこりが小さく軽いうちは心の芯として役に立つが、あまり集まり過ぎて重くなると固くなり、いつしか、いしになる。いしが大きくなるといわになる。すると他人とぶつかり削りあうことになる。ときがくれば神がこの岩を砕き石にもどし、それでも大きくなろうとすれば灼熱の炎でとかす。出したことはやらされる。それがたとえ表情でもその表情が氷上を表現していたらそのこころが描いているのは氷原だと理解されるのはしかたないことだとあなたは理解しているかな」


 なにも言えず、ただあなたは見つめている。


「ゆり、こころは衣を纏い心という音になる。あ、という音はあ、という響きである限り、あ、という音に読める姿を象る。これは見える姿が異なり光の領域で異なる力として働いても、聞こえる形でしかない闇の領域では等しい力として働くことを示している。あ、という音の見えない領域で等しく働く力を見える領域で意味と内容を形にして輪郭を象ると象られる輪郭の形により意味と内容として示される力が変化する。具体的に解き明かすと、あ、の音を漢字に変換すると、雨とか、足とか、亜とか、或とか、あ、という音で読まれる限りの変換を可能とする。文字のはじめは絵で、はじめの絵とは輪郭を象ったもの。はじめは簡単で単純でしかありえない。あとになり難解で複雑になる。これは数の性質が起こす現象で、数は少ないからはじまり多くなる。はじめの数は決まっており、おわりの数は決まっていない、はじめは一で、足し続けるならおわりはない。掴むという字がある。掴むのは手で手が掴むのは国。掴むには同じ意味と内容の異なる字がある。それは摑む。摑むが摑むのは手で手が摑むのは國。国も國も同じ意味と内容の字だが異なるものがある。それは或と玉。或にも玉にも見えているのに隠れているものがある、それは戈と王、王が戈を手にしてつかむもの、それがくにとなればそこは王国となる。或とはなにか、或という形を象る音はわくという響きにもなる、その象る形の示す意味と内容は定まっていない物事を指す。わくという響きで異なる形を象れば惑という形が現れる、おなじ音に隠れていたのは心。惑の意味と内容は惑うで惑うとは迷うと等しい意味と内容を示す字となる。國は旧字と呼ばれ、国は正字と呼ばれる。国が正字つまり一に止まる正しい字なら、旧字は九の字で基盤となる字となる。或という定まることのなかったわくが一に定り玉という形の意味と内容に変わった理は届いているだろうか、あなたが引いたはじめの戸には」


 あなたにも、はじめの戸が扉であることはわかった。


「ゆり、ここに口と書く、口という字をなんという音で書いたのか、もし口という文字に当てはめられた音に限りがなければ、ぼくしかこの音を確信を持ちしる者はいない。しかし口には当てはまらない音と当てはまる音があるから口という字からどの音を選んだのかこの範囲を限りなしの範囲から狭めることができる。つまりそこは限りある範囲のなかで口に当てはめられた音がおおくないほど、異なる言い方でおなじ意味の言葉を用いれば、すくないほど選んだ音を探しやすい、ということは、見つけやすいということ。見つけやすいということは、見えるということを前提としている。では実際に見つけやすくしてみる。ぼくは口という字の音を数を示せる音として書いた。どうだろうか、直ぐにまたたいただろうか星の光のように、闇に」


 見つめるとあなたは微かに顔を揺らした。


「数字に漢数字と呼ばれている数字がある。並べてみると、一、ニ、三、四、五、六、七、八、九、十、そして零。ゆり、口という字の音として当てはめれる漢数字はどれかな。数をひらがなから漢字に変換したときには事実が結果を見せた。つまり果実として、果てに、実ができた。地からはじめに出てきた物は、しりたかったら種を地に埋めてみるといい、芽を見せてくれる。もし、口に現れた句に苦があるならば、その苦という現実である現れた事実はその実がなる種からしか生らないという事実をしることでしか苦を変える術はない。種から芽は出た、花はどうかな、美しい花が咲いたかな、どうして美味しい実が生らないのかな。苦は古いという漢字がある。古いには旧いという漢字もある。その音を数に変換すると九となる。実が熟れると九は丸くなる。音はその音をひらがなに変換すると、ねになる。ねという音を話しのつながりから漢字に変換すると根と子になり、古は音に変換すると、こになり、古とは異なる漢字で同じ音の漢字に変換すれば子になり、子という漢字を音で数に変換すれば五になる。吾は五で変換して子で口は変換すれば苦となり、吾は子に苦を。親は子に苦を与えたいかな、学ぶことは、与えること。それとも求めること。二つしかない選択が知恵の正体、それは方向をしらせる恵みでしかない。ぼくの言葉があなたには見えているかな、届いているかな」


 似たような言葉を重ねて繰り返し象ったことであなたにも仕組みが見えていた。あなたは当然という顔で声を上げた。


「自然の一部の形である理の欠片を象る漢字が、王冠の領域である数の力と形に変換すると一を示す文字なら、ひらがなは知恵の領域であり、数の力と形に変換すると二を示す文字で、カタカナは理解の領域であり、数の力と形に変換すると三を示す文字だときづいた。なぜ数を示す文字に漢数字を用いるか、理由は漢字が見た感覚から得た物を象った象形文字で、絵文字としての機能を失ってないからといえば、問いかけの答えとして納得出来るかな」


 あなたは、わかったという顔を大きく縦に揺らした。


「一つしかない大きなものとは天であり、天から地が生まれた。生まれた地は星と呼ばれる。あらゆることには異なりがある、それは力にも形にもある。天である一つの大きなものはその中に似るものと異なるものを生み出し、多くなることを可能とする。それが性の仕組み。性とは小さいなにかを生む。おそらくそれは最も小さいなにかで、それが心で、そのなにかは中心にあり、そのなにかが芯となる。それは同じからはじまるなにかの変化の道筋でもある。そのなにかが変化した力も形も同じからはじまり、変化して次にそのなにかは似ている力と形の領域となる。そのなにかが似ていることが知恵を、異なることが理解を導くためにある。ぼくはそう感じているが、実感は現実に根付いているからその趣旨は実がなる種子を秘めている。そのなにかを最も大きな天にあるなにかにたとえるなら輪郭を描いた漢字は光の領域の文字で、音にもどされたひらがなは闇の領域の文字、ひらがなを生み出したカタカナは暗の領域の文字となり、これらの複雑で難解な文字を組み合わせることで感覚を表現するこの国の言葉はだからこそ、最も大きな天が動く、最も単純で簡単な原理を示し得るとぼくは感じている」


 あなたはたしかに、なにかを感じていた。


「ゆり、こころの仕組みを簡単に解き明かすと、はじめの中心点とおわりの円になる。はじめの中心点がこころで、おわりの円が言葉。はじめの点とおわりの円の違いは大きさで、数や形ではない。つまり、変わるのは単位。二次元で円としてあるものが三次元になると球になる。理解の次元は三次元。二次元と三次元で同じ形を描ける形は球しかなく、球である限り視点がどこであろうと見える形は変わらない。これは、間隔が等しい、つまり間隔が同じことで起きる現象で、間隔が感覚として感知される限り、間隔を守り思考すれば感じ方と思い方と考え方は同じ感覚から通じて形を変えることなく大きくなることが出来る。簡単に解き明かすとこれが魔術の仕組みであり、祈りを誓いに変える仕組みでもある。そして、これが魂の仕組みだとぼくは確信している。わかったかな」


 わかった。とあなたは気持ちを音にした。


「しかし、人は均等を手にすることは不可能。だから、過ちを犯し、迷い、惑い、悩み、苦みだから、魔術は自らの否定から肯定を導く。わかるかな」


 あなたから飾り付けた光がきえる。


「ゆり。なぜまよい、まどうかわかるかい」


 わからない。とあなたは口にした。


「大きいから。わすれないこと。あなたは小さい」


 言葉が語るちからが、あなたにはみえない。


「ゆりは、多いかい。それとも、少ないかい」


 少ないと感じたのに、あなたは気づいた。


「まよいを、なぞに変える。それが魔術の力。おとを象り音に変えると解きが時を逆さにもどし、まよいを迷いに戻す。まどいを惑いに戻せばこころが心に戻る。心を貫けば慣れる、こころは小さい」


 空を見上げるように、あなたは上を見た。音に引かれるように視線をぼくに向けた。


「ゆり、知恵とは似ること。理解したなら絵描きが自分の理想とする絵描きの絵を模写することの理由もわかる。世界は最も単純な構造にして語ると芯と輪郭として語れる。魔術とはここまで仕組みを単純化したとき開かれる扉の向こうにある領域で働く魔力によりかける。人は理解の先にある領域の力をわかることはない。理解の先にあるのが知恵と王冠。王冠と呼ばれるはじめの領域で働く力を魔力というが、それはわかることのない力。だから信じる力だけど、魔力は働く力の方向が決まっている。魅く力であり、惹く力。方向として、引く力となる力。その力は引力とも重力とも呼ばれるときに自然にもどる力となる。ぼくの思考と感覚はその原泉を知識で満たしている。だから知恵の力の先である王冠の力に通じる。知識を満たした原因は疑問にある。ぼくがここで疑いの問いかけと呼んでいる力が理解の力だと気づけば、理解の原泉が好奇心だとわかる。理解の後にあるものが氷解。弟子であるあなたには師匠であるぼくの思考と感覚を写生してもらい描いた氷をとかしてもらいたいから、ぼくがほんとにどうしてだろうと考え、思い、感じていることについて語る。それは喪失の迷宮について、と記しても意味不明かな。ぼくの文章を読んだから気づけたはず、ぼくは言葉を数に変換して思考する。思いと考えで思考だが、そこには感じるという領域を表す言葉はない。よく見て。思いと感じには心があるが、考えるには心がない。心に当たるとどうなるか、当たるは、あたるであたるは当るで中る。であたることを命中というわけで、命に中ると心はどうなるか、心に中ると中る心で、中心となる。中心は一文字にするつまり纏めると忠となる。忠とは一言でいうと真心のこと。それはまた別の言い方をすると誠意という言葉になる。相手のことを感じる、相手のことを思う、相手のことを考える。考えるには心がない。つまり誠意とか真心とか忠とかそんな言葉の心の状態の時には考えていないということではないだろうかと思ったわけだ、少なくとも自然を象った、つまり自然を生み出した力の描いた輪郭を描いた自然からその輪郭を単純化して抽出された文字が形としてそう語っているわけだから。相手の痛みを感じる、相手の痛みを思う、相手の痛みを考える。自分が痛い時と同じように相手の痛みを自分が感じるなら相手のことを思うこともなく相手のことを考えることもなく、ただ自分のことのように感じ、感じたことからどうすればいいのか方向を求めていけるとぼくは感じた。というのは前置きだが、ぼくが語りたいのはそうについて。と書いても意味不明だと思うが、ぼくは根本的になにもかもがわからなくなった。ということはどんな小さいことでも不思議。で、草という植物があるが、くさという音でこの物を呼んでいるのはおそらくはこの国だけだと思うのだが、どうしてこの草という名前のものをくさと名付けたのかそのはじめに草をくさと名付けた人にその理由をきいてみたい。でも無理なこと。もし自分がはじめに草というものを見た人になったとしたらぼくはこれを草と名づけるだろうか。と考えるのだが、なぜどこから草というくさという音がそのものを表す音として表れたのかどこから。それがしりたい。草という漢字はもちろん、かの国で生まれ、でも、そのときにはその音はくさではない。草を表す形としては漢字の草というものになったのはこの国ではなく、かの国のことでそれをこの国は借りて使っている。それは数という漢字も同様でかずという音はこの国の音でそれをどうしてかずという音で表したのか。それがとても不思議。ぼくが数という漢字を読むと 米と女と卜と又と読める。それは向かうに奥と汝と占と手に変わり、米は稲から否に不を口にして不正になり丕に止まるとなる。で丕とは丸くふくれるという意味の言葉で木を足すと杯つまりさかづきとなるのだけど草とは木にならない植物の総称で気にならないなら感じないだろうということで草は早く、早いは黒いを意味する。そして理解を象徴する色は黒。なら正解しないと理解できないなら理解が正解で黒でなら誤解が白となる、なら白は光だから誤解が光となるなら理解が闇と。見るのは光で、聞くのは音。なら光に心があるなら光に心がつく字があるはずで、その字は恍となり、音に心がつけば意となり、意とはこころと読む。恍という字はうっとりするさまを表し恍惚という形で熟語になるがいま、あなたの表情がそのさまを示していることは隠しておこうか、自分の表情が見えないあなたには」


 続く言葉をあなたは待っていた。


「言語と言葉はおなじではない、にているが、ちがうと言語は語る、言葉は事と場に戻り、葉は土に戻る。わからないなら、惑うなら、迷うなら、なぜと自らに謎を問いかけること。謎が解けたら、道にかかった霧が晴れ、一筋の道が現れる。その道が歩むべき道。正しいは少ないにある。最善の道に向かって歩いている時、心と体はしんどい。それでも、最善を望むことが、最善の道。最善の道とは最前の道、道は最前になり、未知となる。かすかな、わずかなちがいが、たがいとなり、たがいをあわす。みえないものを象り見せると違いが違いとなり、互を現す。おとに気づくと声を超えるちからをえる。言は厳しく、音は易しい。因果の原因は心にある、音をしるなら因は恩になり響かせる、矢を射る弦の音を」


 曖昧に、不確かに強く響く、なにかを、あなたは感じていた。

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