第八章 11

 「感覚が通る道を、神経という。神経とは神と経で経の意味と内容は縦糸をあらわしている。ということは、神経は、かみのいとにしたがういとを表しているといえる。かみは上でそうなると上の糸に従う糸ということにもなる。生まれるという字である生の音はせいだが、生まれるが生じると読める事実はせいという音がしょうという音に変えれるという事実を示していて、その音が描く形を漢字に変換すると、しょうとは小と少となることから、生まれるときにはちいさく、すくないことがわかる。ということは、最も早く、最も先に生まれたものは小さく、少ないものということがわかる。生まれるという生という字はせいという音になるから、その音が描く形を漢字に変換すると正となり、その音は他にも音の形で変換するかぎり、せいという音はせいという音の描く形を変えてその意味と内容を変えた形に添ってあらわすということを理解出来るなら、音という感覚を生み出すおとがどれほど大切か、わかる。音は、声になったとき、言となる。音と言をしる者は識をしる。識とはしることであり見分けることでもある。正しいものや正しいことを正しいと見分ける識がないと、認識を誤る。認識とは識を認めることで、正しいものや正しいことを正しいと見分けることを認めること。正しいことを示す正という字はその音をせいとも、しょうとも変えることが出来る。ということは正しいことをあらわす音は、せいとなる音であり、しょうとなる音。ということはせいという音に出来る音としょうという音に出来る音が正しい響きの音。ということは正しいが生まれるときに響くのはせいであり、しょうであるから、せいとしょうという響きを形に変換すれば正しいに通じる意味と内容があらわれる。というところまでは認識できたかな」


 ちいさく頷き、あなたはみつめた。


「感じた、かい。うそみたいなことだけど、はじめには朔という字がある、それは逆さに進むと月に行くことをしめす。しめすことはかんじるために漢字にすれば、示すとなりその形を分けて意味をつなげると、二と小に。小はこころをしめす。なら一は大きい。大という字は人が手、足を伸ばした姿を象っている、つまり体をあらわしている。月は身をあらわし、太陽は心をあらわすのが対の教え。感じるとは心がかんじるのだが、その感覚を象った字である感とは咸と心。咸という漢字の読みはかんであり、みな。しかも皆という字とは類義語の関係だから、みな比べたら白と感じるわけだ、正義は白と感じる感覚は皆に共通する感覚で口に戌で咸で戌とは戈。で不思議だが戌とはいまではある動物のことでその動物とは犬とも書くわけで、なぜか黙るには犬があり、器にも犬があり、戻るにも犬がある。器も戻るも大としか書かないから調べないとこれが犬だとはわからない。調べつくすと不思議なことが、見えてくる。そんなものが糸としてあるから、つながるとひらがなで書いてきた。咸と糸を合わせると緘となる。緘とはかんと読み意味はとじる。糸を感じると、とじるらしい。だから口をとじることを沈黙とも緘黙ともいう。こころを感じるとどうなるか、その意味と内容を象った字が憾。その音はかんで、意味はうらむであることも、興味深い事実だとは感じる。こころは心として象る。それはちいさいもの。そして心を感じるために必要なことは集めること。集めるためにどうするか、自然は答えている。沈黙で。沈める。沈むのはなぜか、重いから。ということは大事なものや大切なものは重いもの。自らにとって最も重いものはなにか、だれでも同じだろうが、みずからの命。ということはみずからの命は最も下にあるはず、最も重いのだから。最も下にいくと、そこは中心となる。それは最も小さいもの。だから、最も小さいものを感じると憾む、なぜなら、その重さが自らが担ぐ十字架の重さだから。彼はいう。天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。示すもの、それは二は小さい。だから、わたしの荷は軽い」


 不安にも、焦りにも似たものが自らの奥に溜まっていくのをあなたは感じていた。それは開けては、触れてはならないなにかのような気がして、耳を抑えたいような軽い衝動が突き上げていた。


「こころは心とも意とも象れる。象られたものが意味と内容なら、こころという音にあらわれた意という音の心は音の中心をあらわしているとしてもおかしくない、ということは音が象るものが波形で、波形とは音の輪郭で、音の輪郭は、振動で、振動は力の波形で、波形は力の輪郭。ひとの心という力が描いた輪郭が言葉ということになるのだから、より正確にその力を描いた線をしるためには正確な輪郭を必要とするのは当然の必然。ぼくは、預言として言葉を用いる。それはぼくに対して与えられた御言葉を公開すること。なぜ公開するかといえば、円を描くために拡散するため。ぼくという個にあてられた時は凝結していた力を、解くことで知恵を理解に変えているだけで、知恵を知識と変えることで約束の弓を手にすることが出来るからというのは、秘密にされていることだけど」


 彼から時の秘密を開示されたことにあなたはいま、気づいた。


「知識とは過去の蓄積であり、知恵とは現在の恵み、なら隠れた知恵とはなにか、それは天才にしか知り得ない領域。秀才は蛇でしかない。天才は鳥になる。そのことを彼は蛇のように賢く、鳩のように素直にといった。と言う感じでわかるだろうか、ぼくの理解力はどこから来るのか。賢い女は聖母に学ぶだろう。いまだに、そんな女の人に会ったことはないけど……。女は閉じ、男は開く。これは共通の原理。開くものが光で、閉じるものが闇であることも、いわれてみれば氷解するしかない。宇宙は水素で満たされた空間であるからみずからのもとを生み出すのは圧力といえる。圧力を心が感じた時、心は消えていく。つまり、心は集まることで感じられる感覚だといえる。だから、緊張する力を集中力というのだろう」


 黙ったまま、あなたは聞いていた。


「だから、憧れという焦がれる気持ちが大切だとぼくは説いていく、点に集まる、光が集まる色が黒だから知恵である光を集める理解が黒。それは自然がそう動かしているから。光は結果、何の結果かといえば、水素の塊である太陽が起こす核融合の結果。みずからのもととは、太陽で、それは熱の塊ということ。人の身体は水素と酸素の塊。何ら太陽と変わらない。真理は最も多いものを探すと見える。それは特殊ではありえないから。天を閉じると点になる。その点は陸となる。それがつまり1が6となる仕組みで、白の6に黒の1が生まれる仕組みで、黒の9に白の4が生まれる仕組み。そして、これが陰を陽に変え、陽を陰に変える仕組み」


 黙ったまま、あなたは聞いていた。


「といってもこれだけで真意がわかるほど甘くない。真理とは面倒だと思うようなことを遣り尽くすことでしか与えられないだろうと感じている。実感という実をかじって知る味が理解だから。よくよく考えると現代で起こっている問題のほとんどが起こった原因はどこから訪れているか、それは西洋。機械は人を非情にする。便利は人を更に私の利に導くが割礼を欠けば、つまり礼を割くなら害となり表れる。それは見ずに満たされるはずの10を9にする苦となり表れ、不満は悪口となり句となる。敬をしらないから礼を失うことになる。英語ではこれだけのちを満たす言語としての機能はない。なぜなら英とは花だから。この国は、日の本の国。日の本とは太陽のもと。つまり水素。それは確かにみずからを語るにこれ以上に相応しい言葉はないだろう、光の、太陽という熱の結果としての熱意の形である光の字として。面白く楽しく生きたい。それが望むことなく生まれた願い。願いを叶えるために、つらなるおもいを受け入れ、言葉を吐く。それが魔術の呪文の力」


 黙ったまま、あなたは聞いていた。


「ここまで語ってこなかった真実がある。魔術とはあらゆる領域ではたらく力を変換させて限られた領域で最もはたらきやすいように限度をかけてあらゆる領域に流れる力を、望む現実に変える技術だが、それらの領域には位階と呼ばれる厳然たる資格があり、位階を得ないと先の位階に入ることはできない。位階は最も下からはじまり最も上の位階を超える資格を得て、はじめてあらゆる領域にはたらきかける自在な力を使えるようになる。つまり、理解できない時には理解の領域ではたらくはずの力が適切にはたらいていないということで、あらゆる領域の位階にはその領域の力を操る鍵があり、鍵を持たずに偶然にその領域で自分に扱える以上の力に触れたら、自分でその力を制御できなくなり、力が自然に治まるまで自分だと思っている心を自分で思いのままにできなくなる」


 なんとなく、あなたは魔術という幻覚の厳格さが理解出来はじめていた。


「いまのぼくは、どこから言葉にしたらいいのやら、ほんと、もうよくわからないのに、わからないことがよくわかるようになって、でも、それでもある地点から先はまったく見えない。つまりは、そこが零と呼ばれる地点だということはわかったけど、零地点から先にはじまるのは、はじまりはいつでも一の地点で、しかし一の地点と言いながら一は地ではなく、そこは天で、その天が閉じられて地点が生まれると、そこは六となり陸となることをしるなら、その地は結晶となり星となる。それは美しく輝く星。つまり太陽。ぼくはよく考えるのだが、考えるということがどうしてできるのかがわからない。ぼくはよく思うのだが、思うということがどうしてできるのかがわからない。ぼくはよく感じるのだが、どうして感じることができるのかがわからない。でも、わからないということは、わかる。わかるということがわからないのに。できるのか、できないのか。どうしてできるのか、どうしてできないのか。どうしてとはなにか、どうしてとは如何してと書くのだけど、どうして如何してと書くのかそれはわからない。が、何と如何してがなにがどうしてこうなるのかの謎は如という言葉が握っているのでは、と感じるので、調べる。如という女の口を。調べるとこうなる。如を解字するとあたりまえに口と女。意味はしなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもない物をさす指示詞に当てる。ではもとに戻って女の口なのだから女とはなにかというのを字解で説いてみると象形。なよなよとしたからだつきの女性を描いたもの。ということになり汝とはなんじと読むが、女もなんじと読むことをしってるだろうか。女がするなんじと言えば難事でその身に孕むことで、それはしることなしには難事であろうこと。汝が女なら吾は男でないと、汝がしることはない、汝の子を。ふと、思うことはないだろうか、どうして自分は生まれたのか。それはどうしてが答えているわけで、如何して何でときかれたら、答が最後に辿り着くのは宇宙が生まれたから。どうして宇宙は生まれたか。という問いに答えることができる人がいるかな。しかし確かに、宇宙が生まれなければ自分はここにないことは確かで、自分がなくなっても宇宙があり続けるのもおそらくは確かで、物事は過程を抜くと原因と結果しかなく、そこには時間がなくなる。時間がなくなるということは宇宙が生まれてこなくなるということで、宇宙が生まれてこないということは、自分もないということで、ということは考えることも、思うことも、感じることもないということで、ということはどういうことなのかと考えることもないということ。ということは、直とは過程がなくなればそこに間違いが起こらないということで、間違いがないことを正しいと言い、正しい形を正方と言い、それは真四角で、同じ角度で、同じ辺の長さとなるなら、正しい方に向かうのはどういう法なのか、やり方なのかと考えるなら公式が解けてもおかしくない、そうはおもわないかな」


 薄々あなたは気づいてきた、返答に反対する余地がないことに。


「ゆり、数の意味とはなにかな」


 物の数量などを表現すること。とあなたは答えた。


「数の内容とはなにかな」


 数字として表せるもの。とあなたは答えた。


「ゆり、一という数に通じるちからが同じにあることはわかるかい。二という数に通じるちからが似るにあることはわかるかい。三という数に通じるちからが異なるにあることはわかるかい。同じ、似ている、異なるというちからの変換が一から二。そして三という数のあいだに起こることを実感することが数という機能を言語という機能にかさねて用いる秘訣だと考えている」


 あなたは頷いた。


「概念とはやさしい言葉に直すと、大まかに全体から見た大まかな中身。大まかという言葉の意味はわかるかな、細かなという言葉の反対ということはわかるだろう、大まかとは細かいことにこだわらずに物事を済ませるさま。他の言葉に直すと大雑把ともいえる。ということはつまり概念とは大雑把に見た大雑把な中身となる。大まかに、概念とはなにかと問われ、でてきた答がこれ。この大雑把に見た大雑把な中身を意味する言葉はなにかと問われて概念と答えることができるか、ぼくには疑問。一は信じること、二は知ること、三は疑うこと。これがそれぞれの数に本来備わっている思考する領域のちから。数と色と思考を結び連想を広げていくことが魔術の本来の望み」


 あなたは頷いている。


「ゆり、力の変換を解き明かすと、一は同じにあり、信じるにある、王国の信仰。二は似ているにあり知るにある、知恵。三は異なるにあり、疑うにある、理解ということにあり、力を色に変換すると一は同じで白色にあり、二は似ていて灰色にあり、三は異なる黒色にある。ここまでわかったかな」


 わかったという表情が出来ずにあなたは頷く。


「ゆりは頷いてばかりだけど、いまは、うなずいたのかな、それともうなづいたのかな」


 あなたは言葉のなかみがわからない。


「変換には、変換するための決まりがある。わかるかな」


 わからないという表情で、あなたは見つめ返す。


「魔術の変換はもどらないとならない、返還に。言葉が心にもどるように」


 光を、あなたはみた。


「ゆり、うなづいても、うなずいても光を浴びれば頷くし、肯く。今は現在。だから原罪を口にすれば、肯定に通じるのが止まる月の定めなのさ、はじめから」


 あなたは、明かりが萌える解きを芽にした。


「しるためには過ぎ去った時に知があり、知が矢から生じた字で、矢は矢だけでは射れなく、矢を射るためには矢を放つ弓が要り、弓には弦が張られてなければならないとしらないとしることを恵みとして受けるためには弓になるものと弦になるものが要るとしることはない。矢が恵むものは獲物。矢は獲物を的にして射るものということをしれば、しる恵みである恵みが獲物であり、しりたいものを的にしないといくら矢を射てもその恵みはしりたいものをしる恵みになることはないのだけど、わかるかな」


 わかるとあなたは口にした。


「ぼくがなにを言いたいのかわかるかな、しる恵みである知恵と対にあるものが理解と呼ばれるといえば、いうことが弦になるとわかるなら、的にするのは自分だと理解出来るかな、理解する目的が自分をしることにならないと知恵は糸である言を弓に張ることができないとわからない。目的とは的を目にしないと獲物が見えないが、獲物が自分なら光がない闇でも自らが発した言という音が矢であると、しるだけで的に刺さったかどうかはわかる。刺されば痛みとして身体に届くから、痛い理由は響く言が語る」


 黙ってあなたは見ていた。


「魔術の働く領域に、解き明かしがたどり着いた。ゆりはわかっている、では教えて。魔術の働く領域はどこ」


 あなたは答えた。


「たしかにその通り、王冠の領域。では、教えて、王冠の領域で働く力はどんな力」


 あなたは答えた。


「たしかにその通り、信仰の力。なら教えて、信仰の力とは優しく言うとどんな力」


 あなたは自信を持って答えた。


「たしかに。信じる力が信仰の力で、その力が王冠の力だけど、どうして信じる力が王冠の力なのか教えて」


 理解したことを、あなたは答えた。


「その通り、しることができないからだけど、どうしてしることができないのかな、わかりやすく教えてくれるかな」


「なるほど、出て来ないから出来ないと、出て来ないものは種だと、そういうことかな」


 あなたはうなづいた。


「うなづくという行為の意味と内容が頷くという象りとして感じられることは理解出来たから、今の口の頁が今の心だと理解出来た。つまり心と言葉が同じ声、それは音になればこころは心として響き、心として響いた音は心を超えて意となり、心を音にして、つまり裏にあった心を声にして表に現すなら、あるがままに表現されたものは嘘偽りなく真実をあらわす文字として象られる。その力が憧憬にあることに、ぼくは気づいた」


 あなたはぼくが描いた文字を音にしてこころに響かせた。


「はじめにもどる。かんがえるをかんがえるためにはかんがえるということを感じないといけない。どうやってかんがえるを感じるか、それはかんがえるという意味と内容を象っているものが漢字だから漢字に変えてみればわかる。つまり考えるという形にその手がかりがある。これは、おもうことをおもうについても、かんじることをかんじるについても同じこと。漢字にすれば意味と内容が輪郭として表れる。かんがえるは考えると勘えるに変換出来るし、おもうは思うに、想うに、憶うに、念うに、惟うに変換出来るし、かんじるは感じるに、観じるに変換出来る。これは知恵の動力と理解の異形を合わせて異なる形になる同じ音の響きを動かして力にしたもの。ここまで、理解出来たかな」


 できた。と、あなたは微笑んだ。

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