第八章 13

 「魔術とは、真理の別の名。であれば真理を心に描くことで魔術はかけることができる。真理とは自然。最も大きく最も多い自然は宇宙。であれば宇宙を心に描くことで真理の別名である魔術はかかる道理。宇宙生誕の時、それは開闢の時まで戻る。魔術の言語は色と数。自らを宇宙の一部と考える時、それは最も大きくして地球となり、星となる。なぜなら自らが生まれた地は地球だから。宇宙という空間が闇であり黒となる時、反する光であり白が生まれる。数と色の選択はそこからはじまる。選択とは多くなると迷いが生じる。最小の選択は二択。それは、あるかないか。はいか、いいえか。あるが、はいが知恵で、ないが、いいえが理解。二択には好きか、嫌いかもある。三択にならないと感情の理解は生まれない。そこは好きか、嫌いかでは生まれない領域、ということは好きか、嫌いかの間に普通が入る。選択は多くして、それは増やしていける。多くする、増やすためには大きくして多くしていくしかない。ということは大好きと大嫌いを増やせば五択になる。ここで気づく、好きとは大好きが生まれることで小好きになり、嫌いとは小嫌いになる。感覚の幅を広げるために大を超えるために必要なのは最。最を用いることで五択は七択となる。最も好き、大好き、好き、普通、嫌い、大嫌い、最も嫌い。ここで気づくのは最もとは端であること。端と端の真ん中にあるのはいつでも普通。そこが心の中心。ということははじめは普通で、普通のことしかはじまらない。なら、おわりは普通の対は異常で異常の対は正常で正常であることが普通であること。正常である感覚とは常に正しいという感覚で覚えた感じは常に正しいと感じているからそう思い、そう考えるという癖になる。その癖は荷となる。理に気づく。理とはことわりで、語源上は断りと同語源であるから断りとはいいえで、嫌いで、ない。無理だから断る。理が無い。ではなく、利が無い。私に利益がないのにどうしてはいと言えるか、私に害があるのにどうしてはいと言えるかという気持ちは計算から生まれる。しかし、みずからの利が他の損となるという気持ちは起きない。対なる思いは想いしか生まれない。反対を見ることが、聞くことが出来るものは全体を見て、聞くことが出来るようになる。もしも最も少ない自らが最も多く、大きく利益を上げたら、対なる最も多く、最も小さい他人が損失を被ることになる。天とは他であり、多であるならそのようなことを天は赦すかな。民衆の正義は質でなく、量で語られる。義が止まる一とは自らに、我にほかならない。であるから想いは描けない。彩度を再度で明度を迷度で色度を識度で表現することでみえない輪郭を見えない輪郭に、そして観えない輪郭にしてから視えない輪郭を診せる。誤解から理解を求める式が勘定を環状に戻し感情を正常に戻す。真理は語りかけている、否定を否定し、肯定を導くことを。闇は音にきづくための門。閂が掛かった門を王国の中の人が開けるまで月がその門の隙間から見えることはない。藍の闇が目の前に立ちはだかる暗い入口を壁に見せる。耳を澄ますと、明るい音が、楽しそうな声が聞こえている。問いかけたい思いに口をつむんで悶えていても心は開かないと形にならない。叩く、音にして合わないと問いかけの応えは返らない。優しいから、人を憂う問いかけの答は。大丈夫、叩く、開かれた門の隙間に明るく形なす月が問いかけの意味をしらせるまで、閃きが口をつくまで。ゆりしっているかい、夜とは太陽が見えない間を指す。間という字の門のあいだの日はもともとは月だった。なぜ月だったものが現在では日に変わったのか、理由はわからないけど、月は自ら輝くことはない。日に照らされその姿を映す、それは地球である人も変らない真実。ゆり、なにか閃いたかな、はじめての想いとか」


 心に、再び思いが落ちる音が響いていた。


「はじめである一とは目で、芽。始めの前にあるのは根で、音。どの音を根とするか。それはたね。それは他の音であり、多の音であるから、どこからときかれたら、たからと答える。すると宝である貝を手にすることになるから負ける。勝利の数は七であり本能。栄光の数は八で理性。全ての数を合わせて足すから十となることは重要なこと。西の女は理解で理解を重ねるのだから理解とは三だから三を重ねて全てである十になる数は七でその数は勝利。勝利の反対は敗北。負けるものは北に。北という字は人が背を向けあっている姿。背きあえばわかりあえないから理解できない。ということは負けないためには勝利である本能を理解できないとならない。つまり、本能を理解することを目的にして続けていけばその仮定である過程は終りに知恵となる。十全たる数から知恵の数である二を引けば残りは八でその数は栄光となり、光を射る。つまり知る恵みとして閃きを得る。閃きとは発想、つまり思いつき。その数ははじめである一だから、その閃きを得るための基盤は残りの数である九となり、その色は紫。ということは発想を得心するために、つまり心を得るために必要なのは九でその九とは口で、口から出る音とは声で、言葉となる。だから芽が葉に。葉になるには根が、そのまえに種がいるからその種を種子といい、その目的の主旨、主旨とは最も中心になる事柄で趣旨とか要旨とかいわれるもの。でも、種があっても土がないと萌えることはないから明るくならない。これが納得から導かれる感じ取れる欠片。これは個体の意味の幅を遥かに超えて必要により、世界を広げて行く新たなる感覚の世界、森羅万象の現象の象り現れたものを心で感じ、言葉として紡ぎ上げる天衣無縫の紫の衣、主の御言葉を呪文、それは兄の口を文とする悦楽を氷解する悔い改めの響きとする貴石なる献身の意志なくば開かない限り無き栄光の狭き門」


 最後の響きを耳にしている時には、すでにあなたの心は真っ白にきえていた。ただ、音が描く輪郭を追いかけながら、なにかが変わろうとしていることだけは感じていた、それがなにかは見えてない、だが心に光のようなものが射している感覚だけはありありと見ていた。


 ぼくは畳み掛けるように、杯と化した心に情報を注ぐ。


「ゆり、十という数はその象徴的な力の領域の名を王国という。と囁かれても象徴という言葉の意味がわからないと象徴的な力という力もどんな力なのかわかりようがない。ではどうすればどのような力なのかわかるのか、それは象徴という言葉の意味するところをしって、そのうえで理解出来ればいい。どうすればしることができるか、しっている人にたずねればいい。しっているなら教えればいいし、もしもたずねられ、でもしらないなら調べればいい。この世界には調べればしり得ることがあるのだから。ぼくも調べたからしっているだけだから」


 あなたがたずねたそうな顔をしているからその表情に応えると、あるものを、その物とは別のものを代わりに表象することによって、あるものを間接的に表現し、しらしめるという方法ということで、これとは異なるそれをもちいて表に象ることで間接的に表に現し、しらせる方法のことを象徴という。


「わかったかな」


 ということは象徴的な力とはこれとはことなる、それをもちいて間接的に表に現し、しらせる力ということで、十という数の領域を十という数の名ではない他の名として表に現し、しらせるのが王国ということで、それは表に現れない十という数が起こす心象が王国ということで、言葉や音が表に現れるものとしたら、心というのは裏に隠れているもの、その裏に隠れた心の輪郭を描くのに象る光景が王国という名に現れるということ。つまり十という数の力を心で働かせる時、王国が心に描かれ、象られなければ、数という抽象的な概念に過ぎないものを具体的な力として心という隠れたものから魅き出すことは出来ないということ。心に描き象るべき王国には城壁があり、城壁には唯一つ王国に出入りするための門がある。その門からしか王国には入れない。どうしてそうなのかはその仕組みをしり、理解しないと答えることが出来ない謎だが、たしかにその門からしか王国には入れないのだからそのことは信じるしかない、だから魔術は信じることからしかはじめられない。はじめの魔術は名前ということは教えていたはず、門にはその門を象徴するいくつかの名がつけられている。それは涙の門、死の門、そして祈りの門。その門に辿り着くためには小道を通らないとならない、王国への入り口である門は大通りにはない。王国の門から玉座がある城までにはいくつかの門を通ることになる、だが、通る門の順序を誤ると城には辿り着くことは出来ない仕組みになっている。しかし、その前に王国の門が開かない限り王国に入ることは出来ないのだから王国の門を開けないとならない。どうすれば王国の門は開くのか、王国の門を開く鍵は必要でしかない。必要がないなら、いくら象徴的な力をしっていても象徴としての力は働くことはない。象徴としての力を働かせるには魔法の心象を必要とする。王国の領域で象徴的な力を働かせる魔法の心象は冠を戴き、玉座に座った若い女性。門を開く力を象徴するのは処女の花嫁。処女の花嫁は王妃となるために死の門を通り、涙の門を通り、祈りの門を通る。つまり王妃となる必要があるから王の城に入ることが叶うという仕組み。それは数としての十という姿が必要から拾という姿に変わる時、生死を分けた善悪となる左右の手を合わせ涙は祈りをしる。王国という名で象徴される十という数の力が善き力として働く時、その力は識別する力となり、悪しき力として働く時、その力は貪欲で不活発な力となる。魔法がかかり王国に入れた後、処女の花嫁には審判と天使との謁見が待っている。識別の力とは、やさしい言葉にすれば相違を見分ける力、相違とは二つのものの間にちがいがあること。だから識別の力とは二つのものの間にあるちがいを見分ける力ということになる。その力が悪しき力となると貪欲で不活発な力となる。貪欲とは欲望にまかせて執着しむさぼること、むさぼるとは飽きることなく、その状態をつづけること。不活発とは活気や勢いがないこと。つまり王国の力が悪しき力として働くと飽きることなく、その状態をつづけるか、活気や勢いがなくなることになる。そのような状態を躁鬱という。躁とは落ち着きがなく、さわがしいことで、鬱とは心にわだかまりがあって心が晴れないこと。ということは心に落ち着きがなく、さわがしいことも、心にわだかまりがあって心がはれないことも、その理由は王国で働く力である識別する力が善い力として働いていないことが原因として考えられる。十という数の力を象徴する王国は知恵の入り口として死の門であり、理解の入り口として涙の門であり、王冠の入り口として祈りの門である。二という抽象的な数の力を具体的に象徴するのが知恵で、三という抽象的な数の力を具体的に象徴するのが理解で、一という抽象的な数の力を具体的に象徴するのが王冠という名の領域。一である王冠の力はしんじる力として働き、二である知恵の力はしる力として働き、三である理解の力はうたがう力として働く。信じること、知ること、疑うこと、これらの力の領域に入る入り口として王国である識別する力の領域はある。まずは王国に入るための唯一の門を探し、門を開かないとならない。門を開くための象徴的な力の秘密が処女の花嫁という称号つまり呼び名に示されている。魔術の世界は象徴と寓意で語られるから、象徴と寓意が読めないと魔術の通用する現実と異なる、現実の奥の世界を思い通りに動くことは出来ない。思い通りに動けないということは迷うことになる、それも現実よりもはるかに大きな幻想の世界で迷えば出口を見つけることはほとんど不可能に近い。迷う理由は不活発と貪欲にあることに気づかないと識別する力が働くことがなく、偽物に騙され続けることになる永遠に。


「わかったかな」


 あなたはだまって見つめていた、ぼくの唇が動き出すのを。


「寓意かな、わからないのは。ある意味を直接には表さず、別の物事に託して表すこと。やさしい言葉に直すと、なにかにかこつけて、それとなくある意をほのめかすことだよ、わかったかな」


 報えが音になる前にあなたの瞳孔は光を戻した。


「自分自身を自分でしる。自分とはなにか。自分とは分けられた自ら。分けられた自らとは自然。自然とは自ら燃えるもの。自ら燃えるのは熱意、熱意とは自らの意思、自らの意思で生み出すもの、それは想像する力。想像する力が生み出すもの、それは創造する力。それは自分を含むすべての中に自分の欠片が潜んでいるという思考を持つことで想いを動かす心の操作技術。これが魔術の簡単な仕組みだけど、わかるかな」


 あなたを見ると軽く顎を引いて先を求めた。


「これ、つまり心の操作技術が現実に出来るようになるためには自然を必然に変換するために必要な考え方、思い方、感じ方がある。まずは偶然から必然に変換するため、ほんとの自分の姿を見つけることからはじめる。なぜなら零の領域ははじめはないから。終わった後に生まれるのが零の領域。それは霊の領域ということ。まずは目の領域の力がないと出ていても芽を見つけようがない。芽を見つけられないなら萌えることもない。ゆりは覚えているかな、一は目の領域、零は耳の領域を象徴する。それは一が光を零が闇を示すから。光を見るためには目を必要とし、闇を聞くためには耳を必要とする。耳が心にないと端は見えない、恥をしらないから。ということで自分の姿を探す方法からといいたい所だけど見方がわからないと自分の欠片を探しようがない。それは微かな姿しか魅せてくれないから。自分のほんとの姿を見る力をつけるために自分が人の間にどれほど潜んでいるかをしらなくてはならない。それが出来ないと物言わぬ自然に潜む自分を探すことなど到底不可能だから」


 あなたは言葉を心に落としていた。


「人の心には同時にこれだけの自分が多面構造である。自分から見える自分。自分からは見えない自分。相手にも、自分にも見えない自分。これは相手という対するものを環境と考えるならほとんど限りないくらいに自分という人格はあり得るということ。自分の人格とは限りないくらいにある中から自分が選んでいる、自身の人格の姿を。そのことに気づくと人が心を衣だと譬えてきた意味がわかる。彼が紫の衣を着て十字架にかかったという譬えの理由も。ゆり、魔術とは自覚からはじめる。我の言葉が世界を、環境を動かしていく、それが現実。そのことをしる。発した言葉の形は音として伝わる。けど、それよりも人は感知出来ないくらいに微かな振動に左右されている事実を認めたくない。言葉が呪文になるかどうかは器ではなく、そこに注がれ、満たされた想いしだい。想いには響きがある、響きは表の層の心では感知出来ないくらいに小さいからこそ感知出来ない領域を操ることが出来るようになる。これが魔術の原理だけど実感しないと使えないのは自分にも感じられないから。限りなく透明に近い不透明な力を」


 あなたは言葉の意味と内容を理解しようと何度も繰り返し同じ言葉を心に響かせた。


「人の思い描く現実とは、仮想の世界。自分の思いが変わると見ている世界も変化していく。ぼくの実感だが、人は好き嫌い、損得で方向を決めるために過ちを犯す。人は自分自身を否定することが難しいから、人を拒絶することで正しい道が見えなくなる。ぼくは人を人だと思っていない。ぼくにとって人とは生きている物。これは魔術である密儀の教えで神の声を聞くために最も大切な教えの一つ。神はすべてを否定から創ったと言われている。ないから、ないことをないことにして、あることにし、あることをないことにして、ないことをあることにする。それはなにかを否定し、否定されたから否定されたことを否定し、否定を肯定にする。これが存在のはじまり方だと言われて来た。これらは言葉を変え、最初が否定、次が無限、その次が無限の光、そして王冠。ここが数字の1。ぼくの言動や行動は魔術、またの名で呼べば密儀を学ばないと理解出来ない。密儀とは選ばれた者が伝えるもの。選ばれた者とは王のこと。彼は生まれた時から逃げることの出来ない宿命を負っていた。ぼくの言葉を読んだり、考えたりするだけで彼に近づき、彼を感じるだけで神に近づく」


 あなたは神という形に反応したが、音の変換の仕組みにまでは反応出来なかった。神は音で変換すると上となり上とは人が立った時から頭がある方向のことを指す。


「方向と選択を誤らないということはほんとに大切。ほんとは皆もっともよいものを与えられていた。ぼくは彼からつたえられた学問をつたえている。学びたくないといわれたら、そうですか。わかりました。というしかない。どうしても、わからなければきっかけを差し上げる。わかるとは、わかれることと、わかれないことをわかること。引けば弓が手に入る。あとは矢だが、どうすれば矢を手に出来るか、知ればいい弓はきゅうで口はくで弓と口をつなぐ音を数字にすれば九になる。なら引くのは九で足すのは十だから十はじゅうでその音を異なる漢字にするとその数は拾になる。ということは足すのは手を合わせることで、なら一にあたるのは拾うの対で捨てる。九を捨てると言うことは求を捨てるということになる。求めることを捨ててどうするのか。与えれば一はそこにある」


 あなたはぼくの言葉を音としてなぞっていた。まだ意味と内容が理解に結びつく解きの力の扉である疑問を開くことは出来ずにいた。

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