第九章 その土の盤

 思い、出した。読み耽った短編の輪郭が、言葉が、光を浴びるように氷解し、みえなかった隠れた感覚を空けていくのを感じた。


「さあ、歩こうか。はじめまで。星が見えるかもしれない」


 響くこえにあなたは立ち上がる。思うことなく、きづいた。なぜ芸術性を捨ててまで描いたか。狭き門が、扉が開かれる。


 たとえでしか、語れない。


 かんじた。ちいさな、ちいさなひびきがかすかななにかにながれこむ。いたい、なにかがあたった。な、ぜ、あふれるといが、おととなり、こえとなり、こぼれる。輝き、ゆるやかにゆれ、めにした。白くなり、きれる瞬く間、よんだ。


 なにか、なにかがあたっている、温もりをかんじる。嗚咽しかきこえないやみで、こぼれ落ちるおとを、みえないやみに透き通るおとをみていた。覚めることのない今に変わり、ほおが。


 まぶたを閉じ、眩しさをさける、響く、水音だった。


 澄んだおとが、緩やかに広がっていく。

 揺れるひかりに映し出され、泣きごえがした。


 人のこえ、どこともしらない景色に響く音。うなだれ、水面に涙を落とした。


 だれかが、といかけた。


「なぜなくの」


 かなしい。そうきこえた。


 といかえそうとするのに言葉にできない。

 といかえそうとするのに、問い返そうとしたのは……。


 聞こえるこえが言った。


 「責めた、みんなが、どうして、責めた。悪くない、悪くないのに、だから、だからした、みんなを」


 聞こえる言葉がだれかに、なにかを語る、あれはいつかの出来事につながったから、声が。


 「ありふれた、ありきたりの、それでいて素敵な気持ちで日々を描けたら、退屈でつまらないと思えるような当たり前の今日も、昨日を変えるだけで、みている光景も、きこえる情景も、どこにもない、ほんとは与えられたもっとも素晴らしい明日にさえなれるのに」


 だれかがみていた。

 だれかに告げた。


「絵を描くように自由に言葉が描けたら、どんなにいいかわからない。だけど言葉は色の領域だけでなく、音の領域も得るためによりただしく、たしかに思いを求め、揺らぎを曖昧さを認める方向からそれていくしかなかった。ほんとは、揺らぎや曖昧さが好きだ。だからかもしれない、絵描きになりたかった。小学校の図書室でめくった分厚い美術書に自らの思いで世界を描いた絵描き達の絵が、展覧会のように広げられていた。だからかな、写真よりも絵が好きだ。もちろん写真も嫌いではない。でも、絵にある自由な表現には写真では描けないなにかがある、そう感じるから絵の方が好きなのかもしれない。どちらかといえば言葉は、絵よりも写真に近い気がする。絵のように言葉で描きたい。好きな印象派の絵のように。とてもむずかしいこと、わかってる、印象派の特徴である輪郭の揺らぎを、あやふやな筆遣いを言葉で描くことはできない。わかってるそんなこと。でも、できないからこそ、いや、まあ、いい、できないことをやれと言われてできたのは、できたといわれるのは、油を注がれし者と呼ばれた彼くらいだから。太陽を目にすると、印象、日の出という名の絵が見える。印象派を生むきっかけになった作品。品評会で酷評された。好きな絵をあげると、どの絵もはじめは酷評されている。酷評される現実が、揺さぶる。死んだ後に絶大な讃美を受け、描いた者になにがあるというのか、絶大でなくとも、死ぬ前に讃えられた者は僥倖だ、壊れながらそれでも独自の美を貫き、自決を選んだあのひとを思うと、向日葵が涙に揺れる。学校の先生で彼の教えを信じる者だったという事実を知ったのはいつのことだろう。ほんとうかは、覚えは確かではない。だが、ぼくのなかであのひとはそう描かれる。あのひとも太陽を思うと涙に変わるものとなり、糧となった。その姿で愛を指した、彼のように。奇跡を起こしたと語られているのに、彼は死ぬ。遥か彼方のことなのに、物語なのに、彼が起こしたと描かれてきた奇跡は、ほんとなのか、そのことにどうしてこんなに惹かれるのか、こたえが小説を描くことなのかも。目にすると、追いかけてしまう。そんな文体が好みだから印象派の絵のような文体を模索してきた。小説を描こうと、いや、ただしくは、小説にしようと思った時から景色を、時間を、考えを、思いを、感じたことを、日常を、そして非日常さえも。最も愛した妻との別れの時を描写してまで、光の変化を執拗に追いかけ、色彩を描くことに生涯を捧げた絵描きのように思いの変化を音で描きたいと思ったのは、その思いにどうしてこんなに魅かれるのか、こたえがここを描くこと、かもしれない」


 かたった、だれかに。だれだろう、だれか、おもいだせない。


 したきがした。なにもうつらない、やみ。ただ、きこえたことをたよりに、なにもかんじてなかった、ただ、ただほおが濡れ。


 はじめからしっていた、いや、わかっていた、それでもあがくだけあがく、あがけるだけはあがいてみる、けど。


 かすかに、すごくかすかに、したきがした。遠くであたためられたつめたい大気がかぜになり、まきあがるように響いてくる気がした。かすかに感じられるくらい、風がちかづいているのかしだい、しだいにはっきりと。


 なにかがゆっくり開かれていく、なにか、かみのようなものがめくられていくような、こすれあったものが引きはがされるときのような。


 ききおぼえのある不快な感情が、かすかな苛立がした気がした。


 なにもうつらない。闇。


 ただ、なにも感じてなかった、ほおが濡れ。


 だれもふみいることの出来ない。しかいの奥へと閉ざされ、絵をこばまれ、あいが乱れた渦をえがき、らせんの流れに、いつのまにか、目を。


 あたって、いる。温もりを、かんじる。嗚咽しかきこえないやみでこぼれ落ちる音を、みえないやみに透き通るおなじ音をみている、冷めることのない今に変わり、ほおが濡れ。


 はじめからしっていた、いや、わかっていた、それでもあがくだけあがく、あがけるだけはあがいてみる、けど。


 した。遠くであたためられた冷たい大気がかぜになりまきあがるように響いてくるきが、微かに感じられるくらい、風が近づいているのかしだい、しだいにはっきりと。


 なにかがゆっくりと開かれていく、なにか、紙のようなものがめくられていくような、擦れあったものがひきはがされる時のようなきき覚えのあるふかいな感情がかぶさる。かすかな苛立が静かにうすい扉を開いたときのように。


 なにもうつらない、闇。ただ、聞こえたことをたよりに。


 感じてなかった、ただ、ほおが濡れ。


 だれもふみいることのできない、でてこれないせかいに。


 まるでこうせいにひまわりという名のけっさくをのこしたほどにもかかわらず、絵をこばまれ、こころを病んだ。


 歪むうらみをはきだすように。

 渦をえがき、めまいすらかんじ、いつのまにか目をとじ。


 感じる。闇で音を、透き通る、音を見ていた、覚めることのない今に変わり、濡れる。


 はじめから、それでも、遠くで暖められた冷たい大気が風になり巻き上がるように響いて、微かに感じられる風が近づいて、しだいにはっきりと、ゆっくりと開かれていく、紙のようにめくられていく、擦れ合ったものが引き剥がされる時のような感触に、不快な感情が被さる。微かな苛立が静かに薄い扉を開いた時のように、したきがした、なにも映らない、闇、ただ、聞こえたことをたよりに、なにも感じてなかった、ただ、ほおが濡れていた。


「たすけて」


 声がした、聞こえた。なにも見えない闇、ただ、聞こえた声だけをたよりに走った、考えなかった、思わなかった、感じなかった、ただ、ただ走っていた、気がついたら走っていた。はじめからあの時からしっていた。いや、わかっていた。それでもあがくだけあがく、あがけるだけはあがいてみる、けれど。


 とけない音のられつにしか聞こえない切り裂くような言葉が拍子に、旋律にして刻む感情が、痛みとして幼いからだに奏でられる、憎しみを、怒りを浴びてうごかないからだの先で、甘い吐息のような音、響く、揺らす、定められた緩やかな強弱の衝撃にからだを上下させ、戯れ言のような感触の色彩を点滅させ果て、断片から拾い上げ、白と黒の隙間に嵌め込み、欠けた思考を照らす。


 微細なる色感と音感の感性が起ったのか、感情は声に聞こえ。



 踏みいることのできない出て来れない世界にいた。視界の奥へと閉ざされる情景はまるで後世にひまわりという傑作を残したほどにも関わらず、絵を拒まれ短銃で胸を打ち抜き、それでも即死出来ずに二日ほど苦しみ抜いて死んでいった、心を病んだ絵描きが写した教会上の夜のようで、星の見えない空のようであり、光の射さない海のようでもあった。凹凸にゆがむ怨みを吐くような濃淡に重ね塗られた藍が、乱れた螺旋を見せ、めまいすら感じる叩きつけるような筆圧に似た流れるような渦に耐えられず、いつのまにか、まぶたを閉じていく、なにかが耳の奥に、あたった。痛みを、感じた。わずかな響きが声のように感じ、感情が叫んだ、何度繰り返せばいいんだ、心が騒いだ、たすけて、タスケテ、たすけて、助けて。


 力が集まるように、塊のように重く大きく、息苦しいような、吐き出すような感覚がなにかを写し出したがっているように。


 割れるように頭が痛い、焼けるように痛い、吐き気がした、重い痛みが腹にかかり、汗が額に浮かぶ、体を被う感覚が麻痺しながらぶれていく、視界が揺れ、ゆれ、ユレてただ、苦しみから、痛みから逃れたいという思いだけに、おもいだけに、オモイダケに重いだけに圧し潰されて潰されてツブサレテ、去れて、曝れて、吹き出した脂汗がほおを流れ、落ち、おち、オチ、零れ、コボレ、チに触れて壊れ、感覚に、サワルとホオに唾液が吐きかけられた痕だった、指のつけ根に白く泡立つ唾液の付着した感覚が、拭い去ろうと手を振ると、唾液が赤く染まった、赤い唾液をマタ、ヌグイサロウとして耳を劈いていた怒声が悲鳴に換わり、嗚咽ガ、途切れ途切れに囁きに変わっていた、モウ、コ、ロ、シテ、殺、シテ頃。


 揺れる視界、滲む、色のないプラスチックの容器。色鮮やかな皮に包まれる柔らかな果肉を残す種が濁った果汁に浸かって、何度となく、透き通った容器を、容器に溜まる香りをしった。暗闇に、微かな香り、静かな寝息、厚手のカーテンを握りしめる、ベットに横たわる女の目蓋は閉じていた。溜まった汁が鈍く光っていた。強い香りにきづく、濁ったものは唇にふれ、甘い囁きが逆巻く、甘くなかった。甘かったら、残してあげたんだけど。


 耳の奥で音が固まった。


 痛、高い音が、響き終わりを痛みとしか感じられない金属が高い所から落ちてぶつかり合った瞬間の、音としての感覚よりも痛みとしての感覚の方が速い知覚が激しく鼓膜を叩いた、痛みは瞬く間にそれまでに思い、考えていたことを真っ白に消し去った。


「またか」


 また、同じ思いが湧き上がったのになぜなのかが、わからない。


「なんだ」


 口から出た言葉の理由がわからない。知らない。思い出せない。けど、あったんだ。なにがあった、なにかが動かしている、なにかとはなんだ、必死に不可解な空白を埋めようと形の合いそうな答えを探す、言葉を、探す、思いに、当て嵌まるような、条件に合うような気持ちを、感情を、過去の声を、言葉にならない音を、叫びを、悲鳴を、探し空白が黒く塗り潰され、た、不安だ、不安に突き動かされている。辿り着いた答に耐えられずに、目を開いた。


「なんだこれは」


 誰も踏み入ることの出来ない、出て来れない世界にいた。視界の奥へと閉ざされる情景はまるで後世に向日葵という名の傑作を残したほどにも関わらず、絵を拒まれ、短銃で胸を打ち抜き、それでも即死出来ずに二日ほど苦しみ抜いて死んでいった心を病んだ絵描きが描いた教会上の夜のようで、星の見えない空のようであり、光の射さない海のようでもある。凹凸に歪む怨みを吐き出すように濃淡に重ね塗られた藍が乱れた渦を描き、眩暈すら感じる筆圧のような螺旋の流れに耐えられずいつのまにか、目を閉じていた。微かに、凄く微かに、した。遠くで暖められた冷たい大気が、風になり、巻き上がる時のような、遠くから響いてくる微かに音として感じられるくらい、微かにきこえる。音が、風が近づいているのか次第、次第に音が、風がはっきりと感じられた。かぎりある力の輪郭を描き、描かれた形に似通った近いと感じられる過ぎ去った姿が現れ、覚えた色と感触から、情景を象る、眩しい、痛みに似た感覚、強く圧されるように瞳を開く感覚が走り、まぶたに力を込め、強く閉じた。耳に届く鼓膜を震わせるものに感情が流れ込む、軋みながらなにかがゆっくりと開かれている、なにか、紙のようなものがめくられていくような、擦れ合ったものが引き剥がされる時のような音に、聞き覚えのある不快なちいさい音が被さる。不快を抱かせる音が静かに薄い扉が開かれた時のように、鼓膜を叩き、震わせる音、音。感情が激しく叫ぶ、聞きたくない、嫌だ、嫌いだ、泣くな、泣くのが、泣かれるのが、涙が嫌いなんだ。なにかに動かされている、なにかがぼくを動かす、なにかとはなんだ、なにかに突き動かされ、目が開いた。


 思い出した、そうか、あの時、言った。確かに言った。聞こえる。確かにあの時、言った。聞こえる、優しい声だった、いや、そうじゃない、優しく言った。いや、違う、そうか、違うのだと気づいた、ぼくはほんとは優しく聞こえるように言ったんだ。


 言葉と、言葉が再び現した感情に支えられ、再び組み立てられる意識の奥に沈み、時の経過とともに消え掠れ、薄れたはずの情景にいた。


 燃えるような太陽が沈もうとしている。古びた白い建物の一角で時の間に取り残されまいとしているように病んだ心が迷路のような闇の出口を探して叫んだ。ぼくは涙に濡れた声をまた、聞いた。


 悲しいのだろう、口から出ていく抑揚のない言葉にまた、憂いが込もっていく。


「心とは不思議なんだ。一定の状態でありえるものではなく、常に変わり動いている。その働きは肉体などの外の部分を経て現れることにより把握されている。心とは、その持ち主がものごとを考えたり、決断したりするときに働く、でも、それ以外の行動、例えば全く何もしない状態でも働いている可能性がある、だからある時点の心の状態を厳密に把握することは、その心の持ち主といえど不可能なんだ」


 言い終わるとまたあの時と同じような感じを覚え、あの時と同じように思い出した。


 泣きながら必死に本を書き写した。書き写した難解な用語に赤い線を引きながら必死に刻み付けた心理学の専門の知識、今となっては必要の無くなったものは日常の些細な出来事の中に消え掠れ、もうほとんどその言葉の意味さえ元の形を留めない。そんな曖昧な劣化したものでも必死に心に刻み付け暗記した言葉、一生懸命に命を吹き込んだ一文だけはなんとか形を留めていて、あの女の人に漏らした。


 自らの口から出た言葉を聞いて心から頷き、氷解した。確かにそうだろう、今のぼくは揺れ動く奔放な自らの心を把握出来ていない。


 過ぎ去った時にあったことさえ忘れていた情景の中で、たどたどしく発したぼくの言葉を潤んだ目で女の人が受け止めようとしていた。


 夕焼けに染まる情景に滲んだ瞳が輪郭を保ちながら映っている。息を飲み込み、地平線に沈もうとする欠けた太陽を見つめた。


 気持ちが甦り、重なる。不思議と静かに自然に発していく。


「誰も自分の心さえ、わからないんだ」


 女の人の顔を見つめてぼくが涙を流していた。

 女の人はなぜ泣いているのだろう。考える、情景を象られる前の思いに気持ちを集める、限りない領域から引き寄せられるように感じられないなにかが集まり密度を高めた思いの力は透き通った見えない思いを濁らせ、白く見えるような、感じられる形に変えた。それはまるでちいさく微かな光の線のように輝き、過ぎ去った時のことを集め、象りだす。


 思い出した。この女の人に渡すために教会に行った。病室に戻るのが遅くなり、不安になった女の人が病院の屋上から飛び降りようとして、十字架を渡した。


 一度見た映画を思い出しながらもう一度見るように描かれていく情景を見ていた。


 金色の十字架が開かれた手のひらの上で鈍く光っている。はやる気持ちが忘れてしまっていた女の人のことを追いかけていく、女の人に渡そうと目の前に差し出した。女の人の表情がぼやけて見えない。この後この女の人がぼくになにか告げた。その言葉を知りたいと感じ、思い出そうとしたが、自身の思いとは関係なく過ぎ去った時をなぞるように映していた情景は光を滲ませ消えた。


 音、感情が激しく叫ぶ、聞きたくない、いやだ、嫌いだ、泣くな、泣くのが、泣かれるのが、涙がきらいなんだ。なにかに動かされている、なにかがぼくを動かす、なにかとはなんだ、なにかに、激しく揺さ振られ、気づく間もなく気持ちが裂けていた。


「泣いていても、なにもはじまらない」


 見つめている瞳から、大粒の涙が頬をつたい落ちる。


「死にたい。わたし、死にたいよ」


 いつわりのない叫びが、苛立ちを隠す感情を突き刺す。


「死にたいなら、飛び降りればいい。ゆりが飛んだらぼくも飛び降りるから」


 赤く腫れた瞳、真っ直ぐな視線が心を射るように強く見つめる。


「ぼくは生まれてすぐの原因不明の高熱によって心に傷を負った。精神障害となり小学生の時、近くのマンションから飛び降りて死のうとしたけど、飛べなかった」


「おかしくない、壊れてない」


「治ったんだ。バットで尻を叩かれもとに戻った。けど、眠っていたもうひとりが目覚めてしまった」


「もうひとりってなに」


「飛び降りようとした時、見たんだ。建物の下でぼくを見て笑ってるぼくの姿を。もうひとりの自分を見ると死ぬと言われてる。今まで何度となく死にかけた。ゆりと死んでも惜しくない」


「死なないで」


「ゆりを死なせたら、ぼくは生きてはいない」


 濡れて輝く瞳を見つめ、手を差し伸ばす。あなたが手を握りしめ、体にしがみついた。


「手を広げて」


 ポケットから掴み出し手のひらに落した。


「あっ、十字架」


 うれしそうにいった。


「遅れたのは、教会に寄ったからなんだ」


 うれしそうな顔を見つめていった。


「明日から、たまにしか会いに来れない」


 もうひとつ十字架を取り出し、不安に襲われた瞳に見せる。


「光が、導いてくれる」


 金色の十字架が夕焼けに光る。


「おんなじ」


 子供のような声でうれしそうに見つめる。あなたの首に十字架をかけた。手の中の十字架をぼくの首にかけ、あなたはいった。


「おんなじだ」


「苦しくなったら、十字架を見つめ、祈る。闇にある心を、光が照らすから」


 ゆりが不安を顔にする。


「病気は必ず治る」


「先生が」


 口を押さえ言葉をさえぎった。


「ただ、ぼくを信じて。必ず、ぼくが治す」


「ほんとに」


「ぼくが嘘をついたことがあるか」


 あなたが大きく首を横に振った。


「治ったら、教会に連れていって」


 教会という音が星のない闇、光りの射さない澱んだ底に響き、いぶかし気に顔を背け、洗礼を断った神父の顔を形作った。不安げにあなたが見つめる。


「必ず、教会に連れていく」


 強く抱きしめた。


 心が囁く。ぼくは嘘つきだ、治ってなんかない、ほんとは今も壊れたままなんだ。

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