第九章 2

 叫びがきえ、抱いている温もりを失い、音がしなくなった、まぶしいようだったなにかがゆれる。動くなにかをさがし揺れ動く、なんだこれは、ひとつに集まるように意思があたった。顔を触れた感覚、なにかを押さえつけるように、それが不安だと気づかないようになにかがどこかを駆け抜ける。どこかが目覚めている、こんな感じをどこかで、そう、どこかで覚えている。これはあの時見たあれに似ている。小さな明かりが並んでいた。街灯だろう、雨が降っているのか、路面が濡れていた。橙色した小さな光。濡れた路面に並んで映っている。どこだろう暗く澱んだ藍色の空の下、過ぎ去った時とも、未だ来ない時とも思えるような街並みを誰ともわからない少女と歩いていく、おそらく誰でもない、自ら覚えられないそこに沈められようとしている日常の生活の中で心が思い、考えるにいたったことに貯えられ積み上げられた雑多な人の情報が混ざったものに過ぎない。心に映る形を見て、なぜかそう思った。いや、そう感じていた。ありふれた表情、はっきりとそう感じている輪郭のぼやけた顔が見つめている。


 おそらくは夢。そう理解した。夢の中のぼくがぼやけた顔を見つめ返した。誰という感覚のない少女が、微笑んだ。なぜかわからない。でも、無垢だと感じた微笑みを目にした瞬く間に、夢の中のぼくが顔を歪ませ、嫌悪感を露にした。少女の微笑みが輝きを失い、瞳が潤んでいく、自ら覚えることの出来る心では知りえない隠された心が映し出した夢の中のぼくが、自ら覚えることの出来る人格に、叫ぶ。

「終わらせたい、ぼくはもう、終わらせたい」

 大きく映る顔、黒髪の少女の瞳から涙が流れた。つぶらな黒い瞳から落ちる透き通った雫を見た瞬く間、夢の中のぼくが叫んだ。


「ゆり」


 少女は背を向け歩き出した。ぼくは確かに呼んだ。ゆりとは誰なのか、わからない。自ら覚えているはずの心の中に時間の感覚がない。過ぎ去った時の間か、未だ来ない時の間か、おそらくいつか出会った、それともいつか出会うのだろう、夢の中のぼくが発した声を聞き、自ら覚える隠れていない心としてのぼくは咄嗟にそう思った。


 情景が流れていた。澱み流れる濃い藍の闇を逃げるように走る少女を、夢らしき中のぼくが追いかけていく。息を切っている、薄く白い息が藍の空に滲んでいく。燃やし尽くすような光と、凍りつくような闇が混ざり、濁った渦を空に描いていた。自ら覚えることの出来る人格としてのぼくが、逆巻く渦の流れに飲み込まれていく一欠片の情景を掴もうと足掻く、感じている、そこにはただ、失いたくないというぼくの思いだけがあった。


 夢の中のぼくが、冷たい手を掴み、泣きわめく少女を抱きしめた。


 ぼくが、泣いていた。


 少女は黙って見ている。少女の涙に濡れた瞳が白くなり、夢の中らしき世界が白に染まって、途切れる瞬く間、気づいた。言葉に変えようとし、ぼくの中で誰かが呼んだ。


 目が、映るなにかを探し彷徨う。光がない、なにも見えない。目に映るはずのなにかが、そこにあるはずの自分の姿もない。おかしな事、いや、おかしな感覚に気づく、確かめようと足に力を込めた。足の裏に踏みしめているはずの感覚がない、不意にぼくは浮いていた。纏わりつくような濡れた感覚を圧し下げ、冷たい緩やかな温度を掻き混ぜる、開いているのか閉じているのか、瞬きをした感覚があるのに、色らしきものも光らしきものもみえない。ただ体を包む圧す力のように感じられ、浮く力のようにも感じられる不安に似たなにかを拭い去ろうとするかのようにわけもなく手足を動かしていく、音のない、どこかもわからない、液体の中のようにしか感じられないなにかに異変が起きたことを肌で感じた、濡れている感覚を与えているなにかが温い感じに変わっていた、手足を動かすことに疲れたのか、温かさが強まるにつれて動こうという気持ちが萎えていく、手足を体につけるように、体があるという感覚に過ぎない、自身の体という感覚に手足を近づけてうずくまるように、眠くなっていく体の感覚を超えて心が閉じられていこうとするのを感じていた、それは気づいたというよりもそこにはじめからしていたと感じたというほうが正しいと思える感覚でなにかに包み込まれていた、衝撃だった、とてもちいさな衝撃、おそらくはじめから体だと感じているなにかを叩いていた衝撃。あまりに微かな衝撃のために手足を動かしている時には気づけなかったが、おそらく気づいていた、だから手足を動かして、なぜ、手足を動かして、手足を動かして、どうしたかったのか、覚えていた、体は、この纏わりつく濡れる感覚を、色らしき、光らしきものがない感覚を、圧す力のように、浮く力のように感じた感覚の正体を知っていた、だから拭い去ろうと手足を動かした、音のない感覚から、どうしたいと、目を閉じたい、耳を閉じたい、心を止めたい。気づいていた、望んだ、終わりを。感覚の正体が、知覚として突きつける、気づいた事実を、知っていた事実を、思い出し、現実としてあった過ぎ去っていった時に記され刻まれたなにかを、惹きつけるような、なにかしらの重い力が描き出す、弾かれるように分かれ合い、解けるように絡まり合い、果てのないなにかを歪めるように結びつけ、先を閉ざす。


 かすかにした気がして、感じた。ちいさな響き、流れ込む、なにかが、あたった。


 落ちていく、感じる、音のように、な、ぜ。あふれる痛みが零れ、水音だった。澄んだ響きが、緩やかに広がっていく。なにかが緩やかに揺れる光に映し出され、泣き声がした。どこか知らない景色に微かに水音が響く、誰かがうなだれている。水溜まりに涙を落としていた。


「なぜ、泣いてるの」


 問いかけた。


 悲しいから。たしかにそう言った。なぜ、悲しいの。問い返そうとして、その思いを言葉にしなかった。そうだ、いいんだ。あそこには行かないのだから。決めたんだ、終わらせることに決めた。もう、終わらせるんだ。


「めくれそうなそらだよ」


 声がした。確かに聞こえた。


「また、行くの」


 懐かしい。声が届いた瞬く間、感じた。返事をしようと、けど、声が出ない。閉じた目から涙がこぼれていく。


「しかたない。ぼく、なんだ」


 口にして思い出した、目を覚ますと覚えていないことを。眩しさに、遥か遠くにあるはずの思いがはっきりと浮かび上がり、なにも考えられない、ただ、こぼれる雫が、全てを消し去っていくことだけは。


 痛い、痛みが、体を圧し潰すような痛みが走る、逃げたかったんだ、知っている、この先に開いてはいけない。


 いやだ、もう嫌だ、死んだんだ、もう死んだんだから、どうしてまた戻す、嫌だ、きらいなんだ、あの時、殺しただろ、殺したのに、蹴られて殺されたのに、また殺すのか、ぼくを。


 痛い、これは、あまりの痛みに叫んだ。叫びは耳に届かない。聞こえない、声にならない、考えようとしないのに心がかってに動く、またか、またとは、同じ思いが湧き上がったのにわからない。口から出た言葉のわけがわからない。知らない。思い出せない。けど、あったんだ。あった、ぼくを動かしている、なんだ、必死に不可解な空しい白を埋めようと形の合いそうな答えを探す、言葉を、探す、思いに、当て嵌まるような、条件に合うような気持ちを、感覚の情報を、過ぎ去った時の声を、言葉にならない音を、叫びを、悲鳴を探し、空しい白が黒に塗り潰される、不安だ、不安に突き動かされている、足の裏に踏んでいる感覚がない、まるで浮いているような感覚、感覚が強くなる、苦しい、重い、圧される力のようなものを全身に感じているのに気づいた、この痛みは、あまりの痛みに叫んだ。叫びは耳に届かない。聞こえない、声にならない、考えようとしないのに心がかってに動く、凍りつくような熱い痛みを、割れるような頭の痛みを、知っている、ここに来たことがある。辿り着いた答に耐えられず、目を開いた。


「なんだこれは」


 なにも見えない。あるはずの自分の姿も見えない、まるで夜の闇の濃い霧の中のようで、星の見えない夜の空のようにも、光の射さない海の底のようにも感じられる、瞳を動かそうとする、映らない景色から情報らしきものを掴もうと瞳孔が自然に望遠鏡でも覗き込むように遥か遠くを見つめる。考えている、与えられたわずかな情報から近く、似ている値の位置の記された覚え書きを呼び出そうとめくる、光がない、黒い幕になにも浮かんでこない。身を切られるような、焦がされるような痛みが自ずから覚えることの出来ない心の奥深くに沈んでいたものを呼び覚ましたのか、自ずから覚えることの出来る人格であるぼくがあるはずのないものを、実体のない想いを見ているのか、幻のような、過ぎ去った時とは呼べないような現実の記録を解体して再び構成し直した、それは意味を読むことの出来ない、意味を汲むことも出来ない、実は意味のない夢のようなものなのかもしれない、考えていく、痛みは現実にはなくて過ぎ去った時の記録から感覚だけを再び生み出され、繰り返されて、この痛みはなんだ、あまりの痛みに叫んだ。叫びは耳に届かない。聞こえない、声にならない、考えようとしないのに心がかってに動く、この凍りつくような沁みる痛みを、潰されるような頭の痛みを、知っている。ここに来た記録がある、たとえようもない痛みが自ずから覚えることの出来ない心の奥深くに沈んでいたものを呼び覚ましたのか、自ずから覚えることの出来る人格であるぼくがあるはずのない幻の記録を見ているのか、まるで意味を読むことは出来ない、意味を汲むことが出来ない、夢のようなものなのかもしれないそう考える、壊れてしまったのか、感情が形を、色を、象り描いていく、全身が不透明に被われ、息をしようと動かす度に肺が焼けるように赤い、激しくなる鼓動、口から漏れる息が青白く消える、痙攣した身体が音もなく震える、見えないのに色を感じている、湧き上がる暗い感情に翻弄されながらも、理性は冷徹に自ずから覚えることの出来る人格の動きを分析する、ぼくがぼくだと感じている心が、自ずから覚えることの出来る人格が、この痛みを知っている。この場所に来た記録がある。呼び覚ましたのか、光が漏れるように微かな時を刻み光景がとぎれとぎれに幾度となく浮かび上がり、時の間を逆巻いているのか、再び現された心が象り、映した姿はいつしか微かに思いとしてあやふやな中に残されていた幼い時へと変わっていた。


 濁った音に溺れている、響く振動が、鼓動だと気づいた時、開いたのが過ぎ去った解きの扉だと知った、自ずから覚えることの出来る心の奥にあった覚えることの出来ない深い底まで知覚の響きを広げ、見るはずのない過ぎ去った時を見ていた。


 また、ここを見つめさせるのか、また、血を流しながら歩かせるのか、光射すあの丘へと。病んだ者をかきわけ、自らの死を望む愚かな民の群れに、十字の楔を打ち込むために、微笑みを浮かべ逝かせるのか、避けられぬ過ちの世界と知りながら、それでも新たな茨の王冠を冠る者のために紫の衣を深紅に染めさせるのか、痛みと悲しみを叫ばせるために、望むのか差し出される命の罪なき罪を、まだ見ぬ原罪とつなげるために叩きつけるのか茨の鞭を赤に染ませ、また、群れからはぐれた羊を集めるために奇跡という名の祈りを捧げさせるのか。


 真新しい白い部屋の片隅に置かれたテーブルの上で、花瓶に挿された赤い薔薇が萎れていた。輪郭がくすんだ色のない世界に埋もれていく、目覚めの時、雫が零れていく。


 こえがきこえる。なにが、かなしい、それさえわからずにないているのか。


 また生むのか、また殺すのか、かってだなあなたは。


 閉ざされた闇で慟哭した。


 引きちぎられるように痛い身体を狂れるように這い上がる怒りが再び現れた幼い思いで渦を巻く、憎しみが凍りついた身体を震わせ、力を失くした怒りがいつしか、哀しみにもどる。


「また、祈りから生まれるのか」


 光を見た、色が生まれていた。

 感じた、目の前に。


 なにもかもを包む姿を映しているのは涙だった。見つめている。彼は幼き時のように、やさしく微笑んでいた。


「なぜ、呼ぶ。なぜ、苦しめる」


 涙が頬から零れ、闇に線を描く、煌めき、散った。


 鮮やかな光景に瞬きさえ忘れていた。


 見たことはない、しかし、確かにここは、限りない藍で満ちる、そら。


 遥か遠く、あおいきせきにひかれていく。


 おちたような音が響いていた。

 とまったようなときでゆるやかな水面をみた。

 このかんじはなにか、みずからがだいじ、というかたくななおもいがまぶしく広がる波に吸いこまれていく。かんじないうつくしいかんかくにゆりうごかされ、めにしていた光景はしろく、きえ、た。


 あなたはそこについていた。

 知らずに歩いていた目的の地は再び、ここだった。


 「魔法とか魔術とかそんな名をした物語は世界に溢れ返っている。だけど、魔法や魔術を奇想天外や荒唐無稽の当てはまらない、現実にあり得るものとして説き明かしているものを読んだことがない。なぜなら、魔法や魔術は空想で語られる。空を想ってもむなしいだけ、カラだから。心にあるのは空間、宇宙という果てしない空間に星が生まれるようにして心を閉じ込める身体が出来る。おそらくはそれが数や言葉でいえば、音の意味の器として文字にあたる、水を蓄えておくための壷のようなもの。でも、水は必要な時に必要な量を泉まで汲みにいかなければ、ただ貯えておくだけでは、いつか腐る、地下から湧き上がる水は循環されているから清らかさを持つ」


 あなたは水面を見つめている。


「魔術で用いる図形や呪文はその形や色、音の内容がわかってはじめて効力を引き出せる。最も大切なのは実際に動いている力の働いている領域を誤らずに感じること。木に生った実を感じるには、種を蒔き、水を与え、日々の成長の過程で、種が芽を出し、茎が伸び、葉を茂らせ、蕾となり、花が咲いて枯れ、実となり、生った実を食べてはじめて、蒔いた種が美味しい実をつける種だと実際に感じ、その木を知ることができる。ぼくの見つけた魔術の種は多くない。必要ないから」


 顔を上げ視線をぼくに向けた。


「ほんとうは、すべてがよいのために与えられる」


 この呪文さえ忘れなければ、魔術がかかる。

 あなたは素晴らしい弟子。よくここまでぼくの語ることを読んできた。だから、呪文を活かすための奥義を授ける。


「あらゆる自然、動物、植物、好きな人、嫌いな人、すべてが先生であり、大切なことを教えている。あなたの言葉は御心だと知っております」


 本当に、ありがたい。心からそう感じ、そう思い、そう考えるようになったとき、おもいは彼方からの思いと重なる。これが、ほんとの魔術。魔術とは、彼方と出会うための方法であり技術。なんとかすべてを伝えることができた。あとはあなた次第、あなたにとってほんとにいるようであれば、地に雫が染みるように呪文が自然に伝う。

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