第二章 矢を口にする。恵みは的に
「たすけて……」
こえがした、きこえた。なにもみえないやみ、ただ、きこえたこえだけをたよりに走った、かんがえなかった、おもわなかった、かんじなかった、ただ、ただ走っていた、きがついたら走っていた。
まるで尾翼の折れた飛行機、たったそれだけのことなのに、ぼくにできることはかぎられてしまった。
はじめからあのときからわかっていた。いや、しっていた。それでもあがくだけあがく、あがけるだけあがいてみる、けどそれは雲をつかむようにはかない、まるでゆめのような。けして思い通りに書きあがることがない物語を描きつづけて生きているのかもしれない。
「どう、これまででもっともよいできだとおもうけど、讃美歌の序章として」
あまりにもな時間をしわの入った原稿用紙の裏に書いた見やすいとはいえない走り書きを見つめたままの顔に、微笑みを工夫して語りかけたら、わすれることができないあの言葉を口にしたんだ息をはずませ、あなたはたしかに、ぼくがおぼえている笑顔のなかでもっともかがやく微笑でいったんだ。
「そらがみえたよ、めくれそうなそら」
近づいた顔に、おもわず語尾をあげてききかえす。
「めくれそうな、そら」
あなたはおおきく手をうごかしながら疑問に似たきもちに解き明かしをくれる。
ぼくは微笑んでいたのだろうか、口からもれたことばにどんな感情がこめられたのかをおぼえていない。けど、ぼくにもそのまたたくあいだ、めくれそうなそらがみえた、いや、みえたきがしたのかもしれない。
こころに描かれた感情をみつめ、おもいがあふれてことばになった。
「素敵なことばだ、ありがとう。これは一章の題名にいただく」
おもった通りをことばにするとあなたはしずかな表情で見つめた。
ゆっくりとちいさい唇がうごく。ぼくはうごきを目で追う。
あなたと暮らすようになりいつのまにかうまれた癖。音は、はずんでいる、機嫌もそこねていない、意識するともなくあなたが音にかえるかたちが発しているひびきを感じとりながら耳をすませ、声となった音階が描く、きもちの輪郭をおとを繰り返しながらいろのない、はてのないやみにきざむ。
熱いやみが白くなり、灰色に濁る。黒く塗りつぶされるようにかすかな白をうしない、黒は艶やかにあおに、そらになっていた。あいは、いきるいみは。すきとおったアクリル板にとうめいな絵の具で書いてでもあるようにおとのもじが書きかけの手紙のつづきを書いているように、おもいもしないのに、こえになって浮かんでくる、澄んだ碧いそらとともに。
あのときからとまったように、写真のようにこころに焼きついた情景のどこかに、なにかをおいてきた。
「どうしたの」
疑問符のついた音がした。あなたの声はいつわりのない感情をうつしていく。
ただうなずいてみせる。めくれそうなそらをあのとき、ぼくはめくった。
幾度も描き直した讃美歌の書きだしである序章の最終稿、もうこれ以上は無理とおもうくらいほんとは優れていると感じている文章を、小学生の時に作文の競技会で入賞したこともあると口にし、文才の持ち主だと自負しているあなたに入稿の決定を下してもらうために読んでもらっている。
あなたはPCの画面に映し出された世界を指先で確認しながらこころに描き、幾度も原稿用紙をはじめから読み直していく。
不安からか、ぼくはきもちを落ち着かせようと画面をうごかさないようにしてイヤホンをつなげ、耳に差し込み、左隅にちいさく立ち上げていたプレイリストを静かに二度叩いた。
インターネットで試聴して、きにいったので買ったメールオーダでしか手に入らない自主制作の歌。題名も詩も曲も声も、きにいって衝動買いしたけど、あなたにはいってない。
はじめの曲を繰り返していた。幾度目かの再生、幸せは手にとるから幸せなんです。やさしい詩を、声がゆるやかな旋律にのせ、繰り返し繰り返される。
耳に心地よさが広がって、突然あなたの声しか、きこえなくなった。またたく間、あなたの顔がすぐそばにあった。口が、ひらかれている。並べられたおとを声だと認識できた頃、いろの薄い唇が音にしているのが前回に変更した讃美歌の序章だとわかった。
ぼくの目を見つめながら、あなたは暗記するほどまでに読み込んだといわんばかりに、たしか第十二回改稿版の序章を声にしていた。
「なんのために生きるのか、だれもがしりたいと望むはずの答えをしるためにだけ、ぼくは生きた。しったのは、しることがないということだけ。わかったこと。たったひとつだけ、それがぼくの答。あなたが讃美歌を歌えるように、ぼくはできそこないの物語を描き続ける。あなたとともに」
そうだった、きづいた。序章はこれで決定稿としていた事実がよみがえってきた。序章は短いほうが引き込まれやすいというあなたの提案でここまで短くした。だけど結局はまったくことなるものになってしまった。
「で、この序章はどうするの」
疑問符があらたなかたちを壊そうともがこうとも、なにをいわれてもぼくの意志はかわりようがないというところまでかたまっている。
「どうか、な、新しいのは」
不機嫌というわけでもないというような顔で、あなたは少し距離のあるようなことばを選ぶ。
「まったくかわったけど、どんな風に展開するのだろうとおもわせる文章だとおもう」
表情からは良くなったという実感があふれているように、ぼくには感じられる。
「仕事だから」
立ち上がりいうと走るように玄関に向かい、見送ろうと振り返ると、玄関をしめようとしている。
画面の表示を見ると、駅までの道を歩いていくといつもの電車には間に合わない時間になっていた。
「ありがとう」
きもちを声にすると、ほんとに微笑んであなたは半地下の部屋のとびらをしめた。
地面と部屋の窓との狭いすきまから陽が射し、薄緑のひかりが厚手の白いカーテンを照らしている。勢いよくカーテンをあけた。硝子窓と地面の間に狭いベランダがある。ベランダのすきまから見えるそらは青くかわっていた。人の声がする、車が通りすぎる音がつづく。排気ガスに汚れた窓をあけるきにはなれない。
寝不足で疲れている、今日は久しぶりの休日たんまり寝よう、おもいながらなぜかイヤホンを耳に。
楽しげに微笑む青い空の下で頬ばる喜びが映る。とやさしい声で歌い上げられた曲と詩をきいて青空市場という曲だとわかる、一曲だけきいて横になろうとおもい弦のひびきを耳にしたとき、こころが音の世界に浸っていきながらこのひびきがいいんだ、だれもいない部屋のすみでひとりごとをつぶやく。
眠りに落ちようとしている、曲がかわり歌の詩できづく、それが大変なことだと。
かんがえこむ、序章がまるっきり変わる、第一章の微睡にどうやって入ればいいのかわからない。
鼓膜をやさしくたたく声が歩けるひかりの道とおもいを声にのせた。歌の詩がささやく、雪のように透き通る声につぶやき返す。
歩けるひかりの道か、そうか、また、一章から描き直しだな、でも、大丈夫、けして悪くはなっていかない、時間をかけても、けしてあきらめない、純文学でぼくは讃美歌をうたう。
曲が変わる、未来へという題名が、歌が、詩が声が、語りかける。
みんなのために、ぼくのために世界がぼくを必要としている。
聖書の一編だろうか、羊来るから。
おとのない、ひかりのない、ことばがみえ、碧い空の下にいる。
「ぼくはいるの」
あのときの、ぼくがきいた。微笑みながら答える。
「あぁ、そうさ。まちがってない。ぼくはけしてまちがってない」
すべて詰めこんで描いていく、どうなるかはわからない、でも、人生はいつだってそう、はじまりもおわりも自分にはわからない。ほんとは、だれにもわからない。永遠をもとめて生きてきた、このまたたく間の解きを物語にとじこめ、いつか、このたとえ話を紐解けるだれかが永遠のひみつを、彼の物語をぼくが紐解いたように、だれかが紐解く、物語の結末、もとめられている答を。
遥か遠く、そしてきわめて近いあの場で彼が微笑んだ。未来へという曲を、歌の詩を、ぼくがぼくとしてありえないすぎさったせかいにひびかせ、おもいをひらく。
これが彼がおもい、ぼくが描いた序章いや、助走。尾翼の折れた飛行機は全力で全速でこうして飛び立つ。
すべてをうたがいつくしてしったおもいを目指し、あなたに、あなたのこころの奥深く、深淵の向こう彼方にひろがるかぎりないやさしいそらをみせるために、まったくあたらしく書き下ろしていく、だれもきづけないせかいがあなたのなかに立ち上がる。
ひらいた容れ物に入っていた0910と番号を打たれた書類は原稿用紙。短編の小説を読んでも意味がわからないとあなたは感じた。
「ゆりはどうして人がことばを話すのか、かんがえたことがあるかい。どうして人は物語を描くのかかんがえたことはあるかい」
これからいくつかの短編の小説のなかで実際の現実を生きているあなたとはことなるせかいで、ことなる時間のあなたを体験し、これまでにはありえないあらたにうまれるきもちを感じる。それがどのようなきもちなのかは実際のせかいでそのきもちを感覚や感情としてこころに描き、おもてにあらわすあなたにしかわからない。
しかし、おそらく、こころをおおう氷の壁に穴をあけるくらいはできる。どのくらいの穴をあけれるかは、あなたが建てた王国の壁による。
けど、このせかいにあることに感謝して、あのみえないひかりをしんじているなら、きっと射る、彼の透明な。
つぶやき、鈍色の釦を押した。
自分が住んでいるとびらの番号もおぼえていないほどぼくは記憶にたよらない生活をしている。それは記憶とはおもての層としてみずからおぼえることのできる範囲の意識のうみだした物にすぎないから。おもての層としてのみずからおぼえることのできる意識とはたとえると強い風でゆれうごく、水面。魔術師はおもての層としてみずからおぼえることのできる自分で意識していると判別できる範囲の意識ではなく、深い層としての自分では自分の意識として判別することも判断することも不可能な意識の範囲を操ることで魔術をかける。
深い層としての意識とはたとえると海底の流れ。みずから分けられる深い層としての自分だと判断することも判別することも不可能な意識から相手の深い層としての相手が判別することも判断することも不可能な範囲の意識に相手にきづかれることなくかけるのが魔術というきもちを遣う技術の正体。
きづいたら、感じることもなくうごいていて、そのうごきはただしいとみとめられるうごきでないときもちの技術として役に立たない。
きづいただろうか、つかうという字が遣うというこころをはたらかせるという意味の感じにさりげなく変わっていることを。とか、都合のよいいいわけをおもいついたけど、ただ、鍵をわすれて家にいるゆりにあけてとたすけをもとめようとしている、鍵をあけても、時がすぎればみずからうごいてしまるとびらの前で。
「わるいけど、あけてくれるかな」
返事をして、あなたはあけてくれた。
雨も降りだしたし、急いでなかに入らないと。久しぶりだな家をだれかにあけられたの。
昇降機の釦を押す。五階に止まっていた昇降機が番号を下げながら降りてくる。部屋は二階なので昇降機はほとんどつかうことがない。雨が降る時などはたまにこのこじんまりとした三人乗ると警告がひびきそうな昇降機に乗ることもある。五階建ての集合住宅にしてはちいさすぎる昇降機はたまにしらない住人と顔を合わせる居心地のわるい場所。なぜならその時、大抵はよく目立つ紺碧色の制服を着ているから。
昇降機のとびらをでて角を曲がると直ぐに家の前、把手を降ろすと、あいた。そうか、鍵をかけてでなかった。おもい赤茶色のとびらをあける。靴の置き場がない。一人ふえただけで玄関には靴を置く場所が見当たらない。でも両手が荷物でふさがっているからきにならないふりをして、靴をふみながら脱いだ。もちろんふみつけたのは仕事用の安全靴、鉄板の感触が、たしかに。
「いや、わるい、おそくなった。自販機から遠く、店まで買いに行ったから。やっぱりお腹空くだろうし、ときはあっという間にすぎていくから」
両手の袋を持ち上げ、弁当と水を見せながら歩く。
なんか少し歩きやすいような、玄関からの通路に転がしていたビニール袋がすくなくなっている。洗濯物がたまった袋が脇にうずたかく積まれていた。
「ありがとう。まさか片付けてくれるとは意外。もう時間もおそいし、といっても時間はわからないけど、御飯を食べよう。といっても食べながら魔術についての講義はするけど、あなたは魔術をつかえるようになるためにここにいるのだから」
見つめていた画面からあなたは目をはなした。
立ち上げているPCで音楽をきいているようだ、曲名を見るとすぐにわかった。
「うわ、きいたんだそれ。恥ずかしいな。へたな歌をきかれて」
それはぼくが歌って録音したもの。これも魔術の実験と検証のための行動。おもいこみをできるかぎり排除するためには普遍性をもとめるしか道はない。わりに、普遍的とはぼくが住んでいる祈りの家はまったくことなる。五畳しかない狭い家をより狭くしている白い棚に本がたんまり積み上げてある。家にある物のほとんどが塵か本で、あらゆる種類の必要な本がこの狭い家に埋もれている。魔術に必要な知識をためこめるだけためこんだ結果がこの家の姿となっている。それはまるでぼくの頭のなかのよう。
灰色の絨毯には楽に二人が座れるくらいの空間がうまれている、もちろんこうして楽に座れるのは食べ物か塵かもわからない半透明な白い袋をあなたが片付けてくれたから。
ちいさな白い袋の塊がおおきな透明な袋に詰めこまれている。半透明な塵袋の山がちいさな台所の脇の角にできている。
「はい、海苔弁」
基本的にぼくは肉を食べない。だから食べれるものが弁当屋さんにほとんどない。自分の弁当をひらきながら口もひらいた。
「食べながら聞いて欲しい。なにから語ればいいのか、かんがえている。ぼくがためこんだあまりに膨大な知識を三日であなたに理解できるように、氷解できるように、そして、たしかにあなたを魔術師に変えるために一歩目をまちがうわけにはいかない」
揚げたての白身フライに醤油をかけようかタルタルソースをかけようか迷いながら顔だけは微笑みながらいった。
「微笑むのはほとんど職業病。ぼくが警備をしてから五年が過ぎようとしている。ぼくはありとあらゆる職業を経験してきた。その職業を選んだのは占によって。ぼくの占ははずれたことがない。でもぼくは占を職業としてこなかったというか、できなかった。なぜなら占自体が占を職業とすることを拒絶したから」
はずれない占などしんじられないだろう。でも占うことも占が決めるのだからなんでも占っていいというわけではない。占の現実は商業占師であればだれでもしっている。
「はじめに魔術とはなにかという話から語る。きのせいではなく同じことを幾度もあなたが理解できるまで、まるではじめて語るかのように、あらゆる角度から語りつづける、あなたは幾度も似たような、でも同じではないことをこの小説を読みつづけるかぎり聞かされ、そしてぼくの説き明かしをまったくわからなくなるまで理解する。そこまでいけば最後のとびらが自然にひらき、どうしたの」
あなたはぼくの顔と机の上の写真立てとを見比べている。
「この顔は二年前の顔。別人にしか見えないって、でも事実それはぼくでいまのぼくもぼく」
疑問があるのですが、という顔をあなたは向けている。
「どうしてこんな姿になっているのかって、それは魔術のため、ぼくのすべては魔術のためにある。そしてぼくは真実に魔術師となった」
あなたは問いかけて、おかかのまぶされた御飯を口にした。
「いまの歳、見た目とはことなる。体の歳はあまり関係ない、きもちが大切。きもちとはなにかということをぼくは三十年以上研究している。ぼくの前にも、というか人が人としてうまれた時からおそらくはその時代のだれかがこの不可思議なきもちというものを研究してきた。そのはじめの研究の姿がつまりは魔術とよばれる物の実体だろう」
あなたはぼくの話を聞きながら目はことなるところを見つめている。額縁に入っているのがきになるらしい。
「それはぼくの探した魔術のもと、生命の木。ゆりは旧約聖書を読んだことあるかい」
あなたは首を横にふった。
「ぼくの魔術の根はそこにある。ぼくのかける魔術を解き明かすには旧約聖書と新約聖書が必要となる。ぼくは旧約聖書を旧約、新約聖書を新約とよんで区別している。これからあなたが習おうとしている魔術とは彼がつかっていたちからと同じちからを用いてかけるもの」
竹輪を持ちあげようとしていたあなたの箸がとまった。
「おどろいたかな、弁当を買いに行く通りに教会があるから、よく教会の張り紙を見ているんだけど、さっき通ったら、義に飢え渇く者よ。と書かれた張り紙がしてあった」
ぼくは自然に微笑みをもらす。
「天の恵みだ、あなたは運がいい 。とりあえず食べよう。ぼくもおなか空いた。やはり食べることに集中した方がいいね。つづきは食べおわってからに」
あなたはうなずき、ふやけた白身魚のフライを口に運んだ。
小説が読みたいのだけど食べながら読んでもいいですかと、ささやくようにいったので軽くうなずいたら、すでに読みかけの短編があったようで、画面に原稿を出しながらあなたは、口に器をつけた。
「これは仮題で讃美歌という小説。短編に残した謎を、ひとつひとつと短編をつなぐことで、しることになるというあまり小説を好まない者が読んでもおもしろいと感じられるように工夫して描いたぼくの処女作で、ほんとはじめて小説を描いたのでどうやって書いたらいいかわからないで、試行錯誤の連続で、彼のことをどうやったらわかるように描けるのか、とか必死でかんがえたんだほんとに、ほんとに彼を必要とするのは、ぼくが生きるのを必要と感じない者だから」
あなたのきもちは、小説の世界に入りこんでいるらしく、ぼくの声をうつしていない。耳が音をきいてもこころが踊らないなら、無いが舞にかわることも、祈りが誓いになることもないのだけど。
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