第二章 2

 音がした。弱々しい音、扉がたたかれている。

 音がつづく……。


 扉の前に、あなたは立つ。傷だらけの扉を見つめる。

 「二度ともどってこない覚悟で、出て行ったんだよ」

 「ごめん」

 弱い声、泣いている。

 「どうしたの」

 「眼鏡、こわれた」

 「なんかあったの」

 「ごめんなさい」

 泣きながらあやまるだけだった。わずかに扉をあけた。

 「ぼやけてほとんどみえない」

 声がした、廊下の蛍光灯の明かりで片腕を包帯で吊られた姿が見える。顔が笑った。

 「単車壊れた。たすかったのこれのおかげかも」


 手のひらをあけた。鎖の切れた十字架があった。

 あなたは、声にした。

 「まだ、もってたの」

 「わすれてたけど、あった」

 こころがゆらぐ、包み込むような微笑みの記憶が、断ち切ったはずの。


 「失った物はもとにはもどらない、それでもつづける覚悟はあるの」


 うなずくのを見て、激しくあふれた。

 「ことばにして」

 「どんなことになっても、一緒に生きる」


 扉をあけ、手を差し伸ばした。ゆいとは足を引きずった。

 「ごめんな。泣かんで、大丈夫だから、骨も折れてない」


 ゆいとの顔がぐちゃぐちゃに映る。

 腕を肩にかける。玄関に座らせ、靴を脱がせて問いかけた。

 「足は大丈夫なの」

 「切ってるけど、普通にうごくようになるっていわれたから。買ってもらった靴、だめになった。ごめん」

 「痛いの」

 「いまはそれほどでもない。明日から、かなり痛むっていわれた」

 巻かれた包帯が涙でかすむ。

 「メット被ってないのに脳波に異常がないのは奇跡だといわれたよ」


 泣きぬれた顔を見合って微笑み合う。

 「蒲団敷くから待ってて」

 音を立て埃を舞い上げ、腕を抱えるようにして蒲団に座らせた。


 「早く、横になって」


 ゆいとは散乱した本に目をとめ、引き裂いた本の切れ端を手にした。


 「あなたは、殺そうとした。もう必要ないから破ったの」

 「ごめんな」


 見つめた顔がかなしげに微笑む。


 「もういいから。わたしも悪かったよ、もしゆいとが死んでたら、生きていけないから」


 腕を首に回し、横にした。ほっとしているあなたがいる。


 「ごめんな」

 「おなかすいてないの」


 ゆいとはすこしかんがえていた。


 「すいた」

 「わたしも。パンとワイン買ってなかった」

 「彼の生誕の日はパンとワインで祝うんだろ」

 「まってて、すぐ買ってくる」


 靴を履きながら扉をあけた。


 「外寒いよ、もう一枚くらい着たほうがいいよ」

 「大丈夫」

 「財布持ってるの」

 「もってなかった」

 「しっかりしろよ」


 ゆいとが笑った。


 「わかってる」


 衣紋掛けからカーディガンをはがし、静かに扉をしめた。



 「お待たせしました」

 明るい声であなたは扉をあけた。真っ暗な部屋でピアノの音が鳴っている。玄関の明かりを灯し、扉をとじた。


 部屋の明かりをつけた。テーブルの上のPCがひらかれピアノソナタを奏でている。


 ワインとパンの入った袋をテーブルに置いた。蒲団の横に座り、寝顔を見る。子供のような寝顔。まぶたが濡れている、ふいに狂れたような姿が浮んで、痛みが走った。


 鏡に映った顔、ほおが赤い。突きつけられた傷から血がにじんでいる。

 「どうしてわたしと生きることを望むの。ごめんね、ほんとはわかってる。あなたがわるいわけじゃない、だれもわるくない。でも、責めるの」

 声をころしてつぶやいた。ゆいとがまぶたをあけた。

 「ごめん、起こしたかな」

 返事がない、様子がおかしい。

 「ゆいと」

 手を握った。

 目が微笑む。


 冷たい、寒けがして氷のような手をはなした。ゆいとは目をとじたまま眠っていた。視線を感じ、鏡を見た。隣にゆいとが立っている。やさしいとさえ思える顔。


 「あなたが殺すの」

 鏡に映る微笑に問いかける。変わらないやさしい顔、それだけしか表情がないように。

 「ゆいとはわたしと生きていく。かえって」

 思いを叫んだ。


 羽ばたかせ、舞い上がった。舞った羽が落ちながら、きえる。映った姿はそこになかった。

 「ゆいと。ゆいと起きて、ゆいと」

 体をゆする、なんどとなく顔をたたいた。

 「ゆいと、ゆいと」

 嗚咽しながら抱きしめる。

 「讃美歌、消したの」

 声がした、濡れた眼が見つめている。

 「わたしを捨てた。小説は必要ない。覚悟して、約束を破ったのだから」


 見つめる、ふるえるまぶたから涙が落ちる。

「わたしは後悔してない。覚悟して生きてるから、なにがおかしいの」

 「ぼくは笑ってるのか」

 冷静な声でいった。ゆいとは目をとじた。まぶたに涙がたまっていく。わたしは指先でまぶたを拭った。なんど拭っても、涙はあふれる。


 沈黙のときをピアノソナタの曲が繰り返し奏でる。

 「もう一度、讃美歌を描くよ。いまなら失ったものより美しい物語が生まれる」

 やさしい声。

 「ごめんよ。大丈夫だから、ひとりにはしないから」

 やさしいことば。

 「ほんとに」

 「ほんとうさ」

 傷ついてない腕が抱いた。体がかすかにふるえる。

 「どうした、眠っていた間になにかあったの」

 あなたはことばにつまった。刻まれた微笑がこころに刺さっていた。ゆいとが抱きしめた体をはなし、見つめる。

 「もしかして、みた」

 「鏡に微笑が」

 潤んでいく眼が憐れみをうつし、あらたな涙がほおをつたう。


 あなたは手を強く握った。見つめる眼に涙がたまっていく。しずくがとめどなくこぼれ落ちる。

 名前を呼ばれた。

 「ゆり」

 あなたはことばをふさぐ、唇をかさねた。ただ、祈る。


 「ぼくが描いた小説は、おもしろいかい」


 声にきづいたのは読みかけだった短編を読み終わったから。


 あなたは顔をあげた。


 かすかに媚をふくむ潤んだ目で見あげ、なにかいいたげに唇をわずかにあけ、うなずいた。


 すぎさったときに見つめた女の人達と同じ、憂いを感じさせる濡れた目が真実を語っていた。


 手を指先に触れても、腕を引き寄せても拒絶されることはないという確信を抱かせる十分な距離におもいがある。


 「しりたいかい」


 扉を叩くようにやさしくいった。


 あなたはやわらかく目をとじ、うなずいた。


 「桃が食べたかった」


 短編小説でも朗読するように声を発した。


 幾度もみつめたすぎさったときを、もう一度あなたと見つめる。


 「薄暗い部屋の片隅。果肉のわずかについた種。あれを硝子の机越しに見ていたんだ、いま思うと。あの人、ぼくをうんでしまい、耐えられない現実に壊れることを選んだ。いつからだろう、きかないのに、聞きたくもないのに言い訳のつもりでもなさげにいつも、いつもけだるそうにうわごとのように。耳の奥で音がかたまる。甘くなかった、甘かったら、残してあげたんだけど。揺れる視界、にじむ、色のないプラスチックの容器。色鮮やかな皮に包まれるやわらかな果肉を残す種が、濁った果汁に浸かって、幾度となく、透き通った容器を、容器に溜まる香りをしった。暗闇に、かすかな香り、静かな寝息、厚手のカーテンを握りしめるとベットに横たわる女は目をとじていた。溜まった汁が鈍い色を。強い香り、濁ったものは唇に触れ、止めようがなかった。桃が食べられなくなった。きっと、確かにしりたくない。でも、しりたかった本当のことをあの時から、いや、あの時も。掴んでいた容器を塵箱に落す。見つめた。手をさし入れ湿ったものを握った。小さな庭にびわの木があって、実が生るのを見ていた。だからその木の側に埋めた。だけど真実はわからない。種は花をつけることも芽を見せることもなかった。わすれられない痛みを刻むために庭も家もすぐ更地にされ駐車場に変わった。幼き日々をすごした二件目の家も跡さえ残っていない。かなしいとわらうのはいつから。もうだれかに泣かされるのは嫌だと思った長かったやみもいまはない」


 もう一度笑いかける。今度はやさしげに微笑んで。

 「これは、どうかな」

 絵のように加工された青空を写した壁紙を二度叩く。


 あなたは泣きそうな顔を画面にもどし、たしかめるようにゆっくりと短編の仮題を声にした。


 「祈り、か」


 いつわりのない眼差し。頬をしずくが流れていく。


 あふれるばかりのやさしさに満ちたあなた。唇をかさね、刹那ににおいをひとつにしてもいまなら、つたわる温もりさえ拒絶も否定もありえない。


 警戒を解かされたこころがカーソルをうごかしことばをめくる。


 薄紫色で縁取られた原稿用紙に描き込んだ短編の情景が真っ白い幕となってうつしこまれ、白いだけの世界で、祈りが終わりを告げ、あのときが描かれる。


 朝、病院の駐車場に残された幾つもの水溜りが乾き切った空を映し込んでいく、塗り替えて間もない二畳半ほどの病室に壁に染み入るような空気が満ちている。


 分娩室から、もどっていた。


 使い古びたパイプベットに埋れシーツで顔を被って眠っている。


 雨跡の残る窓を抜ける強い陽射しが行き場のない蒸れた空気をとかしていく。


 湿ったシーツを濡らすしたたる汗、眠りから覚めた、泣き腫れた目ににじみぼやける天井が浮かんでいく、いつかの涙が涸れたことをわすれたようにあふれ滑りつく汗と混じりながら頬をつたい落ちる、醜く膨れた後悔が汚れの染みついた天井を白いやみに変える。


 やみが呻いた、呻きが華奢な折れそうなこころを白い夢で被い、覚めることない乾涸びた現実にへばりついた、あなたの、あのときが垂れ落ちた。


 すがるように祈っている、死ぬかもしれないといわれたことがうそのように痛みを感じない体がいつわれない思いだけにふるえている、かすかな雨音がきえ、祈りが終わる。


 授けられた夢が血に濡れた体をだし、願いはシャボン玉のように割れた。


 胸をしめつける終われない後悔が三年前の消えかすれた呻きを呼び覚ます、喜びにあふれる痛みがきえ、とめどなく流れる涙が皹割れた思いの瘡蓋をとかしあらわになった傷から腐った黒い願いが流れて空の一升瓶が薄黒い畳に倒れ。埃を被った蛍光灯がゆれている。女は腹を押さえうずくまった。


 漆喰の壁に囲まれた四畳半の部屋、女はゆるんだ裸をさらけだされ立っている。ひらいた瞳孔で女を見つめ、吐き出すようにさけんだ。


 「あんたが殺さなければ、流産さえしなければ」


 苦しみ悶えていた女がうずくまったまま顔だけもたげ責めるような眼差しを向ける、絶叫がひびいた。


 「わたしじゃない、わたしは悪くない、あいつが、あなたの決めた正光が殺したの」


 女が声もなくわらい、唇をわずかだけうごかした。


 「わたしは決めない。貴美恵が」


 音のないことばが母親の声をとかす、繰り返し繰り返し言聞かせるやさしい声が白昼夢を淡白く染める、うずくまった女が男を見あげた。


 起ち上がる。


 うれしそうに微笑み、覆い被さるように首をにぎる、華奢な両腕に流れる憎しみがいろのない世界に静脈だけを青く浮き上がらせる。


 やさしさの涸れた感情の濁流が女を歓喜で満たそうとした。


 「ころさないで」


 こえにならないさけびをあげ、愛しさがこぼれた。


 均衡のこわれた微笑のはりついた女が男の首を握りしめたまま、唇から温かい赤を流し薄黒い畳にのめり込むように倒れ込んだ。


 鮮やかく赤で塗られた白昼夢で生ぬるい血溜まりに座りこんでいる、赦されなかった思いの屍を抱きかなしそうにわらう。


 きがふれたような涙声を聞き白衣を着た女は扉をあけた。


 患者は天井を虚ろにみてわらっている。


 「多田さん、多田ゆりさん」


 女が名を呼び、肩を揺する。


 視線を白衣にゆらした患者がまぶたをとじ、しずかに透き通ったしずくをこぼした。



 白い指が銀白色の把手にかかったとき、患者は窓際の花を見ていた、扉をとざすくぐもったひびきが白い壁に吸い込まれ廊下を足早に歩く音が遠ざかっていく。


 窓から入りこむやわいひかりが薄藍色の花瓶に挿された萎れた薔薇を照らしていた、あなたは色褪せた花びらをちからなく目にしながらくすんだ赤いやみに沈んでいく正光の人懐っこい笑顔を追いかけた。


 絵のような壁紙のそらから顔を起こす、表情からはきもちが読めない。


 立ち上がり洗面所に向おうとしたら、あなたは後ろ姿のぼくの手を掴み、口をひらいた。


 「たしかにこの短編はいままでに幾人かが読んだけど。読んだ人にいわれたこと、それは感想ということでいいのかな」


 あなたはうなずいた。


 「うれしかったからおぼえてる。狂気に触れるほど悲しい内容ですが、怖いくらい美しい文面です、最近の作品ですか、私、ことばの虜になってしまうかもしれません。だった。でも、現実には、本当には、感想をきいた短編とこれはちがう。そっくりだが似て否なるもの。なぜならその女の人が読んだ短編の主人公はふみえという名で彼をこの世界に落した人だから」


 あなたは、目をとじた。


 ぼくは洗面所に、踏み出そうとしたとき、あなたが手を引き、唇をよせた。


 「いいよ、望むならもうすこしだけときを預ける」


 あなたはもう一つ短編を叩いた、仮題でユメと呼んでいた物語、小学三年生が語り出す、出生の秘密。


 彼に、あなたが会いに行く、こころを落とすように、はかなさに、人の夢に集まるように。

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