第8話 ベスボーできるか?
庭園を離れ、よく手入れのされた花壇の並べられた石畳の道を目的もなくただ歩いていく。
ぺたぺたと素足で進んでいく。こいつは後で足を洗わないといかんな。
「…………?」
そんなふうな暢気なことをぼんやり考えていると、どこからともなく、ぽこんぽこんと何かを打ちつけるような音が鼓膜に響いてきた。
一定のリズムで響いているその音にどこか聞き覚えを感じ、オレはふらふらと近づいていく。
「あれは……」
一瞬、オレはここが異世界なのか疑ってしまった。
なぜならオレの視界の先には野球のグローブをはめて煉瓦の城壁を的にボール投げをしている少女の姿があったからである。
「あ、お前はエイルの婿だな! もう動けるようになったのか?」
オレが佇んで背後から見ていると、それに気が付いた少女は振り向いてそう言った。
そしてミディアムヘアを左右の高い位置で結んだツインテールをぴょこんと跳ねさせながらたたっと駆け寄ってくる。
ヴェスタやエイルとは打って変わり、小柄で幼く活発な印象の子だった。
「こっちに来たやつは普通しばらく召喚酔いで動けなくなるのにすごいなっ」
「その召喚酔いってなんだ? さっきから言われてるんだが。何がすごいんだ?」
ついぞ聞きそびれていたことをオレは訊ねてみる。
すると少女はぽかんとした顔をし、それから自らのこめかみをつんつんと突きながらしばし逡巡する。
どうやら他人に説明するには不安がある程度にうろ覚えだったようだ。
「えーと。召喚酔いってのは儀式で呼ばれたやつがゲートを通ってきた疲労感とこっちの世界の環境に適合するために一時的に体調を崩すことだぞ。詳しい理由とかは忘れたけど。確かそうだったはず。うん、多分。知らないけど」
知らないのかよ。まあ、だいぶ曖昧で自信なさ気だが大体の概要は掴めた。
本当、何となくだけ。
「オレはその立ち直りが早いってことか」
「マヒトは一週間くらい寝込んでたぞ」
雨野のやつ、そんな貧弱だったのか。エースストライカーじゃなかったのかよ。
「エイルの婿はすごいな。もうピンピンしてる」
オレは少女からキラキラと瞳を輝かせた尊敬のまなざしを向けられる。
子供に下心なしに褒められるのはなかなか悪い気はしない。
いや、子供ではないけど。
「つーかオレは別に婿じゃねえよ」
「でもエイルに釣られたんだからエイルの婿殿だろ? あ、ちなみにあたしも数か月後に十六歳になるから儀式をやるんだぞ」
一応この世界にも暦というものはあるのか。というか、こいつ同世代かよ。見えねえ。
「婿って言うな。オレは認知した覚えはない」
ここだけ切り取るとまるで責任感のない男の発言だが、事実なんだから仕方ない。
「ふーん? じゃーなんて呼べばいいんだ? そもそもお前、なんて名前なんだ?」
ひょいと下から覗き込むようにして見つめながら訊ねられる。子犬のような純真な瞳がスレた性根をしているオレには眩しい。
「ジゲンだ。加隈ジゲン」
「ふーん、ジゲンか。わかったぞ。あたしはルナ・エレクトルだ。ルナって呼んでくれていいぞ。よろしくだぞ!」
にっこりと打算のない笑顔を向けてルナは名乗った。
「お、おう。よろしく……」
「ところで、ジゲン。ジゲンはベスボーできるか?」
ルナが右手で握りしめたボールをずいっと突き出してきた。
見間違いではない。白い球体に赤い縫い目。間違いなく野球の硬式ボールだった。
……つうか、ベスボー? 野球ベースボールから来てんのかな。
「こっちにも野球はあるんだな」
オレがポツリと言うと、
「何百年にも渡って異世界から人が来てるからな。きっとそっちの知識や物も結構あると思うぞ。食べ物なんかもいろいろな世界から伝わってるし。ラーメンとかカレーとかハンバーグとか」
「マジかよ。意外と先進的なのな」
「異世界の料理はみんな美味しいけど、あたしが一番好きなのはやっぱりジロウだな!」
「ジロウってラーメンじゃねえの? 食ったことないけど」
ネットの写真で見た限りでは食指が伸びそうにない盛り付けであったものの、それでもあれはラーメンの名を冠していたはずだ。
「違うぞ。ジロウはジロウって食べ物なんだ。じーさまも言ってた」
ルナは言葉尻に(至言)とでもつきそうなくらいクソ真面目な顔で、はっきりと断言したのだった。
「ああ、そうなんだ……」
観念めいた強い意志を感じたオレは速やかに異論を唱えることをやめた。
政治と野球と宗教の話は他人としてはいけないのだ。
そう、ジロウとはある種の宗教なのである。
いや、ひょっとしたら広義の意味では政治かもしれなかった。
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