終章 4
町までの道程を消耗した有里を抱えたまま行かねばならないという問題は、セキュリティ統括部の車を拝借する事で解決した。自分で車を運転する趣味も必要もなかった保坂だが、たしなみとして大学時代に免許を取得しておいてよかったと、この時初めて思った。
聞けば有里は、車はおろか、船舶や小型飛行機、果ては戦車の操縦技術まで身につけているという。そう言えば、訓練プログラムにそんな項目があったなと、保坂は記憶を辿った。
「すごいな。何でも出来るんだな、きみは」
「でも、また今度ね。疲れてるから」
残念そうに有里は言った。
助手席に乗り込んだ有里は、発車して五分も経たないうちに寝息をたてはじめた。彼女が習得した技術の実践の場を欲しがっている事に、保坂は気づいていた。
足がつくとまずいので、この車は適当なところで乗り捨てる必要があるが、生きていればまた別の車を運転する機会もあるだろう。メモリスティックと仮想空間で得た知識や技術に血肉を通わせる事が、少しでも君嶋を失ってあいた胸の穴を埋める役に立ってくれれば良いのだが。
保坂はつと手をのばし、指の背で白い頬にふれた。そこから伝わってくるぬくもりを感じながら、ようやく訪れた安堵を噛み締める。
――生きていてくれて本当によかった。
顔や髪についた汚れは濡らしたハンカチでぬぐっておいた。くちびるをかすかに開いた無防備な寝顔を見ていると、さっきまで彼女がMたちとの死闘を演じていたことすら夢のように思えてくる。
――だが、あれは現実だ。
またしても襲ってきた激情が、鼻の奥をつんとさせた。
有里は、自分が保坂を守るのだと言った。しかし、保坂に備わっている男としての意地は、守られるだけの存在に甘んじる事を拒否していた。それなのに、いざ戦いとなれば彼はあまりに無力だ。Mではないのだから仕方ない、力がないならば他のやり方で彼女を助ければ良いと繰り返してはみても、完全におのれを納得させることは出来なかった。
せめて彼女の苦しみの半分でも背負ってやれれば良いのに――そう思ったとき、ようやく瀬田の気持が理解できた気がした。
「はかせ……」
唐突に有里が呟いたので、保坂は思わず手を引っ込めた。
心ここにあらずといったようすでしばらく宙をさまよっていた視線が、保坂の上で止まった。
「ホサ……カ……?」
まだ夢の中にいる口調で有里は言った。
――うん――保坂はうなずく。
「はかせは……どこ……?」
不安でたまらないというような声が胸をしめつけた。彼女は、まだほんの子供だ。見た目は大きくなっていても、人工子宮から出てから過ごした時間は一年に満たない。
「大丈夫。どこにも行かないよ。だから安心しておやすみ」
差しのべられた手を握ってやると、有里はあるかなきかという力で握り返してきた。力を込めれば砕けてしまいそうな儚さと脆さを、今の有里には感じる。その事に慰められている自分を発見して、保坂はまた鬱然とした気持になった。
(つくづく、僕は……)
そんな彼の内心の葛藤など知らない有里は、あどけない笑みを浮かべてうなずいた。何も怖いことはないと安心したのか、彼女の手の力がすうっと消え、保坂の手のひらからすべり落ちた。
ふたたび眠りについた少女を横目で見やりながら、保坂は胸に溜まった鬱屈を吐き出すように長い息をついた。前方を見やれば朝もやに霞む街並みが広がっている。
(腐っていても仕方がない、か)
そう思い定めた保坂は、自らの頬を一つ張ると、アクセルを踏む足に力を込めた。
おやすみ、ブランヴィリエ 葦原青 @Takamagahara_Yukari
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