狂気 4

「保坂くん!」

 瀬田は椅子を蹴立てて叫んだ。

 有里の能力は、まだ人間を即死させられるほど強力ではない。蓄えられている毒の絶対量が少ないのと、とっさに強力な毒を生成する訓練をまだ受けていないためだ。だが、毒の種類によっては最悪の事態も起こり得る。

「大至急医療班に連絡を!」

 近くにいた同僚にそう言い置いて、瀬田は実験室に向かった。


 通常の入口からでは、実験室に入るまでに殺菌処理や危険物持ち込みのチェックがあって面倒と判断した瀬田は、緊急用の非常扉に回った。案の定、すでに扉のロックは解除され、いつ医療班の人間がやってきてもよいように開放されていた。入室した瀬田は、そこについ数分前には絶対にいなかったと断言できる人物の姿を見出し、たちこめる異臭に顔をしかめるのも忘れてその広い背中に目を奪われた。

「戻って……らしたのですか」

 君嶋は背中を向けたまま、白衣のポケットから右手を出して軽く振り、「ああ」と低い声で応えた。考えてみれば同じ建物内にいたのだ。所長室での用が済めばすぐにでも最上階から地下に降りてくることに何の不思議もない。

「先生……これは」

「話は後だ」

 君島はここで何が起きたのかすでに把握しているようだった。説明の手間が省けたのはよかったが、ほっとしている場合ではない。

 保坂は部屋の隅に寝かされ、医学の心得のある研究員の手によって容態の確認をされているところだった。傷を受けた手のひらが赤く腫れ上がり、熱にうかされたようにうわ言を繰り返している。その声も弱々しく――というより、呼吸自体が浅くて早い。よくない兆候だ。

まさか、有里が成人男子を一瞬で昏倒させるだけの毒を生成できるようなっているとは――否、それだけの素地はすでに出来ていた。だが、毒を他の生物の体内に注入するには、噛み付くか引っ掻くか、あるいはもっと乱暴に四肢を突き入れるかしかないと思い込んでいた。これらの方法はすべて、有里に明確な攻撃意思があって初めて可能なものだ。育成中の事故を防ぐ目的で、すべてのMにはマインドコントロールが施され、A.D.A.関係者を傷つけることが出来ないようにされている。

 なんという迂闊か。苦痛による錯乱――それを危惧しながらも、瀬田があえて実験の強行を看過したのは、多少有里が暴れたからといって研究員が負傷し中毒を起こすような事態にはならないだろうと思ったからだ。

「……なさい……ごめんなさい」

 少女が泣きじゃくる声に、瀬田は我に返った。君嶋の足許には有里が尻を床に落とし、両手で頭を抱えながら、額を床にすりつけるような姿勢で震えていた。

「ごめんなさい……博士……私……ホサカを……ホサカを……」

 瀬田は信じられないものを見たような思いがした。Mが、人間の命を心配している?

「有里」

 君嶋が膝を折って屈み、少女に囁いた。有里は涙でぐしゃぐしゃになった顔で生みの親である科学者を見上げた。溢れ出さんばかりの不安と恐怖の色が、うるんだ瞳の中で揺れていた。

「今日、投与された薬品の分析は済んでいるか?」

「先生――?」

とっさに君嶋の意図がつかめず、瀬田は後で思い返しても間抜けすぎると思える表情で彼を見つめた。

「どうなのだ、有里」

 瀬田を無視して君嶋は有里に問いかけた。しばし呆気に取られたように口をあけていた有里であったが、はっと何かに気づいたようすで激しく首を縦にふった。

「あ、でも――最後に打たれた薬だけはまだ……」

「ならばその分析を行いながら聞け。保坂を傷つけた時、どんな毒を使ったかわかるか?」

 そうか。有里から毒の種類を聞き出せれば適切で素早い処置が可能となり、保坂が助かる確率も上がる。瀬田は突発的な事態に冷静さを欠いていた己を恥じた。

「待ってください。今、思い出します。そうだ、ホサカの症状を診れば――」

 そう言って有里が近づくと、保坂の傍にいた研究員たちが恐怖におののいて左右によけた。

「急げよ」

真剣な表情をして集中をはじめた有里に向かって、君嶋がうなずいた。その時ようやく、ばたばたと足音をたてて医療班の面々が到着した。


 処置が早かったことが幸いし、保坂は一命をとりとめた。

 どうやら後遺症も残らないと聞かされて、瀬田はほっと胸をなでおろした。昨日はずっと意識が戻らなかったが、今日あたり目を覚ますのではないかと聞かされていたので、見舞いに出入りの業者から買ったリンゴを持っていくことにした。

 籠を片手に医務室に向かうと、ちょうど中から一人の女性が出てくるところだった。

「保坂……さん?」

「あなたは」

 向こうも瀬田に気づき、軽く会釈してきた。

「それは、弟に?」

 保坂智慧は、瀬田が持っている籠のリンゴを指して言った。

「はい。間に合わせの籠で、それっぽくしてみたんですけど」

「ありがとう。ユキも喜ぶと思うわ」

 この日の智慧は、グレーのスーツに身をつつんでいた。自分と同じく、仕事の合間に抜けて来たのだろう。報せはすぐに届いていたはずだが、二日も経ってから現れたのは、よほど忙しかったということなのだろうか。家族より仕事を優先させるなんて、鉄の女という噂は本当だったのだなどと昨日までは思っていたが、こうして弟の見舞いに来た彼女を見てすこし安心した。

「あのぅ、保坂くんはどんなようすですか?」

「まだ目を覚まさないけど、心配はなさそうよ」

 そう言ってふわりと笑った智慧に、瀬田は私人としての顔を見た気がした。

「昔から手のかかる弟で……君嶋博士やあなたにも、迷惑ばかりかけているようね」

「いえ、彼はよくやってくれていますよ。今回はその……運が悪かったというか……本当に申し訳ありませんでした」

「謝ることではないわ。私たちは、そういう仕事をしているのだもの」

 智慧は、芯の強さを感じさせる声音で言った。

「では、私はこれで。ユキをよろしくお願いします」

 すれ違う瞬間、瀬田の鼻腔を甘い香りがくすぐった。香水ではない。すぐに医務室には入らず、瀬田は智慧を見送った。きびきびとした智慧の歩き方は、自分の生き方に一点の迷いも持たない者の自信のようなものが感じられた。通路の角を曲がってその姿が見えなくなるまで、彼女は一度も後ろを振り返らなかった。


覚醒めて最初に知覚したのは、真っ白いカーテンごしに射した窓の光だった。

ベッドに寝かされている。自室のものより幾分広い。それに、この壁にしみついたような薬品の匂いは――

(ここは……医務室か?)

 首を動かすと、薬臭さに混じって甘い香りも漂っていることに気づく。見舞い客が持ってきた花でもあるのだろうか。

 何故こんなところに。どうも記憶が曖昧だ。それに――だるい。全身が、水から上がった直後のように重い。

(僕は――誰だ)

 ――保坂勇気。

 大丈夫だ、と思った。生きている。どうやらそれは間違いない。

「よかった! 気がついたのね」

 すぐ横で誰かが叫んだ。弾むような声がずしんと頭に響く。

「あっとと……ごめんね。つい」

 思わず顔をしかめると、声の主は慌てて謝罪した。その声もまだ大きい。

「いや、ちょ……瀬田さん」

 保坂がこめかみを押さえながら言うと、瀬田は気まずそうな笑みを浮かべた。

「でも良かったわ。あなた、丸二日も寝込んでたのよ」

「そんなに……」

「何があったのかは、覚えてる?」

「もしかして、有里の毒にやられたんですか?」

 瀬田がうなずく。ではやはり、あの手刀に見えた棘は幻ではなかったのだ。

「あれが、有里の戦闘形態なんですか?」

「恐らくは第一段階ってところね」

 戦闘形態とは、Mの変身後の姿のことである。開発技術が向上したここ数年の間に生み出されたMは、普段は人間と変わらない外見をしているが、戦闘状態に陥った場合などは、自らの能力を最大限に引き出すためにもう一つの姿に変身する。例えば、犬を素体としたMならば犬に近い姿に、鳥を素体としていれば鳥に近い姿に、というように。

通常、もっとも自然な状態にあるMは、この戦闘形態かヒト型のどちらかの姿に固定される。どちらが優れているという事はなく、これは個体差である。そして、開発終盤に行われる訓練によって、二つの形態を使い分けるすべを身につけるというわけだ。

「有里はまだ変身したことがないから、あれは苦痛に我を忘れ、とっさに防衛本能が働いたと見るべきだと思うわ」

「本能、ですか」

「でも、魚は生まれながらに泳ぎ方を知っているし、人も誰に習うでもなく立って歩くことを覚えるわ。あの子の成長の早さを見誤ったのは、私たち全員の落ち度よね」

 ふう、と瀬田はため息をついた。

「まあ、キミもこうして無事目を覚ましたなわけだし、一安心ね」

「無事……ですか?」

 保坂は、さっきから気になっていた右手をシーツの下で動かした。包帯でぐるぐる巻きになったそれは感覚がまったくなく、左手と見比べた感じではどうやら倍近い大きさに腫れ上がっている。

「それでもけっこう大騒ぎだったのよ。ところで、ユキくん」

「ゆ――ユキくん?」

 唐突に名前で呼ばれて、保坂は何事かと目をしばたかせた。

「お姉さん、いい人ね」

「まさか、来たんですか?」

 信じられないというように保坂が言うと、瀬田は医療室の前で智慧と会った話をした。

「ほら、そこの花瓶に活けて花あるでしょ。前に来たときには無かったから、たぶん彼女が持ってきてくれたのよ」

 瀬田の指さした方に首を向けると、花束から移し替えたらしい色とりどりの花々が目に入った。なるほど、甘い香りの元はこれか。保坂は我知らず顔をしかめた。ユリやカスミソウに混じって一際鮮やかに咲き誇る、毒々しいまでのピンクのバラに、奇妙な胸騒ぎを覚えたからだった。

「なんだかんだ言っても姉弟なのね」

持ってきたリンゴを剥きながら、瀬田はうんうんとうなずいた。

「そうですかね。いかにも体裁を整えただけに思えるんですが」

「そんなことないわよう。あなたのことを話してる顔、本当に優しそうだったんだから」

「瀬田さん、それ、絶対騙されてますって」

「うわ、ヒドイ。あんたたちっていったい何なの?」

 瀬田は何気なく訊ねたが、保坂にとって、その問いは彼女の想像以上に重いものだった。

智慧との関係を、一言で表すのは難しい。

 気がつけば傍らに在った、完璧な存在。

憧れであり、壁であり、軛(くびき)軛(くびき)でもあるもの。

 保坂勇気がこれまで歩いてきた道とは、つまるところその影から逃れるための足掻きであったとも言えるかもしれない。

 ならば何故、姉のいるA.D.A.に入ったのか。

それも結局のところ、月が自ら輝くことで太陽を否定しようとするような、むなしい望みが根底にあったからなのだろうか。むろん、人類の進化という途方もない目的の一助を担えればと思っているのも嘘ではない。というより、そちらのほうが第一の理由であると、保坂は信じている。あるいは“信じたい”という願望にすぎぬのかもしれないけれど……しかし、彼はそう信じていなければならなかった。でなければ、否応なく気づかされてしまう。

月は所詮月である――と。

「どうしたのよ、固まっちゃって」

 ほら、と瀬田が皿を差し出した。切り分けられたリンゴは何故かウサギの形で、肩をよせあうように並んだ姿がなんとも可愛らしかった。

 利き腕が使えない保坂が左手をリンゴにのばした時、医務室のドアがノックされ、人が入ってきた。

「先生――と、それに……」

 保坂と瀬田はそろって唾を飲み込んだ。君嶋の傍らに立って彼の白衣の裾をつかんでいるのは、保坂をかかる破目に陥れた金髪の少女であったからだ。

「見舞いに来させた」

 そう言って有里を前に押しやると、君嶋はくるりと彼らに背を向けた。

「あっ、先生!」

 瀬田が慌てて立ち上がる。有里も不安そうな面持で裾を握ったこぶしを固くしたが、短い「放せ」の

一言で手を放した。

 君嶋の出て行ったドアと有里、そして保坂と視線を動かしている瀬田の表情は、常になく狼狽しきっていた。君嶋を追いかけて行きたいが、ここに有里と自分だけを残していくのが心配なのだと気づいた保坂は、瀬田に向かってうなずいて見せた。

「大丈夫ですよ」

 それでも彼女は数瞬の間迷っているようすだったが、やがて意を決したように頷くと、「ごめん」と言い置いて医務室から出て行った。

 保坂が有里を見ると、少女もまっすぐに彼を見ていた。その視線を受けて、保坂は不意に、二人きりになったこの状況を強烈に意識した。

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